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星を呼ぶアリア  作者: 藤宮花凛
第3章 夕暮れの話
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第21話

 わたしとノア先輩が、その、お付き合い、を始めてしばらく経った頃。ステライールの一員になってから一年近くが過ぎて、わたしが公演に出る回数はどんどん増えていた。元々、全公演を一人で歌っていたフルーリアさんの負担軽減のためにわたしは雇われたわけだから、これはあたりまえのことだけれど。最近は彼とわたしの出演回数は半々くらいに落ち着きつつある。やっと一人前になれたようで、わたしは内心嬉しい。

 でも、変化は嬉しいことばかりではなかった。王都と王都周辺の五つの街のみに降っていた雪は徐々に勢力を増し、今や月の中で雪が降らない日は片手で数えられるほどしかない。生活自体は寒さや雪にどんどん適応してきてはいるけれど、例えばこのまま降雪が国全体に広がれば、取り返しのつかないことになるのは目に見えている。


 それから、戦争の気配。冷気が広がるのと時を同じくして、七十年以上広まることのなかった火薬と鉄の匂いが、徐々にこの国を覆い始めていた。相手は、六年前に新皇帝が即位した西側の隣国。少し前から、薄々感づいてはいたのだ。セトアとノア先輩と三人で王都に行った時、既に街は妙な空気が流れていた。軍人の数が多かったし、ひっきりなしに王城へ入っていく馬車からは微かな火薬の匂いがしていた。


 今のところステライールに直接的な影響はない。でも、争いが始まったときに真っ先になくなるのは文化芸術だと相場が決まっている。この国はとりわけ芸術や文化を重んじる国ではあるけれど、劇場の客席にはちらほらと空席が見えるようになってきていた。

 異常気象に加え、戦火の気配。少しくらい寒くても大丈夫、どうにか生きていける。そう言う明るい空気が、徐々に消え始めていた。



 すっかり慣れた寮の廊下を通り抜け、わたしは談話室の扉を開いた。待ち合わせの相手はうたた寝をしていて、赤い髪が机の上に散らばっていた。わたしがその肩を叩くと、むにゃむにゃと要領の得ない言葉を発しながらノア先輩は起き上がった。


「おはようございます。と言っても昼ですけど」

「ん……あれ、俺寝てたの?」

「それはもう、ぐっすりと。最近よく寝てますね、お疲れですか?

「そうだねー、ここんとこ忙しかったからな」

「お疲れ様です。でも、そろそろ総稽古の時間ですよ」

「そっか、ありがと」


 ノア先輩はぐうっと伸びをして、傍らにあった水筒に手を伸ばした。中身をカップに注いで、一口飲む。


「ヨルも飲む? 紅茶だけど」

「頂きます」


 隣の給湯室からカップを持ってきて、ノア先輩の隣に座る。ほこほこと湯気を上げる紅茶は美味しくて、体がほどよく温まった。ちらりと時計を見る。十五時十二分。総稽古の集合時間は十六時だから、この紅茶を飲むくらいの時間はまだあった。


「本当はラコが作りたかったんだけどさ、最近は香辛料が売ってなくて」

「ああ、軍が買い占めてますもんね。仕方ないんでしょうけど、ちょっと寂しいです」

「ね。……ねえ、ヨル」


 不意に名前を呼ばれた。なんですかと彼の方を見ると、突然抱きしめられた。細い腕がわたしの背中に回されている。先輩の髪がわたしの首筋を撫で、わたしはくすぐったさに肩が跳ねた。


「ちょっと、先輩、お茶が零れますって。するなら一言言って……」

「いちいち訊くなって言ったじゃん」

「そうですけど」


 赤い頭が、幼子のようにぐりぐりとわたしの肩に押しつけられる。子どもっぽいなあ、でもこういうところも可愛いんだよなあ。ノア先輩の頭を撫でながら、わたしは細く息を吐いた。


「ヨル」

「なんですか」

「ごめんね」


 突然の謝罪に、背筋を冷たいものが流れた。イズルさんの憔悴した顔が脳裏に浮かぶ。それはどういう意図の謝罪なのだろう。今甘えていることに対してなのか、それとも。ちらりと談話室の窓に目をやる。外は相変わらず雪が降っていた。


