第36話 自由都市の使節・フォスカリの天秤
帝都ルディナ、アデルヴァイト公爵邸の謁見の間。
豪奢な大理石の床に、波の紋様を刺繍した青い絹の外套を纏う男が進み出た。
自由海洋都市ポルト・ヴェッキオの『十人評議会』が送り込んできた特使、マルコ・フォスカリだった。
整えられた髭の端に笑みを浮かべ、胸に手を当てて優雅に一礼する。
「お初にお目にかかります、エルヴィラ公爵。先のバルタザール閣下の訃報には、我が都市の評議会一同、深く哀悼の意を表しております」
玉座に座るエルヴィラは、紫紺の正装ドレスの裾を乱すことなく、冷淡な眼差しでマルコを見下ろした。
背後には、佩刀を腰に差した軍服姿のセドリックが立ち、鋭い視線を男へ据え付けている。
「哀悼の言葉は結構ですわ、特使殿。遠路はるばる海を越えて来られた用件を伺いましょうか」
「話が早くて助かります」
マルコは懐から金箔押しの親書を取り出し、恭しく差し出した。
「我がポルト・ヴェッキオは、貴領で開発された『新型魔導窯』およびその関連製品の卓越した性能を高く評価しております。つきましては、我が都市の商館網を通じた独占輸出契約を結びたく、参上いたしました」
マルコは自信ありげに胸を張り、言葉を継ぐ。
「帝国の関税を免除していただければ、西のガルディニアや諸海州へ、我が都市の商船が破格の運賃で製品を売り捌いて差し上げましょう。さらに、先日の政変で凍結された我が都市の資産口座を解除していただければ、帝室へ巨額の低利融資を約束いたします」
中立都市の立場を笠に着た、厚顔無恥な要求だった。
セドリックが鼻で笑い、低く呟く。
「東西両国に武器と魔導具を売りつけ、中間マージンを貪る海の狐らしい物言いだな」
「お言葉ですが皇子殿下」
マルコは肩をすくめた。
「海を握る者が富を握るのは、大陸の理でございます。ガイストハイムがどれほど優れた技術を持とうと、我が都市の港と航路を敵に回せば、対外交易は完全に窒息いたしますぞ」
「海の利権、ですの」
エルヴィラが静かに口を開いた。
彼女は侍従に目配せをし、卓上に置かれていた黒塗りの小箱を開けさせた。
中から取り出されたのは、煤で黒ずんだ一本の真鍮筒――プラント襲撃現場で押収されたポルト・ヴェッキオ製の特殊信管だった。
ゴト、と乾いた音を立てて机上に転がされたそれを見た瞬間、マルコの口元の笑みが凍りついた。
「こ、これは……?」
「『ポルト・ヴェッキオ造兵廠・特製遅延信管』。……貴都市の軍部が厳重に管理しているはずの特注軍需品ですわ。なぜこれが、我が公爵領のプラントを爆破しようとしたテロリストの手元にあったのかしら?」
「そ、そのようなものは横流しされた闇市のもので……我が評議会は関知しておりません!」
「関知していない、とは便利な言葉ですわね」
エルヴィラは立ち上がり、一段高い演壇からマルコを冷酷に見据えた。
「資金の流れはすべて監査局が洗いました。十人評議会の署名が入った為替手形が、第2皇子派と襲撃部隊へ流れていた記録を、帝国司法省がすでに保全しております。……マルコ特使、これは単なる商取引の場ではありません」
エルヴィラの一歩に合わせ、背後のセドリックが鞘から数寸、佩刀を抜いた。
室内の温度が急速に冷え込む。
「テロ支援国家として、貴都市の全船舶を拿捕し、帝国内の商館資産を永久没収するか。それとも――我が帝国の提示する新たな条件を飲むか。……選ぶ権利は、貴殿にはありませんわ」
突きつけられた動かぬ証拠と絶対の武威を前に、マルコの額から大粒の脂汗が流れ落ちた。




