第20話
十三時二十五分、約束の時間五分前。待ち合わせ場所であるステライールの裏門の前で、わたしはノア先輩を待っていた。いつもは約束した時間の二十分前には到着している人なのに、珍しいな。懐中時計を確認したところで、事務棟の角から赤い髪の男の子がこちらに向かって駆けてきた。
「ごめん、お待たせ。急な仕事が入っちゃって」
「いえ、約束の時間より前ですよ」
ノア先輩は、裾の長いお洒落な外套をきっちり着込んで、首には白いマフラーを巻いていた。いつもより大人っぽいけれど、頬が林檎のように赤いのが可愛らしさを醸し出していた。きっと、わたしを待たせまいと寮から全力で走ってきたのだろう。
「先輩、あの」
「ん?」
「今日、その……素敵ですね」
「そ、か。ありがとう」
勇気を出して言ってみたけれど、思ったより恥ずかしくて顔が上げられない。自分のつま先が雪に埋まっているのを、ただ黙って見ていた。沈黙が気まずい。先輩と二人でいるときの無言が辛いのなんていつぶりだろう。現実逃避気味にそんなことを考えていると、ノア先輩が「ね」と小さく呟いた。
「ヨル、今日は来てくれてありがとね」
「約束したじゃないですか」
「そうだけど」
ノア先輩が照れくさそうにはにかんだ。
「あとね、あのね、ヨルも今日、可愛いね」
「あ……りがとう、ございます」
「うん。あ、ヨルはいつも可愛いよ! でも今日は特別可愛いねって意味で……髪の毛とかいつもと違うし。だからいつもが可愛くないとかじゃなくてね」
「はい、あの、はい。わかりました、ありがとうございます」
たぶん、わたしは今とんでもない顔色をしていることだろう。頬と耳から火が出ていないか心配だ。ノア先輩も首まで自分の髪色と同じにして俯いている。なんだこれ。
「……今日、どこに行くんですか」
「えっと、まずは芝居小屋に行こう。ちょっと歩くけど大丈夫?」
「はい」
粉雪が降る真っ白な街を、わたし達は並んで歩き始めた。
「面白かったですね」
「そうだね!」
映画を見終わった後、わたしとノア先輩は街の大通りを歩いていた。粉雪を被った街は、煉瓦や石畳の色合いも相まって、粉砂糖を被ったお菓子のように見える。降雪のせいか(このところずっとそうではあるけれど)人は少なく、わたし達が二人並んで歩いても問題ないくらいだった。
「南の方の民話が元のお芝居なんですよね。わたしは知らなかったんですが、先輩は知ってますか? あ、先輩だったら民話が生まれた頃のことも知ってたりします?」
「うん、ううん!」
「どっちですか」
「知らないや!」
隣を歩くノア先輩は、全身の血液が凍ったかのようにかちこちだった。背筋は異様なくらい真っ直ぐだし、歩く姿も妙にぎこちない。子どもの頃一度だけ見たからくり人形の動きに似ている。体中のありとあらゆる関節がバネ仕掛けにでもなっているようだった。
「ノア先輩、大丈夫ですか?」
「大丈夫! 大丈夫だよ、大丈夫!」
大丈夫だと繰り返すノア先輩の声は固い。笑顔もなんだかぎこちなくて、これで隠せていると思っているなら逆に感心してしまう。わたしは足を止め、しかめっ面をしてみせた。
「全く大丈夫には見えませんが……もしかして体調でも悪いんですか」
「違うよ!?」
「自覚がないだけかもしれないじゃないですか」
手袋を取り、先輩の頬に手を当てる。特に熱があるようには感じない。頬は赤いけれど、これは空気が冷えているせいだろう。でも、発熱していないからと言って元気だとは限らない。この人隠すの上手そうだからなあと、わたしは彼の目をのぞき込んだ。
「ずっと変な天気が続いてるんですから、具合が悪くなったっておかしくないんですよ」
突然、先輩の表情が陰った。
「それは関係ないよ」
