第31話 空売りの罠
帝都中央取引所。
吹き抜けの大ホールは、怒号と熱狂に包まれていた。黒板にチョークで書き殴られる数字が、刻一刻と跳ね上がっていく。
「青硬耐火粘土、基準値の五倍で全量成約!」
「白燐鉱、さらに高値更新! ヴァーミリオン伯爵家の代理人がすべて買い取ったぞ!」
取引所の二階、特別観覧席。
豪奢なビロードの長椅子に深く腰掛けたエレオノーラとロザリアは、階下の狂騒を見下ろしながら優雅に紅茶を啜っていた。その隣には、満足げな笑みを浮かべたヴァーミリオン伯爵が立っている。
「見事な眺めですな、奥方。市場にある副原料の九割を我が陣営が押さえました。ポルト・ヴェッキオからの潤沢な信用手形のおかげで、買い占めは完璧です」
「当然ですわ」
ロザリアが嘲笑交じりに扇子を揺らした。
「あの生意気なエルヴィラ、いまごろ工房の炉の前で青ざめているに違いありませんわ。公爵家の資金をいくら注ぎ込もうと、中立都市の後ろ盾を得た私たちに勝てるはずがありませんもの!」
「ええ。あと二日もすれば納入期限切れよ」
エレオノーラが冷酷に目を細める。
「債務不履行の汚名を着せて、あの娘を泥水の中へ引きずり落としてやりますわ」
その時、取引所の鐘がけたたましく打ち鳴らされた。
取引を取り仕切る主任仲買人が、青ざめた顔で舞台へ駆け上がってくる。
「て、緊急売り注文だ! 『帝国監査局直轄特区公社』より、青硬耐火粘土二千トン、白燐鉱三千トンの先物売り出し!」
ホールが一瞬で静まり返った。
ヴァーミリオン伯爵が手すりに身を乗り出し、眉を吊り上げる。
「馬鹿な……! 帝国内の在庫はすべて我が方が買い尽くしたはずだ! そんな莫大な現物がどこにある!?」
「売り出し価格は――現行相場の半値だ!」
仲買人の叫びとともに、取引板の数字が垂直に崩落を始めた。
パニックに陥った一般の投機商人たちが、損失を恐れて一斉に手持ちの現物を投げ売り始める。
「おい、どういうことだ! なぜ暴落している!?」
ロザリアが椅子から立ち上がり、金切り声を上げた。
「落ち着きなさい、ロザリア様!」
伯爵が脂汗を浮かべて怒鳴る。
「ハッタリだ! エルヴィラには現物などない! 市場を混乱させるための空売りに決まっている! 買い支えろ! 出された売り玉をすべて買い取って、奴の信用を破綻させるのだ!」
伯爵の指示で、ポルト・ヴェッキオから借り入れた手形が次々と買い注文へ投じられた。
だが、いくら買っても売り注文の津波は止まらない。
取引所の重い扉が開き、警備兵を従えたエルヴィラが静かに姿を現した。
紫紺の執務服を纏った彼女は、狂乱する市場の真ん中を通り抜け、二階の観覧席を見上げた。
「無駄ですわ、ヴァーミリオン伯爵。そして、お母様」
エルヴィラの透き通るような声が、騒然とするホールに凛と響き渡った。
「その現物は、ハッタリなどではありません。父上が生前、有事に備えて南西領の旧鉱山地下に極秘で備蓄していた『帝室予備資材』ですわ。セドリック殿下の監査権により、本日付で全量を特区公社へ移管、市場へ適正価格で放出いたしました」
「な……遺産だと……!?」
伯爵の顔から血の気が引いていく。
「高値で買い占めた鉱石を、今さら誰が高値で買い取ってくれますの? 市場には適正価格の純正品が溢れ返っております。……貴方方が抱えたその山のような在庫は、ただの高価な石ころですわ」
ホール中で「暴落だ!」「紙屑になるぞ!」という怒号が飛び交い、価格は買い占め前の三分の一以下まで叩き落とされた。
「あ、ああ……! 私の金貨五万枚の手形が……!」
伯爵はその場に崩れ落ち、頭を抱えた。
「嘘よ……! そんなの嘘ですわ!」
ロザリアが手すりを掴んで絶叫する。
「エルヴィラ! 貴女、私たちを謀ったのね!?」
「数字は嘘をつきませんわ、ロザリア」
エルヴィラは冷ややかに見下ろし、氷のような眼差しを向けた。
「欲に目が眩んで市場を弄んだ代償です。……莫大な借財とともに、その無価値な石を噛み締めておいでなさい」
取引所の喧騒を背に、エルヴィラは一度も振り返ることなく出口へと歩み去っていった。




