第22話
さて。これからここに記すのは、わたしの人生で一番怒り、一番泣き、一番喚いた恋人との喧嘩の記録である。宇宙を探したってこんなにワガママで迷惑な痴話喧嘩はなかったと断言できる。なにせ八つの街を──いや、世界を巻き込んで滅ぼす一歩手前までいったのだ。世界中の人に怒られて、卵を投げつけられても文句は言えないだろう。それでも、わたしたちには必要な喧嘩だったのだ。
それは銀色の砂みたいに乾いてさらさらとした雪の降る、冬の日のことだった。
照明が完全についたのを横目で確認し、わたしは顔を上げた。今日の夜公演は珍しく板付きで開演だ。ヴァイオリンの音色が滑らかに静寂を切り裂く。大丈夫、今日も調子は上々。一度舞台に立ってしまえば、わたしはわたしの能力に一切の不審を抱くことはない。黄金色の光を浴びて、わたしはゆっくりと一つ瞬きをした。
客席に座っているだけでは想像もできないことだけれど、舞台の上から客席はよく見える。火でも焚いたように轟々と血潮がうなりを上げている体は、観客一人一人の顔を驚くほど細かく捉える。逆に、会場全体の雰囲気も。劇場が巨大な一つの生き物で、その鼓動や筋肉の動きを見ているような錯覚に陥るのだ。楽しいんだな、とか。悲しいんだな、とか。そういうことが、理屈ではなく感覚でわかるのだ。
(どこだろう)
客席を目線だけで見回しながら、わたしは赤い髪の少年を探していた。昨日入場券を渡した時、必ず行くと何度も言ってくれていたのだけど。贈ったはずの「こぐま」の席を全て確認しても、彼の姿はどこにもなかった。急用で駆り出されているのだろうか。それにしては、舞台袖に慌ただしさはあまりなかった。
だとしても、わたしのやることは変わらない。招待した人が来なかったからと言って、手を抜くなんて論外だ。彼のことは意識から外し、歌うことに全てを注ぐ。寒さと火薬の匂いで曇った人々の心を晴らすように。
そうして、最後の音が空気を震わせる。わたしの声が、ヴァイオリンが、コントラバスが、チェロが、楽隊の音が溶けて消えていく。結局、彼は客席に現れなかった。大丈夫だろうかと思案しながら、わたしは客席に向かって膝を折った。上手、下手、正面。三度の礼を終えて頭を上げたとき、わたしの視線は一点に吸い込まれた。ひときわ目立つ、赤い髪の少年が客席の通路に立っている。ノア先輩だ。やっと来た。彼は肩で息をしながら、じっとわたしを見つめている。なにかを言い淀むように口を開閉させ、それからぎゅっと唇を引き結んだ。
(なんで、あんなに泣きそうな顔をしているのだろう)
赤い目がきらきらと危険な色の光を放つのが、ここからでもはっきりとわかった。なにかあったのだろうか。はやく様子を見に行かないと。どうにも胸がざわついて、わたしはほんの少しだけ早足で舞台袖へと戻ろうとした。
その時、大きな音がした。
凄まじい轟音が響き渡り、地響きと共に劇場がみしみしと揺れた。たちまち甲高い悲鳴と怒号で劇場がいっぱいになる。なにが起きているのかを理解できないまま、わたしは舞台に膝をついた。
地震? 爆発? いや、違う。これは……。徐々に裂け始める劇場の天井を、わたしは呆然と眺めていた。裂け目からは、銀色の砂みたいな雪がどさどさと落ちてきている。たぶん全壊するのは時間の問題だろう。避難警報がけたたましく鳴り響き、団員達がお客様の避難誘導のために客席へ走っていく。
(……。あ、)
ひときわ凄まじい音がした。直上の天井が大きく裂け、人一人殺すには十分な量の雪がわたし目がけて降ってくるのが、コマ送りのようにゆっくりと見える。あ、助からない。セトアがなにかを叫んだのがわかったけれど、聞き取ることができなかった。雪が照明を反射して美しく輝くのを凝視しながら、わたしは意思を失ったように微動だにしなかった。
雪が額に触れる。相応の質量を持ったそれが、わたしの頭骨を砕き、背骨を折り、手足を粉々にする──とは、ならなかった。体の右側にものすごい衝撃が走って、わたしはそのまま軽々と吹っ飛ばされた。
「ヨル、大丈夫!?」
ノア先輩の焦った声が耳に届く。数秒固まってからようやく、わたしは状況を理解した。ノア先輩がわたしを突き飛ばして助けてくれたのだ。
「……だいじょぶです」
びっくりした。自分の耳に届いたのは、これが本当にわたしの声かと疑ってしまうほどにみっともなく揺れた声だったから。ついさっきまで悲しそうな彼を慰めようとしていた自分が半分泣いているのに、人ごとみたいに驚いた。同時に、今更恐ろしさに震え上がる。周囲に散らばった大量の雪。ノア先輩が助けてくれなければ、確実に体がぐちゃぐちゃになっていた。すっと血の気が引いて、視界が薄暗くなる。なんとか感謝を告げると、ノア先輩は弱々しく微笑んだ。
「間に合ってよかった。火事場の馬鹿力ってやつだ」
「はい……」
「あのね、ヨル」
「なんですか」
「あの、あのさ」
彼が大きく息を吸う。その時、ぼろぼろの劇場に真っ黒いなにかが次々と飛び込んできた。よく見るとそれは黒いローブを着た人間だった。背中に王国の紋章が描かれている。あ、きっとこの人たちが、ノア先輩の監視役なんだ。直感的にそう思った。彼ら彼女らは、隼のような素早さでノア先輩の元に駆け寄って来る。イズルさんの話によれば、あの人たちとノア先輩は定期的に会っては話をしているらしい。この緊急事態だ、保護をしてくれるのかもしれない。少し安心して、わたしはノア先輩の顔を見上げた。
「よかったですね、先輩。お知り合いの方々が……」
その瞬間、わたしは言葉を失った。彼の顔は雪よりも白く、瞳は怯えと悲しみで昏く鈍く揺らいでいた。ぐっと歯を食いしばる。この表情だけでわかった。彼ら彼女らと共に行くことを、この人は望んでいない。
「ノア先輩!」
決断に時間はいらなかった。華奢な手をしっかりと掴んで、わたしは絶叫に近い声で先輩のことを呼んだ。
「走って!」
二人分の靴に蹴散らされ、雪がふわりと舞い上がった。追いかけてくる怒号と悲鳴は振り切って、伸びてきた腕は叩き落とす。今この時、わたしの最優先はこの人だ。他の人間の喉が枯れようが、腕に痣ができようが知ったことか。どうでもいい。黒い人影を無我夢中でくぐり抜け、時には体当たりで強行突破し、劇場の外へと飛び出す。白い悪路を全力で走りながら、わたしは息も絶え絶えに口を開いた。
「怖いなら、怖いと言ってくれなくちゃ、困ります」
不安定だった彼の足取りが、ほんの少し生気を取り戻した。ちらりと後ろを振り返り、わたしは強気に笑って見せた。
「守って、あげられないでしょう」
冷たい手が、痛いほどに握り返してきた。絶対に、絶対に離してなるものか。そう固く決意して、わたしはひたすらに走った。
夜はどんどん更けていく。