ノア先輩の声はひどく平坦だった。油性の絵具で塗り潰したみたいな暗い目に、わたしは息を飲む。今朝のイズルさんの言葉が思い出され、わたしの背を冷たい汗が伝っていった。あの場では突っぱねてしまったけれど。まさか。
「先輩」
「え、あ、ごめん。心配してくれてありがと! でも大丈夫だから。長いこと寒い地域で暮らしててさ、寒さには強いんだよね!」
打って変わって明るい笑みを浮かべ、ノア先輩がひらひらと右手を振る。先輩。もしかして本当に、この雪はあなたが振らせているんですか。訊きたかったことは一旦全て飲み込んだ。きっと答えてはもらえないだろうし、なにより訊くのが怖かった。「そうだよ」と答えられた時、どうするかの覚悟がまるでなかったのだ。
「ヨルもトグリの出身なら、雪には慣れてるでしょ?」
「そ、そうですね」
「だよねえ、雪道の歩き方が様になってるもん」
えへへ、と溶けた声でノア先輩が笑う。話してもらえない寂しさと、訊けない情けなさと、二人でいることの嬉しさと、赤い髪の男の子に対する愛おしさ。目元は熱いのにお腹の底は冷たい。めちゃくちゃに崩れた生菓子みたいな気持ちで、わたしは不格好に笑った。
「ノア先輩」
「ん?」
「好きです」
その瞬間のノア先輩の表情を、わたしは一生忘れないと思う。耳まで真っ赤になって、乾いた唇がぱくぱくと開閉する。大きな瞳がきらきらと輝いて、まるでその中に星があるようだった。
「え、うそ」
「こんな悪趣味な嘘は言いません。というか、前にも言ったことあると思いますけど……」
「そう、だけど! なんか違うじゃん! あの時は!」
「それは……まあ」
ノア先輩は両手で顔を覆って、低く呻いた。
「俺が先に言おうと思ってたのに!」
「やっぱりそうなんですか」
「あ……今のなし。忘れて」
「さすがに無理があるでしょ」
しれっとそう返すと、彼の頬が林檎みたいに丸く膨らんだ。すごい、本当にこんな可愛い怒り方する人いるんだ。一方的にやり込められているのが悔しいのか、先輩は乱暴に頭を掻いた。それからわたしの手を掴み、そこらの雪を蹴散らす勢いで歩き始めた。
「お返事、してくれないんですか」
「ヨルが忘れた頃に俺から言うもん」
「こんな大事なこと忘れませんよ」
ノア先輩はちらりとわたしを振り返り、すぐに前を向いた。
「いいから! 俺にも色々段取りがあるの!」
段取りって。その、告白の、だろうか。ノア先輩の背中を見ながら、わたしはぱちぱちと瞬きをした。そういえば、芝居小屋の見物券も事前に買っていたようだし、この人なりに色々と計画をしてくれていたのかもしれない。そう思うと、胸と喉の辺りがぎゅっと熱くなった。可愛い。ものすごく、可愛い。僅かにお腹の底にへばりついていた冷たさも吹き飛ばすくらいに、わたしの心は温かくなった。
「どこに行くんですか」
声が浮つきそうになるのを一生懸命押さえる。次のところも計画の内なんだろうか。そう思うと、もうどこに連れて行かれても嬉しくなってしまう気がする。ノア先輩からはわたしの表情が見えないのをいいことに、緩む頬を引き締める努力は一切合切放棄した。
「ご飯食べに行く。そろそろお腹空いたでしょ?」
「そうですね。どんなお店に行くかは……」
「それは内緒」
「わかりました。ふふ、期待してますね」
「任せろー!」
黒い外套を纏った背中が、なんだかとても頼もしく見えた。
の、だけど。
「わああああああああああ!」
煉瓦造りの壁に深緑の扉と黒い屋根がお洒落なそのお店は、南部地区の郷土料理を元にした創作料理のお店らしい。なるほど素敵だ。けれど、ノア先輩は扉のノブに掛けられた看板を見た瞬間にものすごい悲鳴を上げた。
真新しい木の板には「水道管が破裂したため十七日までお休みさせていただきます」と書いてあった。
「予約取ってなかったんですか?」
「……」
