第2話 母の鞭と凍てつく決意
豪奢な大理石の床に、ガラスの砕け散る甲高い音が響いた。
「よくも、よくも抜け抜けと顔を出せたものね!」
紅茶の注がれていたカップが、エルヴィラの足元で無残に破片を撒き散らす。飛び散った熱い飛沫が薄いドレスの裾を濡らしたが、エルヴィラは眉ひとつ動かさずに頭を垂れていた。
正面の天蓋付きソファに君臨するのは、アデルヴァイト公爵夫人エレオノーラ。
豪奢な紫のドレスに身を包み、鋭利な鷲のような双眸でエルヴィラを射抜いている。その隣には、母の怒りを煽るように扇子で口元を隠したロザリアが座っていた。
「申し訳ございません、エレオノーラ様。お呼び出しと伺い、参上いたしました」
「その忌々しい澄ました顔をおやめなさい! あの卑しい女――あなたの死んだ母親そっくりの目つきで見つめられるだけで反吐が出るわ!」
エレオノーラは立ち上がり、扇子を激しく卓上に叩きつけた。
「ラングレー伯爵令息から聞いたわよ。あなたがロザリアの婚約者であるジュリアン様に擦り寄り、見苦しく縋りついたそうね? 身の程を弁えぬ泥棒猫め! 我が公爵家の気高き血筋に泥を塗る気ですか!」
(……なるほど。先手を打って、被害者面をしたわけね)
エルヴィラは視界の端で、勝ち誇ったように唇を歪めるロザリアを捉えた。
奪ったのはロザリアの方であり、エルヴィラは一言の抗議すらしていない。だが、この屋敷において「正妻とその愛娘」の言葉こそが唯一絶対の真実なのだ。
「弁明はございません。ただ……ジュリアン様とロザリアお姉様の結びつきを祝福したのみにございます」
「黙りなさい! 口答えなど許していないわ!」
ヒステリックな叫び声とともに、エレオノーラの手がエルヴィラの頬へと振り下ろされた。
乾いた平手打ちの音が、広間に重く響く。
白磁のようなエルヴィラの頬に、瞬く間に赤い掌の跡が浮かび上がった。
「お母様、もうその汚らわしい娘に触れるのもおやめになって。お手が汚れてしまいますわ」
ロザリアが嘲笑を含んだ声で宥める。
「そうね。……害虫に情けをかける必要など微塵もありませんでしたわ」
エレオノーラはシルクのハンカチで指先を拭うと、氷のように冷徹な声で宣告した。
「エルヴィラ。今すぐ本邸から出て行きなさい。庭の最奥にある北の離れ――あそこをあなたの新たな住処とします。今後、私の許可なく本邸へ足を踏み入れることは禁じます」
北の離れ。
かつて庭師の物置として使われ、十数年も放置された廃屋だ。暖炉は壊れ、隙間風が吹き荒れる極寒の檻。冬を越すことすら困難な場所へ、実質的な追放処分を下したのだ。
「……畏まりました。仰せのままに」
取り乱すことも、慈悲を乞うこともなく、エルヴィラは深々と一礼して部屋を辞した。
背後から「気味の悪い人形め」と吐き捨てるロザリアの嘲笑が聞こえたが、エルヴィラの足取りは微塵も揺らがなかった。
――本邸の薄暗い廊下を抜け、凍てつく冬の庭を進む。
辿り着いた北の離れは、案の定、荒れ果てていた。埃と黴の匂いが立ち込め、窓ガラスには蜘蛛の巣のような亀裂が入っている。
エルヴィラは外套の襟を合わせ、冷え切った部屋の粗末な木製ベッドに腰掛けた。
腫れ上がった右頬に指を触れる。痛烈な痛み。だが、その瞳に宿るのは絶望の涙ではなく、凍てつくような狂気と知性だった。
「哀れな方々。自ら檻の扉を開けて、私を解き放ってくださるなんて」
エルヴィラは懐から、一通の密書を取り出した。
本邸にいれば監視の目が光るが、この見捨てられた離れならば、誰にも邪魔されずに動くことができる。
広げた羊皮紙には、帝国全土の物流を揺るがす数字の数々。
そして末尾には、三日後に開かれる帝室主催の「冬至の仮面夜会」の招待状が挟まれていた。本来ならば公爵家の令嬢全員に届くはずのものを、エルヴィラが事前に抜き取っていたのだ。
「名誉も、愛も、誇りも……奪えるものはすべて奪ったとお思いでしょうね」
エルヴィラは蝋燭の火を見つめ、静かに、劇の幕開けを告げるように呟いた。
「いいえ。私があなた方に奪わせてあげたのよ。――高く飛び立たせてから、奈落の底へ叩き落とすために」
三日後の夜会。
そこに現れるのは、公爵家の腐敗を切り裂く「帝国最強の処刑人」――冷酷なる第1皇子セドリック。
エルヴィラの仕掛けた罠が、今まさに最初の獲物を捉えようとしていた。




