↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
時は復讐を忘れない  作者: 23
9/42

第九話 同じ場所にいない

閉じた引き戸の向こうで、紙を擦る音が止まった。


午後九時五十二分。


壁時計の秒針は動いている。


湊は引き戸から離れなかった。


「開けるな」


直哉が言う。


誰も手をかけてはいない。


それでも、同じ言葉を先に置く必要があった。


「開けない」


湊は答えた。


「でも、書いてる」


「音がしただけだ」


宗一郎が言う。


「誰がいるかは分からん」


「推測?」


「そうだ」


宗一郎は工具箱の横に座ったまま、玄関を見る。


左腕のない身体。


工具箱へ刻まれた自分の名前。


六つの点。


どれも残っている。


澪が大学ノートに挟んでいた予備の記録用紙を一枚取り出した。


原本のページは破らない。


「これを使いましょう」


「コピーじゃなくて?」


湊が訊く。


「最初に触れた紙を原本にします」


澪は鉛筆で短く書いた。


誰が書いていますか。


日付と時刻も添える。


八月二日、午後九時五十三分。


全員が文章を確認し、紙の端へ点を一つずつ打った。


颯真。


直哉。


佳乃。


澪。


宗一郎。


湊は最後に、自分の点を打った。


「六つだ」


颯真が言う。


「書いた人も含めて、今ここにいる全員です」


澪が答える。


食卓の電話は、学校の担任につながったままだった。


直哉が紙を半分だけ引き戸の下へ差し込んだ。


外から引かれないよう、端を二本の指で押さえる。


夜の湿った空気は入ってこない。


線香の匂いもしない。


ただ、紙の向こう側だけが見えなくなる。


何も起きない。


一分。


二分。


三分。


颯真が吊った左腕を動かし、顔をしかめた。


「もういないんじゃないか」


その直後、紙の下で硬いものが動く音がした。


鉛筆ではない。


針先で紙を押すような音。


一文字ずつ。


ゆっくり。


直哉の指の下へ、圧力が伝わる。


「動いてる」


「引くな」


佳乃が言った。


「向こうが書き終えるまで待つ」


音が止まる。


直哉が紙を引き戻す。


表には何もない。


裏にもない。


湊は鉛筆を横に寝かせた。


薄く擦る。


灰色の粉が、凹んだ線へ溜まる。


見えているか、聞かないで。


場所を書いて。


二行目がある。


返事を、一人で読まないで。


誰も声を出さなかった。


湊は文字の形を見る。


自分の字に似ている。


丸い「見」。


最後を強く止める「書」。


けれど、自分より少しだけ整っている。


「僕の字?」


「似ています」


澪が言う。


「同じだとは断定できません」


「外の湊か」


颯真が訊く。


宗一郎は首を横に振る。


「分からん」


「分からないばっかりだな」


「分からないものを、分かったことにするよりはいい」


颯真は言い返さなかった。


佳乃が紙を透明な袋へ入れず、厚紙の上へ置いた。


袋へ入れれば、表面の凹みが擦れるかもしれない。


「場所を書くって、何の場所?」


直哉が訊く。


「湊君が見える場所だと思います」


澪が答える。


「思います、です」


自分から付け加える。


「未来の記録では、颯真さん以外の家族が湊君を見失っていました」


「でも、外の兄ちゃんだけは見えてた」


湊が言う。


「見えているか、と聞くだけでは足りなかった」


澪が凹んだ文字を読む。


「見えている場所を、別々に書く」


「全員が同じ湊を見てるか確認する」


直哉が言った。


その言葉のあと、部屋が静かになった。


全員。


同じ湊。


七月三十一日にも、同じ構造があったのかもしれない。


誰もが、別の誰かが二人を見ていると思っていた。


けれど、誰がどこで二人を見ているのか、名前と場所を照合した者はいなかった。


澪が大学ノートを閉じた。


「その前に、確認しておきたいことがあります」


直哉を見る。


「颯真君と湊君が学校からいなくなった日、誰が迎えに行く予定でしたか」


直哉の顔が硬くなる。