取っていなかったらしい。基本的にしっかりしているはずなのに、最後の詰めが甘いのはノア先輩らしいな、と思った。しょんぼりと肩を落とす彼の背に手を当てて、「元気をだしてください」と励ます。落ち込んでいる先輩が見たいわけじゃないのだ。
「他のお店探す。ごめん、歩ける? 疲れてない?」
「元気いっぱいですが、休息日の夜ですよ。この時間からじゃ、どこも混んでいると思います」
「ううう」
「今日はもう帰って、食堂でご飯を食べませんか。なんなら生菓子でも買って食べればいいですよ」
「食堂で告白なんかできないよ、みんないるもん!」
この人は隠し事が上手いと思っていたのだけど、盛大な勘違いだったようだ。わかりやすいどころかなにもかも自分からさらけ出している。本当に体調は大丈夫なのだろうか。さすがにちょっとおかしくはないだろうか。思わず半眼で見つめると、彼はハッとしたように目を見開いた。
「待って今のなし!」
「だから無理があるんですって、それは」
ノア先輩はすっかり意気消沈して、しゃがみ込んでしまった。もはや涙目になっている。気の毒だと思うわたしと愉快だと思うわたしが頭の中で喧嘩を始めて、結果愉快だと思う方が勝った。ごめんなさい、先輩。でもあなたが悪いと思います。
「そうですか、ノア先輩はここでわたしに告白をしようとしていたんですね」
「あう」
「素敵なお店じゃないですか。意外とロマンチストなんですね、先輩」
「うう、ううううう」
「さっきからずいぶんソワソワしていらっしゃいましたものね。納得です。それじゃあステライールに帰りましょうか。食堂のご飯も美味しいですよ」
「うう、ばかばかばかっ! 大事な大勝負をいつもの食堂でなんかやだっ!」
「わたしだって、なにも食堂がいいってわけじゃないですよ」
わたしはわざとため息をついた。
「じゃあなんです、十七日まで待てばいいんですか」
それから、意気地なし、悔しかったら言ってみなさいよ、みたいな生意気な顔で笑って見せた。ノア先輩はびっくりしたように目を見開いて、顔をぐいぐいと拭った。
「ヨル」
立ち上がったノア先輩が、とびきり優しい顔でわたしを真っ直ぐに見つめた。
「はい」
「好きだよ。本当に、大好きだよ」
雪は相変わらず降り続けていて、見える世界の全てを白く塗り潰すかのようだった。なにもかも白く霞んだ風景の中で、目の前に立つ男の子の赤い瞳だけがはっきりと輝いている。ぼんやりとけぶる呼気に、ああ、この人も生きているんだなあと、この人が好きだなあと、そう思った。
「ヨルさん」
「はい」
「抱きしめても、いいでしょうか」
「……いちいち訊かないでくださいよ」
ノア先輩が、おずおずとわたしの背中に手を回す。硝子細工を扱うような力加減がじれったくて、わたしは先輩のことを力一杯抱きしめ返した。先輩は驚いたように肩を揺らし、それからほんの少し腕に力を込めた。
「俺が、星の子どもじゃなかったらいいのになあ……」
その声があまりにも寂しそうだったから、わたしは泣きそうになってしまった。
わたしはいつか、絶対にこの人を置いて行ってしまう。一緒にいたいと願うこと。ずっと側にいたいと願うこと。願い事は、実現しそうにもないから願い事になるのだ。
結局、わたしにこの人を幸せにする覚悟はあるのかはわからないままだった。そもそも、幸せにする覚悟ってなんだろう。気持ちがあってもなくても、結局幸せにできなければどちらにせよ同じだ。だとしたら、今の気持ちに素直になって、あとは一生懸命頑張るしかないのではないだろうか。あんまりわたしらしくない考え方だとは思うけれど。でも、大好きだから仕方がないとも思うのだ。
「わたしも、永遠に生きていられたらいいのに……」
一緒だね、とノア先輩が呟いた。思っていたよりずっと華奢な体を抱きしめながら、わたしは雲に覆われた空をじっと見つめていた。




