第5話 悪魔の契約
顎を持ち上げられたまま、エルヴィラは視線を逸らさなかった。
革手袋越しに伝わるセドリックの体温は、凍てつく夜風よりもなお冷ややかだったが、その奥にある圧倒的な覇気が肌を刺す。
「いい度胸だ。公爵家の令嬢など、俺の前に立てば震えて声も出ないのが常だがな」
「震えて命乞いをする時間があるなら、生き残るための一手を打ちますわ。それが、泥濘の中で育った私の処世術ですので」
セドリックはふっと指先を離すと、手すりから身を起こした。長身の影が月光を遮り、エルヴィラをすっぽりと覆い隠す。
「貴様の差し出した密輸船の情報、真偽を確かめさせてもらう。もし狂言であれば、その首が胴から離れると思え」
「どうぞ、お好きなようにお調べください。今夜未明、帝都第三波止場に入港する『黒鴉号』――積荷の底板を剥がせば、アデルヴァイト家の刻印が入った未精製の魔導鉱石が、ぎっしりと詰まっておりますわ」
エルヴィラは淀みなく告げ、冷たく微笑んだ。
「そしてその船の手配書に署名したのは、我が愛する義姉ロザリアの『実印』です。彼女は何も知らず、ジュリアン様に言われるがまま書類に判を押しましたの。自分の首を絞める縄とも知らずに」
「……己の姉すら、盤上の捨て駒か」
「捨て駒ではありませんわ。彼女自身が望んで『主役の座』を奪い取ったのです。――ならば、その結末の責任も、彼女自身が背負うのが筋というものでしょう?」
セドリックの氷藍の双眸に、暗い愉悦の光が宿る。
無垢な被害者を気取るでもなく、同情を引こうとするでもない。己の悪意と知略を隠すことなく晒し出し、堂々と取引を要求するその姿は、宮廷に巣食うどの貴族よりも毒々しく、そして美しかった。
「面白い女だ。……契約は成立だ、エルヴィラ」
セドリックは懐から、細工の施された黒曜石の印章指輪を抜き取ると、エルヴィラの細い薬指へと無造作に嵌めた。
ひやりとした重みが指先を支配する。皇室直属、ガイストハイム家の紋章が刻まれた極秘の証だ。
「明日正午、公爵邸へ帝室の勅使を遣わす。貴様を我が『第一婚約者』として宮廷へ召し上げる詔勅だ」
「随分とお早い段取りですこと」
「貴様を生贄に捧げようとしている豚どもへの、これ以上ない挨拶代わりだ。――だが忘れるな」
セドリックはエルヴィラの耳元へ顔を寄せ、低く、甘く、冷酷に囁いた。
「俺の手を取り、この悪魔の契約を結んだからには、後戻りはできん。公爵家を解体し、貴族院の膿をすべて吐き出させるまで、貴様は俺の掌の上で踊り狂え」
「ええ、喜んで。――ただし殿下」
エルヴィラは顔を上げ、セドリックの唇のすぐ間近で妖艶に微笑み返した。
「私をただの踊り子だと思わないでくださいまし。……舞台が跳ねたとき、最後に玉座で笑っているのは、この私かもしれませんことよ?」
「……フッ、ほざけ」
セドリックは短く嘲笑を残し、漆黒の外套を翻して夜の闇の中へと消えていった。
一人残されたテラスで、エルヴィラは薬指の黒曜石を見つめた。
冷たく輝く指輪は、彼女が地獄から這い上がるための、最初の、そして絶対的な武器。
ガラリと音を立てて、バルコニーの扉が開いた。
「エルヴィラ! こんなところで何を油を売っているの!」
現れたのは、苛立ちを隠そうともしないロザリアだった。その背後には、醜悪な笑みを浮かべたボルドー侯爵と、取り巻きの貴族たちが控えている。
「ボルドー侯爵閣下が、わざわざあなたにお声をかけてくださるそうよ。ほら、みっともない格好をしていないで、早くこちらへいらっしゃい!」
ロザリアは勝ち誇った顔で、エルヴィラの腕を掴もうと手を伸ばす。
だが、エルヴィラは指輪を嵌めた左手を胸元へ隠し、至極おとなしい態度で優雅に一礼した。
「ええ、ロザリアお姉様。……明日には、すべてが決着いたしますわね」
「ふん、物分かりが良くて結構だわ。せいぜい侯爵閣下に可愛がってもらうことね!」
嘲笑うロザリアの向こうで、帝都の夜空に不吉な暗雲が立ち込めていた。
明日の正午、この公爵邸を揺るがす「破滅の使者」が訪れるとも知らずに、愚者たちは最後の美酒に酔いしれていた。