「俺だ」


「父さんは神社にいた」


颯真が言う。


「警察から連絡が来た」


直哉は床を見る。


「血のついた襟を確認してほしいと言われた」


朝に発見された、黒瀬颯真の名札が付いた襟。


現在の制服とは別物。


後から時間を獲得するように古びている布。


「学校へ連絡は」


「向かう前に入れた。遅れるかもしれないと」


「誰が迎えに行くと伝えたの」


佳乃が訊く。


直哉は宗一郎を見る。


「俺か、親父が行くと」


宗一郎の眉が動く。


「私は聞いていない」


「言ってない」


直哉は答えた。


「学校には、そう言っただけだ」


「何で」


湊が訊く。


「仕事を抜けられるか分からなかった。親父なら病院が終われば動けると思った」


「私は、その病院にいた」


佳乃が言う。


宗一郎の腕についての検査。


存在しない左腕が、十年以上前から失われていたことになっていた記録。


佳乃は診察室へ付き添っていた。


「学校からの着信に気づいたのは、検査室を出たあと」


「何時」


電話の向こうで、担任が訊く。


「午後六時を過ぎていました」


その前に学校へ、病院を名乗る電話が入った。


祖父が迎えに向かう。


実際には誰も向かっていない。


颯真は父が正門にいると嘘をつき、裏門から出た。


直哉は神社の同じ場所を繰り返していた。


佳乃は病院の窓から、逆向きに動く秒針を見ていた。


学校は祖父が来ると思った。


直哉は子どもたちが学校にいると思った。


佳乃は学校から連絡が来るまで、直哉が迎えに行ったと思っていた。


宗一郎は、自分が迎えに行くことになっていると知らなかった。


「全員が」


湊は言った。


「誰かが見てると思ってた」


直哉が目を閉じた。


「そうだ」


「何で今まで言わなかった」


颯真の声が低くなる。


「事件のことは話した」


「そこじゃない」


「俺が迎えを曖昧にしたことか」


「俺たちを見失ったこと」


直哉は答えない。


宗一郎が口を開きかける。


直哉は手で止めた。


「守るためじゃない」


自分から言った。


「俺が見失ったことを、お前たちに知られたくなかった」


佳乃が直哉を見る。


「俺は親父の秘密主義を責めた」


工具箱へ視線を移す。


「でも、自分が失敗したところは隠した」


颯真の右手が膝の上で握られる。


「俺も嘘ついた」


「颯真」


「父さんが正門にいるって言った。先生を外へ行かせて、裏門から出た」


電話の向こうで、担任は否定しなかった。


「俺が山へ行った」


「だから、俺が迎えを曖昧にしてよかったことにはならない」


直哉が言う。


「どっちか一つが原因じゃない」


佳乃が紙を一枚取る。


「これも残します」


七月三十一日。


直哉は警察の連絡で山ノ宮神社へ向かい、異常な反復に閉じ込められた。


佳乃は宗一郎の検査に付き添い、学校からの着信を受けられなかった。


学校には病院を名乗る偽の電話が入った。


颯真は父が正門にいると嘘をつき、裏門から出た。


宗一郎は迎えに行くと伝えられていなかった。


「誰も、二人を見ている人間の名前を確認しなかった」


澪が最後に書く。


直哉が署名する。


佳乃。


颯真。


宗一郎。


湊。


「澪は」


湊が訊く。


「その場にいませんでした」


澪は答える。


「ただし、この確認を聞いたことは記録します」


自分の名前を書く。


「これからは、誰かじゃなく、名前を決める」


佳乃が言う。


「湊を見ている人。颯真を見ている人。時計と鍵を見ている人」


「一人ずつ?」


直哉が訊く。


「一人に任せない」


颯真が答える。


「外の俺だけが湊を見えてた。それで助からなかった」


「二人以上」


湊が言う。


「それぞれ別に書く」


宗一郎が工具箱へ右手を置く。


「見張るのではなく、照合する」


「祖父ちゃんが言うと、見張るに聞こえる」


颯真が返す。


宗一郎は少しだけ口元を曲げた。


「言い方は任せる」



八月三日の朝。


佳乃は人参を薄く切った。


包丁の刃が、まな板へ一定の間隔で当たる。


颯真は台所の椅子に座り、その音を聞いていた。


