第27話 病床の公爵・託された記憶
アデルヴァイト公爵邸の最奥、木立に囲まれた離れの療養棟。
本邸の豪奢な喧騒から切り離されたその一室は、鼻を突く薬草の匂いと、静かな沈黙に包まれていた。
エルヴィラはセドリックを室外に残し、一人で寝室の扉を開けた天蓋付きのベッドには、かつて「剛胆の公爵」と謳われた面影もないほどに痩せ細った父、バルタザールが横たわっていた。
「……エルヴィラか」
枯れ木のような手指が、かすかに動いた。
エルヴィラは足音を忍ばせてベッド脇へ歩み寄り、冷え切った父の右手を両手でそっと包み込んだ。
「父上、お加減はいかがですか」
「新型窯の点火が成功したそうだな……。執事から聞いた。お前は……本当に、優秀な娘だ」
途切れがちな声。だが、その濁った瞳の奥には、確かな誇りと、それ以上の深い悔恨の色が揺れていた。
「すまなかった、エルヴィラ。……妾腹のお前を日陰に置き、エレオノーラやロザリアの非道を止められなかった。公爵家を保つためとはいえ、私はあまりに無力な父親だった……」
「滅相もございません、父上」
エルヴィラは首を振った。普段の氷のような仮面を外し、幼い頃から抱き続けてきた敬意と愛慕を込めて、父を見つめた。
「私は知っております。母たちが私を虐げていた時、陰で執事に命じて十分な書籍と学問の機会を与えてくださっていたのは、父上でした。このアデルヴァイトの血を誇りに思えるのは、父上が誰よりも公正な領主であられたからです」
「公正、か……。買い被りだな。私は逃げていただけだ」
バルタザールは自嘲するように目を伏せると、震える左手で枕元の小箱を引き寄せた。
中から取り出されたのは、古びた銀細工のペンダントだった。
「お前には……話しておかねばならんことがある。お前が物心つく前に亡くなった、お前の兄――私の長男についてだ」
「兄……? 私に、兄がいたのですか?」
エルヴィラは息を呑んだ。
公爵家の家系図にも、社交界の記録にも、アデルヴァイト家の子はクラウディア、ロザリア、エルヴィラの三姉妹としか記されていない。
「名はルシアン。……極めて聡明で、優しい子だった。だが、生まれつき重い病を抱えていてな」
バルタザールは痛みに耐えるように胸元を押さえながら、途切れ途切れに語り始めた。
「エレオノーラは、病弱な長男を『公爵家の恥』として世間から完全に隠した。ろくに医師も呼ばず、離れに隔離したのだ。ロザリアも母に倣い、見向きもしなかった。だが……クラウディアだけは違った」
姉の名が出た瞬間、エルヴィラの背筋がわずかに強張った。
「あの子は毎日、ルシアンの部屋へ通った。本を読み聞かせ、政や軍略を語り合い……『この聡明な弟こそが、アデルヴァイトを継ぐべきだ』と本気で信じていた。クラウディアにとって、ルシアンは唯一、魂を分かち合える存在だったのだ」
だが、とバルタザールは苦悶に顔を歪めた。
「帝国の旧態依然とした医療制度と、エレオノーラの冷遇のせいで、ルシアンは適切な治療も受けられぬまま……十歳で息を引き取った。日陰者のまま、誰にも知られずに死んだのだ」
寝室に、重い沈黙が落ちた。
「あの日のクラウディアの目を、私は一生忘れられん。あの子は冷たく笑って言ったのだ。『無能な門閥貴族が血筋だけで贅沢に溺れ、なぜそれより遥かに聡明な弟が、日陰者として見殺しにされねばならなかったのか』と」
エルヴィラの脳裏に、かつて公爵邸を出立していったクラウディアの姿が鮮明に蘇った。
能力主義の狂気、貴族社会への底知れぬ憎悪、そして「実力ある者が正当に評価される世界を作る」という大陸併呑の思想――そのすべての根底にあったのは、理不尽に奪われた最愛の弟の死だったのだ。
「クラウディアは、この腐敗した帝国そのものを焼き尽くすつもりだ。……あれの覇道は、誰にも止められん。だがエルヴィラ、お前なら……民を飢えさせず、理を以て公爵家を守り抜くことができる」
バルタザールはエルヴィラの手を強く握り返した。
「公爵家のすべてを、お前に託す。……お前が、真の当主だ」
「父上……」
エルヴィラは溢れそうになる涙を堪え、父の言葉を深く、その魂に刻み込んだ。




