第4話 氷の皇子との逢瀬
夜風が、バルコニーの手すりに絡みつく真紅の薔薇を冷たく揺らしていた。
広間から漏れ聞こえる管弦楽の調べも、ここでは遠い潮騒のようにかすれて響く。
手すりに背を預けたまま、セドリック・フォン・ガイストハイムは手元のグラスをわずかに傾けた。
琥珀色の酒面に揺れるのは、冷ややかな月光と、漆黒の仮面の奥で凍てつく氷藍の双眸。
「――共犯者、だと?」
低く、地を這うようなバリトンが静寂を切り裂いた。
わずかに漏れ出た威圧感だけで、並の貴族ならその場に膝をついて慈悲を乞うだろう。帝国の辺境で幾千の敵を屠り、「冷酷無慈悲の軍神」と恐れられる男の覇気配だ。
だが、エルヴィラは藍色の裾を乱すことなく、静かに顎を引いて微笑んだ。
「ええ。あるいは、殿下が喉から手が出るほど欲している『鍵』の持ち主、と申し上げるべきでしょうか」
「言葉を選べ、小娘」
セドリックは一歩、音もなく間合いを詰めた。
「貴様がアデルヴァイトの血を引く者だということは、その紫紺の瞳を見ればわかる。だが、我が前に立つ者がすべて生きて帰れると思うなよ」
「無論でございます。刃を前にして震えるほど、愚鈍に生きてはおりませんわ」
エルヴィラは一歩も引かず、冷徹な視線を真っ向から受け止めた。
その双眸に宿るのは、怯えではなく、すべてを焼き尽くす覚悟を決めた者特有の静謐な光芒。
セドリックの眉が、わずかに動いた。
「面白い。……言ってみろ。その細い喉がへし折られる前に」
「単刀直入に申し上げます。殿下は今、帝国監査局を動かし、アデルヴァイト公爵家が牛耳る『魔導鉱山利権』と『帝都関税』の不正を暴こうとなさっていますね? けれど、決定的な証拠が掴めず、手詰まりになっている」
「…………」
セドリックの纏う空気が、一瞬で殺気を帯びた。
それは皇帝とごく一部の腹心しか知り得ぬ、帝室の極秘任務。なぜ、公爵家の片隅に追いやられた日陰者の小娘が知っているのか。
「なぜなら、公爵家の帳簿は巧妙な三重構造になっておりますから。表向きの帳簿、貴族院へ提出する査察用、そして――真の裏帳簿。それを編み出し、すべての数字を管理していたのは、他でもない私です」
「お前がか」
「ええ。母や姉は私を無能な雑用係と侮り、すべての実務を押し付けました。ですから……公爵家がどのルートで魔導鉱石を横流しし、どの門閥貴族へ賄賂を流しているか、その金の流れはすべて私の頭の中にございます」
エルヴィラは懐から、一通の小さな羊皮紙を取り出し、セドリックの前へ差し出した。
セドリックがそれを受け取り、一瞥する。
書かれていたのは、今夜まさにこの会場で取引される予定の、ボルドー侯爵と公爵家の裏取引――密輸船の入港日時と隠し倉庫の暗号だった。
「……なるほど。今夜、ボルドーの豚が貴様を買い取ろうとしていた理由が分かった。口封じを兼ねた生贄というわけだ」
「ご明察ですわ。けれど、私は誰かの生贄になる気など毛頭ございません」
エルヴィラは仮面を外し、白磁の素顔を月光の下に晒した。
紅潮した頬には、母エレオノーラに打たれた紅い掌の痕が生々しく残っている。だが、その傷跡すらも、彼女の冷艶な美貌を引き立てる凄絶な装飾に見えた。
「私を買い取っていただきたいのです、セドリック殿下」
「俺にお前を娶れと? 傲慢だな。貴様のような毒婦を側に置けば、寝首を掻かれかねん」
「毒を恐れていては、腐りきった帝国を統べることなど叶いませんわ」
エルヴィラは蠱惑的な笑みを深め、囁くように言った。
「形だけの婚約で結構。私に殿下の『契約妃』という盾をくださいまし。さすれば、アデルヴァイト公爵家の息の根を止め、その利権のすべてを殿下の御手元に差し出してみせます」
「俺に公爵家を売るか。実の生家だぞ」
「生家など、私を泥濘に閉じ込めた檻に過ぎません。――奪われたものは、利子をつけてすべていただく。それが私の流儀です」
静寂がテラスを支配した。
冷たい風が二人の髪を揺らす。
セドリックはふっと、低く喉を鳴らして笑った。それは冷酷な軍神が見せる、獲物を前にした獣のような凶暴な笑みだった。
「いいだろう。貴様の狂気、買い取ってやる」
セドリックの冷たい革手袋を嵌めた指先が、エルヴィラの顎を乱暴に持ち上げた。
至近距離で交わる、氷藍と紫紺の瞳。
「ただし、契約が成立した以上、貴様の命も魂もすべて俺の駒だ。途中で逃げ出すことは許さん」
「望むところでございますわ。――私の主爵、冷酷なる殿下」
広間では今まさに、ロザリアとボルドー侯爵がエルヴィラを売り払う算段を終えようとしていた。
自分たちが招き入れたのが、公爵家を根底から喰らい尽くす「最凶の共犯者たち」だとは、夢にも思わずに。




