第35話 氷の皇子と契約妃の夜
大評議会の喧騒が去り、深夜の皇宮は深い静寂に包まれていた。
監査局の最奥、セドリックの私室には、暖炉の薪が爆ぜる音だけが小さく響いている。
卓上には、没収された第2皇子派の資産目録と、ポルト・ヴェッキオからの資金流入ルートを記した相関図が広げられていた。
エルヴィラは羽ペンを走らせ、没収した門閥貴族の荘園と資産の再配分表を淡々と整理していく。
「南西街道の三つの関所、およびヴァーミリオン伯爵家の直轄鉱山はすべて公爵家の管理下へ移管を完了いたしました。これで新型窯の増産に必要な資材ラインは完全に確保できますわ」
書類を整え終えたエルヴィラが一息つき、顔を上げた。
軍服のボタンをいくつか外し、長椅子に腰掛けていたセドリックが、手にしたグラスの琥珀色の蒸留酒を傾けながら彼女を見つめていた。
「実の母と妹を地下牢へ送り込んだ直後だというのに、帳簿の数字一つ狂わないな」
「感傷に浸る理由がどこにありますの?」
エルヴィラは冷淡に肩をすくめた。
「あの者たちは、父上の遺志を踏みにじり、我が領地と民を自らの虚栄心のために売り払おうといたしました。害毒を排除し、正当な秩序を取り戻しただけにすぎません」
「そうだな。だが――」
セドリックはグラスを卓上に置き、音もなく立ち上がった。
長身の影がエルヴィラを覆う。
迷いのない足取りで執務机の前に回り込むと、セドリックは書類の上に置かれたエルヴィラの手を、手袋越しに上から押さえた。
「父親の死、母娘の処断、そして帝都の貴族どもを叩き潰す算段。……貴様は一度も弱音を吐かなかったな」
「弱音を吐いて状況が好転するのなら、いくらでも吐いてみせますわ」
エルヴィラは視線を逸らさず、氷のように澄んだセドリックの青い瞳を見返した。
だが、その指先がわずかに冷たくなっているのを、セドリックの手のひらは正確に感じ取っていた。
セドリックは低く息を漏らし、エルヴィラの手首を引いて立ち上がらせた。
引き寄せられたエルヴィラの背に腕を回し、逃げ場を塞ぐように抱き寄せる。
「殿下……?」
「父親の死に目にすら、涙一つ見せなかった強情な女だ」
耳元に落ちてくるセドリックの声は、いつもの冷酷な響きを帯びながらも、どこか昏い熱を孕んでいた。
「だが、これで貴様を縛る過去の枷はすべて消えた。アデルヴァイトの当主としても、俺の契約妃としてもな」
「……ええ。私はもう、誰の日陰者でもありませんわ」
「そうだ。貴様を切り捨てようとする者は、この俺がすべて叩き斬る。貴様はその冷徹な頭脳で、帝国のすべてを計算し尽くせ。……誰一人として、貴様をこの場所から引きずり下ろすことは許さん」
それは庇護というよりは、絶対的な独占の宣告だった。
政略と利害の一致から始まった関係は、数々の謀略と血をくぐり抜けたことで、容易に断ち切れぬ「共犯関係」へと変質していた。
エルヴィラはセドリックの胸元にそっと手を添え、小さく息を吐いた。
「当然ですわ。殿下が私を必要とする限り、私は帝国の盤面を支配し続けます。……ですが、まだ休むわけにはまいりません」
エルヴィラが顔を上げると、その紫紺の瞳はすでに次の標的を捉えていた。
「国内の掃除は終わりました。次はこちらの足元を掬おうとした、海を挟んだ強欲な商人たち――ポルト・ヴェッキオに、テロ支援の落とし前をつけさせなければなりませんわ」
セドリックは口元に獰猛な笑みを浮かべ、エルヴィラの顎を指先で持ち上げた。
「いい顔だ。……海の狐どもを、貴様の手で骨までしゃぶり尽くしてやれ」
二人の影が暖炉の炎に長く伸びる。
帝都の夜が更けていく中、帝国の刃は次なる標的、中立海洋都市へと向けられていた。




