第22話 海の抜け穴と商人の算盤
公爵邸の当主執務室。
南向きの窓から差し込む陽光の下、エルヴィラは机上に広げられた大陸南部の海図へ羽ペンを走らせていた。
「やはり、ここに繋がっていましたのね」
エルヴィラの視線の先にあるのは、白波海峡の中央に浮かぶ天然の良港――自由海洋都市『ポルト・ヴェッキオ』。
東西の両帝国いずれにも属さず、海運豪商ギルドの合議制によって統治される独立中立都市だった。
扉が開き、セドリックが無駄のない足取りで入室してきた。手元には帝国監査局の赤い封蝋が施された帳簿が握られている。
「何を睨んでいる、エルヴィラ」
「お姉様が残していかれた公爵家の裏帳簿を洗っておりましたの。……北門の陸路を押さえられたあの方が、なぜあれほど容易く海路への切り替えを口にできたのか、その理由が判明いたしました」
エルヴィラは海図のポルト・ヴェッキオを指先で叩いた。
「ガルディニアから出荷された特殊触媒鉱は、一度このポルト・ヴェッキオの豪商『フォスカリ商会』の倉庫へ運び込まれておりました。そこで産地偽装の書類を発行させ、中立都市の一般交易品として帝国の南方港へ堂々と運び込ませていたのですわ」
「海の抜け穴、か」
セドリックは冷徹な眼光を海図へと落とした。
「ポルト・ヴェッキオは、両帝国が暗黙の了解で不可侵を認めている自由港だ。莫大な私設艦隊と傭兵団を抱え、東西の軍事バランスの緩衝地帯となっている。……皇帝ですら、あの都市の商館に強権を発動することはできん」
「ええ。ですが、商人が動く理由は常に一つ――『利益』ですわ」
エルヴィラは冷ややかに唇の端を持ち上げた。
「帝国内の門閥貴族どもは、このポルト・ヴェッキオの隠し口座を利用して脱税と密輸を繰り返してきました。殿下の監査権でそれらの不正口座を一斉に凍結し、商館側に『口座の差し押さえを免除する代わりに、ガルディニアとの密輸船の入港記録をすべて開示せよ』と取引を持ちかけます」
「商人に算盤を弾かせ、クラウディアの兵站ルートを外側から買い取る気か」
「買収ではありません。正当な司法取引ですわ」
エルヴィラは立ち上がり、セドリックの正面に立った。紫紺の瞳に、鋭利な知略の光が宿る。
「敵の補給路を断つと同時に、我が公爵領の粗石をポルト・ヴェッキオへ直接輸出する特権を与えます。ガルディニアの息がかかった流通網を排除し、あの都市の経済を帝国の息の根の下に組み敷くのです」
「……面白い。貴族院の古狸どもを締め上げると同時に、中立都市を抱き込むか」
セドリックは低く喉を鳴らすと、手元の帳簿をエルヴィラの机へ置いた。
「監査局の全権官公印を貸し与える。影鴉の精鋭を護衛につけろ。……ポルト・ヴェッキオの総督へ、我が帝国の要求を突きつけてこい」
「御意に、殿下」
♢
一方、西の軍事大国ガルディニア帝国の東部国境。
黒鉄の装甲を纏った重装馬車の車内で、クラウディアは窓の外の荒涼とした山脈を眺めていた。
対面のジークリットが、懐中時計を確認しながら低く報告を入れる。
「間もなく皇都ヴェルグの境界へ入ります。……エルヴィラ様が公爵領の監査を本格化させ、白波海峡のフォスカリ商館へ調査の手を伸ばし始めた模様です」
「あの子なら当然そこへ行き着くわ」
クラウディアは表情を一切動かさず、冷淡な声で言った。
「ポルト・ヴェッキオの商人たちは、金銀の重みでどちらへでも転ぶ風見鶏よ。エルヴィラが小銭と特権をチラつかせれば、喜んで私を裏切り、帝国の軍門に降るでしょうね」
「泳がせてよろしいのですか」
「構わないわ。あの子には、あの都市が『手に入った』と信じ込ませておけばいい」
クラウディアの灰色の瞳に、冷酷な光が宿った。
「自由港、不可侵の自治領……どれも平和な時代の戯言に過ぎないわ。ジークリット、あの都市の港湾防備図と水深データはすべて頭に入っているわね?」
「無論でございます、我が主」
ジークリットは深く頭を垂れ、淀みなく答えた。
「防波堤の死角、潮流の周期、傭兵団の詰所の配置に至るまで、すべて掌握しております」
「よろしい。……いずれその時が来たら、あの街ごと飲み込んであげるわ」
馬車はガルディニアの巨大な城門をくぐり、煙突と魔導炉が林立する鋼鉄の皇都へと滑り込んでいった。




