第28話 落日と継承・アデルヴァイトの遺言状
夜半を過ぎ、療養棟の窓を冷たい秋雨が打っていた。
呼吸を荒くしながらも、バルタザールはベッドの上に身を起こそうとした。エルヴィラが背に枕を差し込み、そっと身体を支える。
公爵は枕元の小机を指差し、絞り出すような声で言った。
「引き出しの底に……羊皮紙がある。持ってきなさい」
エルヴィラが机の隠し底から取り出したのは、帝国司法省の厳封印が施された遺言状だった。
すでに文面の大部分は整えられており、当主署名の欄と、最終確認の日時だけが空白になっている。
「私が息を引き取れば、エレオノーラとロザリアは必ず門閥貴族を抱き込み、家督の強奪に動く。……あの愚か者どもに、この領地と民を渡すわけにはいかん」
バルタザールは震える指先で羽ペンを握った。かすれるインクで、自らの名を刻み込む。
「全領地、全資産、ならびにアデルヴァイト公爵位の単独正統後継者として……エルヴィラ・アデルヴァイトを指名する。……これで、法的な隙はない」
署名を終えた公爵は、羽ペンを取り落とし、深くベッドへ沈み込んだ。その顔には、長年彼を縛り続けていた苦悩から解放されたような、静かな安堵が広がっていた。
「エルヴィラ……。クラウディアの進む道は、血と鉄に塗れた修羅の道だ。だが、あの子の憎悪を……どうか、理解してやってくれ」
「はい、父上。お姉様の背負われた業も、すべて受け止めた上で……私は私の戦いを全ういたします」
「それでいい。……お前が、我が誇りだ」
バルタザールの瞼がゆっくりと閉じられた。
エルヴィラの手を握る力が徐々に抜け、やがて、静かな呼吸が完全に止まった。
享年五十四。
アデルヴァイト公爵家当主、バルタザール・アデルヴァイトの逝去だった。
エルヴィラは父の手を静かに胸元へ戻し、白布を顔に掛けた。
瞳を閉じ、深く一度だけ息を吸う。再び目を開いた時、その紫紺の双眸からは一切の揺らぎが消え失せていた。
重い扉を開けて部屋を出ると、薄暗い廊下にセドリックが佇んでいた。
エルヴィラの表情を見たセドリックは、すべてを察したように短く問いかける。
「逝ったか」
「ええ。安らかな最期でしたわ」
エルヴィラは手にした遺言状をセドリックへ差し出した。
「父の正式な遺言状です。家督と全権は私が単独で継承いたします。……セドリック殿下、直ちに公爵家の全領民へ当主の薨去を通達し、同時に帝室監査局へ遺言の登記を」
「抜かりはないな」
セドリックは遺言状を受け取り、冷徹な視線をエルヴィラへ向けた。
「だが、この死は帝都の古狸どもにとっても絶好の好機に見えるはずだ。追放されたエレオノーラとロザリアを担ぎ上げ、お前の継承権を無効化しようと必ず仕掛けてくる」
「望むところですわ」
エルヴィラは冷ややかに唇の端を持ち上げた。
「喪に服す暇などありません。父が遺してくださったこの公爵家を侵そうとする者は――たとえ肉親であれ、門閥貴族であれ、すべて私の計算尺の上で叩き潰します」
雨の夜が明け、帝都に公爵の死を告げる鐘の音が低く響き渡った。
それは、新たな当主の誕生と、帝国を揺るがす血みどろの権力闘争の幕開けを告げる合図でもあった。




