第1話 檻と盗まれた春
インクの染みた指先は、かじかんで感覚を失いかけていた。
暖炉の薪すら与えられないアデルヴァイト公爵邸の地下書斎。息を吐くたび、白い霧が立ち上っては薄暗い空気の中に消えていく。
「――よし、これで数字の辻褄は合ったわ」
エルヴィラ・アデルヴァイトは、羊皮紙に記された最後の魔導鉱山収支計算書にサインを添え、ふうと細い息を吐いた。
三日三晩、ほぼ不眠不休。
帝国全土を揺るがす魔導鉱石の暴落に対し、本家の損失を最小限に抑え、関税ルートを再編するための膨大な改革案だ。公爵家の優秀な財務官が五人がかりでも匙を投げた難題を、エルヴィラはたった一人でまとめ上げた。
だが、その羊皮紙に書かれた作成者の名は「エルヴィラ」ではない。
――『ロザリア・アデルヴァイト』。
エルヴィラのひとつ上の義姉であり、本家の正妻が生んだ次女の名だった。
「エルヴィラ! まだ終わっていないの!?」
乱暴に扉が蹴破られ、豪奢な毛皮のショールを羽織った金髪の令嬢が足を踏み入れてきた。
ロザリアだ。部屋に入るなり、埃っぽい空気にこれ見よがしに鼻をハンカチで覆う。
「出来上がっております、お姉様」
「遅いわよ、本当にグズね。泥の中に咲いた名もなき雑草が、この絢爛たる公爵邸で息を吸えている奇跡に、朝な夕な感謝なさい!」
ロザリアは机の上の書類を乱暴にひったくると、ろくに中身も読まずに満足げな笑みを浮かべた。
「これで今夜のお父様への報告は完璧ね。私が『天才的なひらめきで公爵家の危機を救った』ことになるわ。……ふん、せいぜいこの部屋の掃除でもしていなさい」
手柄を奪われるのは、これが初めてではない。
エルヴィラの実母は、当代公爵が心から愛した没落貴族の令嬢だった。しかし母が亡くなり、後ろ盾を失ったエルヴィラが本家に引き取られてからは、地獄のような日々が始まった。
正妻エレオノーラからの冷遇。次女ロザリアからの搾取と虐待。
エルヴィラが持つ才気、美貌、成果――そのすべてがロザリアの引き立て役として奪われ、踏みにじられてきた。
「ああ、それとね」
部屋を出て行こうとしたロザリアが、思い出したように嘲笑を浮かべて振り返る。
その背後から、見覚えのある長身の青年が気まずそうに歩み出てきた。
ジュリアン・ラングレー伯爵令息。
エルヴィラが幼い頃に結ばれ、唯一の心の拠り所だと思っていた婚約者だった。
「……ジュリアン様?」
「すまない、エルヴィラ。君との婚約は、本日をもって破棄させてもらう」
ジュリアンは冷たい声でそう言い放つと、ロザリアの腰を抱き寄せた。ロザリアは勝ち誇ったようにジュリアンの胸に身を寄せる。
「な……ぜですか」
「なぜ、だと? 陰気な日陰者に分不相応な夢を見せてやった慈悲は、今日この時をもって終わりだ。ロザリア様のように美しく、公爵家の正統な才女こそが、私の隣にふさわしい」
「ジュリアン様、素敵……。エルヴィラ、聞こえたかしら? ジュリアン様は私のものよ。奪ったなんて言わないでね? 彼は最初から、泥棒猫のあなたに同情していただけなんだから」
ロザリアの甲高い笑い声が、冷え切った地下室に響き渡る。
ジュリアンもまた、エルヴィラを憐れみと軽蔑の混ざった目で見下ろしていた。
――奪われた。
血を吐く思いで仕上げた功績も。
幼い頃から信じていた婚約者も。
普通の令嬢なら、その場で泣き崩れて慈悲を乞うたかもしれない。
だが、エルヴィラの紫紺の瞳は、氷のように冷たく澄み切っていた。
(……ええ、わかっているわ)
エルヴィラは伏せていた顔をゆっくりと上げ、完璧な淑女の礼をとった。
「かしこまりました、ロザリアお姉様、ジュリアン様。お二人のご多幸を、心よりお祈り申し上げます」
「……っ、なによその澄ました顔! 不気味ね、行きましょうジュリアン!」
悔しそうに捨て台詞を吐き、二人は去っていった。
静寂が戻った地下室で、エルヴィラは薄く唇の端を持ち上げた。
(せいぜい、その偽りの栄光に酔いしれなさい、お姉様)
エルヴィラは机の引き出しの奥、二重底の仕掛けを外した。
そこから現れたのは、さきほどロザリアに渡した報告書とは全く異なる、血のように赤い羊皮紙の束。
――『アデルヴァイト公爵家・裏帳簿並びに密輸記録』。
ロザリアに渡した書類は、短期的には利益が出るが、三ヶ月後には巨額の課税逃れとして帝国監査局に捕捉されるよう、精巧に仕組まれた「猛毒」だ。
自分の名義で提出した以上、破滅するのはロザリア自身。
「奪われたものは、利子をつけてすべて返してもらうわ。――幕が下りたとき、その喉を灼くのが私の調合した猛毒だと知るがいいわ」
エルヴィラの冷酷な復讐の歯車が、いま静かに回り始めた。




