第30話 海を渡る金貨と商人の天秤
白波海峡の中央に位置する自由海洋都市『ポルト・ヴェッキオ』。
大理石造りの回廊が張り巡らされた総督府の奥、最高権力機関である『十人評議会』の密談室には、紫煙と潮の香りが立ち込めていた。
円卓の上には、ガイストハイム帝国から届いたばかりの密書が広げられている。
「新型魔導窯の点火成功、か……」
豪商フォスカリは、金銀の指輪を嵌めた指先で顎を撫でながら低く呟いた。
卓を囲む他の評議員たちも、苦々しい表情で視線を交わし合っている。
「東の旧帝国が独自の魔導窯を実用化させれば、西のガルディニアから仕入れた触媒をガイストハイムへ転売する我が都市の仲介利権は半減する。……それどころか、あのアデルヴァイトの新当主は、関税特区を盾に我が都市の商船から直接取引を毟り取る気だ」
「帝国の小娘一人の思い通りにさせてたまるか」
別の評議員が吐き捨てる。
「第2皇子派のヴァーミリオン伯爵から要請が来ている。前公爵夫人と次女を正統後継者として担ぎ上げ、エルヴィラの事業を破綻させるための軍資金を要求してきた。……奴らは帝国内の耐火粘土と副原料の鉱石を一斉に買い占める腹積もりだ」
「よかろう」
フォスカリは冷笑を浮かべ、手元の為替手形にサインを入れた。
「ガイストハイムの金貨五万枚相当の信用状を第2皇子派へ回せ。……東西の二大国は、互いに足を引っ張り合い、疲弊していればいいのだ。我らポルト・ヴェッキオが大陸の経済を牛耳るための、安い先行投資よ」
商人の冷徹な謀略が、海を越えて帝都へと送られていった。
数日後の帝都ルディナ、中央商業区。
アデルヴァイト公爵邸の執務室で、エルヴィラは机上に積まれた市況報告書を冷ややかに精読していた。
扉が開き、セドリックが長身を滑り込ませてくる。
「耳に入っているか、エルヴィラ。市場の動きが不穏だ」
「ええ、殿下。新型窯の内張りに用いる『青硬耐火粘土』と精錬用の『白燐鉱』の市場価格が、ここ三日で四倍に跳ね上がっておりますわ」
エルヴィラは手元の数字を指先で叩いた。
「帝都の仲買人たちが一斉に在庫を囲い込み、公爵家の工房への納品を一方的に拒絶してまいりました。……資金の出所は、ポルト・ヴェッキオの商館から第2皇子派を経由した巨額の信用手形です」
「古狸どもめ、泥船の母娘を担ぎ上げた上で、原料の兵站を断ちに来たか」
セドリックは窓辺へ歩み寄り、冷たい眼光で帝都の街並みを見下ろした。
「公爵領の工房で抱えている新型窯の改修工事は、あと五日で副原料が底をつく。納期が遅れれば、貴族院はお前の『当主としての債務不履行』を理由に、公爵位の継承無効を皇帝へ上奏する構えだ。……監査局の軍靴で市場の倉庫を片端から踏み荒らしてやろうか?」
「いいえ、殿下。力づくの差し押さえは、かえって貴族院に『私兵を用いた不当な経済弾圧』という格好の口実を与えてしまいます」
エルヴィラは静かに立ち上がり、書棚から一冊の古い帳簿を取り出した。
その紫紺の瞳には、一切の動揺はなく、獲物を追い詰める冷徹な計算だけが宿っていた。
「商人や欲に目の眩んだ貴族を最も残酷に処刑する方法は、刃ではありませんわ。……自ら掘った『数字の墓穴』に、全財産ごと叩き落として差し上げることです」
「策があるのか」
「はい。敵が買い占めのために全資金を注ぎ込んでいる今こそ、市場の罠を仕掛ける絶好の機会ですわ」
エルヴィラは不敵な笑みを浮かべ、セドリックへ一枚の指示書を差し出した。
帝国の市場を揺るがす、金融戦の幕が上がろうとしていた。




