第37話 海を縛る関税条約
謁見の間に、張り詰めた沈黙が落ちていた。
床に転がる特殊信管を見つめたまま、マルコ・フォスカリは喉を鳴らした。
背後に立つセドリックが佩刀を完全に抜き放つことはなかったが、その切先が放つ冷気だけで、特使の言葉を封じるには十分だった。
「選ぶ権利はない、とおっしゃいましたな……エルヴィラ公爵」
マルコは震える指先で額の汗を拭い、掠れた声で問いかけた。
「我が都市を敵に回せば、ガイストハイムの海運は完全に止まります。それは帝国にとっても自傷行為のはずだ」
「止まるのは、貴都市の商船が自由に暴利を貪る特権だけですわ」
エルヴィラは手元の羊皮紙を取り上げ、マルコの足元へ滑らせるように差し出した。
「条約の改定案です。第十条まで、声に出して読み上げましょうか?」
マルコは膝をつき、差し出された条約書を拾い上げた。そこに並ぶ冷徹な箇条書きに目を走らせるたび、顔色が白から土色へと変わっていく。
「ば、馬鹿な……! 第一条『帝国内におけるポルト・ヴェッキオ商館の資産凍結解除の条件として、過去五年間の不正免税分の追徴金、金貨十万枚の即時納付』!? さらに……第四条『ガルディニア帝国へ向かう全船舶の積載目録を、出港の七十二時間前にガイストハイム監査局へ事前開示すること』だと……!?」
「ええ。加えて第七条、我が公爵領で生産された新型魔導製品の輸送費は従来の半額とし、関税の徴収権はすべて帝国監査局が管轄いたします」
「無茶苦茶だ!」
マルコが思わず叫んだ。
「ガルディニアへの軍需物資や触媒の流れを帝国に筒抜けにしろというのか!? そんな条約に調印すれば、中立都市としての信用は地に堕ちる! ガルディニアが黙っているはずがない!」
「中立、などという都合の良い看板は、テロの資金を我が国へ流した時点で自ら叩き割ったはずですわ」
エルヴィラは冷淡に言い放った。
「西のガルディニアが怒ろうと、それは貴都市が撒いた種です。拒絶なさるのなら、いま直ちに帝国内の商船三十隻をすべて拿捕し、全乗組員を国家反逆の共謀者として軍事法廷へ送るまで。……十人評議会の首脳陣も、テロ支援者として国際指名手配いたします」
セドリックが低く笑い、刃の鞘をコツリと鳴らした。
「海を封鎖する前に、貴様らの首が飛ぶのが先だな」
マルコは膝をついたまま、拳を床に叩きつけた。
逃げ道は完全に塞がれていた。全財産の没収と国家の破滅か、それともガイストハイムの軍門に降り、西のガルディニアを売るか。
天秤は最初から傾いていた。
「……分かりました。十人評議会の全権委任状に基づき、この『東方関税・安全保障協定』に署名いたします」
マルコは震える手で羽根ペンを握り、条約書の末尾に自らの名と評議会の印章を押し込んだ。
「賢明なご判断ですわ、特使殿」
エルヴィラは調印済みの書類を受け取り、満足げに微笑んだ。
「追徴金は十日以内に帝国中央銀行へ。……以後、ガルディニアへの航路で不審な動きがあれば、協定違反として即座に制裁を発動いたしますので、お気をつけあそばせ」
マルコは屈辱に肩を震わせながら、逃げるように謁見の間を去っていった。
重い扉が閉まり、室内に二人だけの静寂が戻る。
セドリックがエルヴィラの隣へ歩み寄り、調印書を見下ろした。
「これで西への海上補給路に楔を打ち込んだ。ガルディニアの動きはすべてこちらの掌の上だ」
「ええ。国内の憂いは絶ち、外の締め付けも完了いたしました」
エルヴィラは紫紺の瞳を細め、西の空を見据えた。
「あとは東部国境の防衛線を完成させるのみですわ。……お姉様が、何を仕掛けてこようとも」