「それは、なんの謝罪ですか?」

「んー、色々」


 わたしから離れたノア先輩が、ちょっと情けない感じで笑った。なんと返せばいいのかわからなくて、「謝られるようなことはされていません」と、それだけ返した。


「ノア先輩」


 なあに、と先輩が首を傾げる。懐から小さな封筒を取り出して、それを彼の手に握らせた。


「明日の公演、お客様として見に来てください」

「いいの?」

「はい。先輩に見に来てほしいです」


 目をまん丸にした後、ノア先輩は封筒をそれはそれは大事そうに胸元へ押し当てた。大きく深呼吸をし、瞳をきらきらと光らせる。


「ありがとう。すごく嬉しい」


 五月の太陽みたいな声が、わたしの鼓膜を叩く。どういうわけかその衝撃で心の防波堤が壊れてしまって、溜まっていた水だか泥だかわからないものが堰を切ってあふれ出した。ノア先輩に無理矢理抱きつく。濁流の勢いそのままに、声帯と舌が勝手に言葉を紡ぎ出した。


「次にお休みが重なった日は、一緒にお菓子を作りましょう。レダさんに簡単なレシピを教わったんです。そういえば、先輩もよく本を読んでいますよね、お互いにおすすめの本を紹介しあいませんか? あ、久しぶりにあの屋上で星も見たいです。いつになるかわかりませんが、次晴れた日に連れて行ってくださいよ」

「ヨル?」

「それから、前に行けなかった創作料理屋さん、再開しているみたいなので行きましょう。跳ね兎亭も新しいお菓子を出したみたいですよ。紅茶に合って美味しいと聞きましたから、今度買ってきますね。あと、面白そうな演劇を見つけたので一緒に見に来てほしいです」

「ヨルってば」

「あとですね、本屋さんにも新しい本がようやく入ったみたいなんですよ。そろそろ新しいお話が読みたくはないですか? 靴屋のお爺さまが先輩に会いたいと仰っていました。そろそろ雪かきのお手伝いに行こうと思っていたので、二人で顔を出しに行きましょうよ。あと、あと……」

「ヨル」


 先輩の手がわたしの肩に掛かって、体を無理矢理引き剥がされる。最後の抵抗で顔を手で覆い隠したけれど、それもあっさりと取り払われてしまう。


「ねえ」

「はいなんですか」

「なんで泣きそうなの?」


 ぐじゅ、とみっともない音をたてて鼻をすする。ぼやけた視界と火がついたように熱い頬で、恐らく自分が相当ひどい顔をしているであろうことがわかった。


「だって、なんか」

「うん」

「ノア先輩、こんなにわたしのこと好きでいてくれるんだなって思ったら、悲しくなったんです、絶対に置いて行っちゃうから、だったら、たくさん楽しいことをしておいて、わた、わたしが……」

「うん」

「わたしがいなくなった後も、楽しいことを思いだすのに忙しくて、悲しむ暇なんてなくせばいいんじゃないかって、そう思ったから」

「うん」

「次、の、約束をたくさんしたくて……」


 言うことを聞いてくれなかった水が、一滴頬を伝っていくのがわかった。適当に擦ろうとしたわたしの手を捕まえ、ノア先輩が手巾で優しく目元を拭ってくれる。


「ばかだなあ」


 ノア先輩が呆れたように笑った。


「そんなこと考えてたの?」

「そうですけど」

「ばかだなあ」

「二回言った……」

「はいはい、ごめん。ほら泣き止んで、総稽古に行かなくちゃ」

「泣いてないですけど」

「さすがに無理があるだろ」


 いつぞやの台詞で反撃されてしまっては反論の余地もない。差し出された手巾を有り難くお借りして目元を拭い、数回ぱちぱちと瞬きをした。大丈夫、大して腫れてもいないし、明日の公演には全く影響しないだろう。カップを給湯室に戻し談話室を出ようとしたところで、ノア先輩がわたしの腕を掴んだ。


「あのさ」

「はい」

「ありがとう」


 あまりにも嬉しそうにそう言うから、胸が痛くて仕方なかった。


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