第12話 病床の父と遺言書の行方
深夜、アデルヴァイト公爵邸の東棟にある主寝室から、甲高い悲鳴と慌ただしい足音が響いた。
「旦那様! 旦那様、しっかりなさいませ!」
部屋の中央に置かれた巨大な天蓋付きベッドには、アデルヴァイト公爵バルタザールが横たわっていた。長年の病魔により頬は削げ落ち、呼吸は浅く途切れがちだった。
その枕元でハンカチを握りしめているのは母エレオノーラ。その後ろでは、謹慎中のはずの次女ロザリアが落ち着きなく視線を泳がせていた。
「お母様、今ですわ! 意識が混濁しているうちに、早く……!」
「分かっています、焦るんじゃないの」
エレオノーラは震える手で、胸元から一枚の羊皮紙を取り出した。
事前に代筆させた偽の遺言書だ。公爵家の全財産と家督の継承権を次女ロザリアに譲る旨が記されている。
「旦那様、ここへサインを。公爵家の未来のために、サインをなさってください」
エレオノーラがバルタザールの痩せ細った手にペンを握らせ、無理やり紙面へ押し付けようとした、その時だった。
「――醜悪な茶番劇は、そのあたりでお止めになってはいかがですか」
静謐な声が寝室の空気を切り裂いた。
扉が開かれ、エルヴィラとクラウディアが同時に足を踏み入れてくる。クラウディアの背後には、寸分の隙もなく控えるジークリットの姿があった。
「エ、エルヴィラ……! クラウディアまで!?」
エレオノーラは咄嗟に羊皮紙を背中に隠そうとしたが、ジークリットが音もなく間合いを詰め、その手首を的確に制圧した。
「失礼いたします、奥様」
「な、何をなさるの無礼者! 離しなさい!」
ジークリットは表情を一切変えず、エレオノーラの手から羊皮紙を抜き取ると、主であるクラウディアの前へ差し出した。
クラウディアは紙面を一瞥するなり、侮蔑の笑みを浮かべてそれを破り捨てた。
「偽造の筆跡、稚拙な文面、帝室認証印の欠如。……母上、貴女の浅慮には毎度呆れさせられます」
「クラウディア、あなた実の母親に向かってなんて口を……! 私はこの家を守るために――」
「守る? 破滅へ引きずり込もうとしているの間違いでしょう」
エルヴィラが冷ややかな声で割って入った。ベッド脇へ歩み寄り、父の脈を確かめる。
「父上の容態が急変した原因は、主治医が処方した強心薬の過剰投与ですわね。意識を一時的に覚醒させ、無理やり署名させるために飲ませたのでしょう。……これ以上毒を盛るような真似をなさるなら、即座に憲兵を呼び、殺人未遂で告発いたします」
「ひっ……!」
ロザリアが青ざめて後ずさり、エレオノーラは悔しげに唇を噛んで床に崩れ落ちた。
「二人とも、下がっていなさい」
クラウディアの冷徹な一言に、母娘は反論の言葉すら見つけられず、逃げるように寝室を後にした。
静まり返った部屋で、クラウディアはベッドの父を見下ろした。
「ジークリット」
「はっ」
ジークリットが懐から取り出したのは、特殊な術式が刻まれたガラス瓶だった。青白く発光する液体が揺れている。
「ガルディニア帝国の秘薬『竜血の霊薬』よ。父上の衰弱した心臓を半年は延命させられるわ」
エルヴィラは眉をひそめた。
「それを父上に投与する条件はなんですの、クラウディアお姉様」
「話が早くて助かるわ」
クラウディアは父の枕元に立ち、エルヴィラを真っ直ぐに見据えた。
「父上を延命させる代わりに、当主の権限で『国境警備軍の指揮権』を私へ移譲する一筆をいただく。……財政と鉱山を貴女が握るなら、私は軍権を握るわ」
「軍権を……?」
「ええ。ガルディニアとの国境を守る私設軍三千の指揮権よ。武力なき財政など、ただの獲物に過ぎない。貴女が机の上で数字を捏ね回している間に、私は盤上の実力行使部隊を手に入れる」
エルヴィラは冷徹に状況を分析した。
父の命を盾にした取引。ここで拒否して父が死ねば、公爵家の継承権争いは帝室と貴族院を巻き込んだ泥沼の混乱に陥る。クラウディアの提案は、冷酷極まりないが、現状において最も合理的な取引だった。
「……認めますわ。父上の命が保たれるなら、軍権の委任状にサインをさせましょう」
「賢明な判断ね、エルヴィラ」
ジークリットの手によって霊薬が投与されると、バルタザールの荒かった呼吸が次第に落ち着きを取り戻し、微かに目を開けた。
父の朦朧とした意識の下、国境警備軍の指揮権移譲の書類に正規の署名がなされた。
書類を受け取ったクラウディアは、満足げに微笑んで背を向けた。
「これで盤面の駒は揃ったわ。――次は魔導鉱山よ、妹。どちらの手腕が上か、貴族院の査察の場で思い知らせてあげる」
クラウディアとジークリットが去った後、エルヴィラは眠る父の顔を見つめ、静かに呟いた。
「軍権を手に入れた気でいらっしゃるようですが……兵を養うための資金を握っているのは私ですわ、お姉様」
公爵家の二分された権力を巡る、最初の激突が近づいていた。