「作るの」


湊が訊く。


「確認したいんでしょう」


佳乃は鍋へ人参を入れる。


外の颯真の記憶では、今日、煮た人参を食べられるようになる。


理由は、左肩の傷で箸が使いにくかったから。


湊が先に一つ食べたから。


現在では、まだ起きていない。


「同じにしなくていい」


颯真が言う。


「未来通りにしようとしてるみたいで気持ち悪い」


佳乃は火を弱める。


「同じにするためじゃない」


「じゃあ何」


「あなたが覚えている味と、今食べる味が同じか確認するため」


「食べなかったら」


「食べなかったと記録する」


颯真は鍋を見る。


「湊」


「何」


「別の兄ちゃんは食べられるかもしれない、って言うなよ」


外の履歴で、湊が言った言葉。


現在の湊は口を閉じる。


「言わない」


「言おうとしただろ」


「ちょっと」


「やっぱりな」


人参が柔らかくなる。


佳乃は小皿へ三つだけ載せた。


湊が取ろうとする。


颯真が先に箸でつかんだ。


左腕は吊ったまま。


右手だけで口へ運ぶ。


噛む。


顔をしかめる。


「まずい?」


「知ってる味だ」


「未来の?」


颯真はもう一度噛む。


「同じだと思う」


「思う?」


「未来の記憶も、今の舌も、俺の中にある」


二つ目を食べる。


「でも、違う」


「何が」


「向こうでは、お前に腹が立って食った」


現在の湊を見る。


「今は、自分で食った」


佳乃が記録する。


八月三日朝。


颯真は未来記憶と同じ味を確認した。


食べた理由は異なる。


「同じ日でも、同じ出来事じゃない」


湊が言う。


颯真は三つ目を湊の皿へ移した。


「お前も食え」


「兄ちゃんが全部食べるんじゃないの」


「好きになったわけじゃない」


引き戸の向こうで、外の颯真が訂正した言葉。


湊は人参を食べる。


甘い。


少し柔らかすぎる。


「まずくない」


「お前は昔から食えるだろ」


普通の兄弟の会話。


佳乃は、それも書いた。



午前八時四十分。


担任が大学ノートの原本を持って黒瀬家へ来た。


昨夜、電話越しに聞いた内容と、玄関から返された紙を照合するためだった。


午前九時十三分。


最初の観測を行った。


居間の畳へ、細い紙紐を置く。


縦に三本。


横に三本。


部屋を九つに分けるだけの簡単な線。


家具は動かさない。


工具箱は北東。


引き戸は南。


低い食卓は中央より西。


湊は中央の区画へ立つ。


観測するのは六人。


颯真。


直哉。


佳乃。


澪。


宗一郎。


担任。


一人ずつ別の紙を持つ。


同じ説明を聞いたあと、話さない。


記録する項目は四つ。


湊がいる区画。


服装。


湊が読んだ文章。


湊が触れた場所。


文章は担任が選んだ。


教科書の一行。


「川の向こうに、白い橋が見える」


湊は声に出す。


次に、食卓の北側を右手で二度叩く。


六人が書く。


壁時計の秒針は進んでいる。


九時十三分を過ぎても、何も止まらない。


記録を中央へ集める。


全員、中央。


白い半袖。


川の向こうに、白い橋が見える。


食卓の北側を右手で二度。


一致している。


「何も起きなかった」


直哉が言う。


担任が書く。


何も起きなかったことを確認した。


「見えている?」


佳乃が口にしてから止まる。


引き戸の向こうの文章。


見えているか、聞かないで。


「場所は」


言い直す。


「中央」


全員が別々に答え、もう一度書く。


一致。


「こういうことを、八月十五日まで続ける」


直哉が言う。


「一日何回」


颯真が訊く。


「十三分と、午後六時四十二分」


宗一郎が答えかける。


澪が先に言う。


「これまで異常が続いた時刻を優先します。ただし、その時刻だけで十分とは決めません」


「ずっとやるの?」


湊が訊く。


佳乃は答える前に、湊の位置を紙へ書いた。


「生活を全部検査にしない」


「でも」


「あなたを守ることと、あなたを観測対象だけにすることは違う」


湊は中央の紙紐を見下ろす。


自分が実験の印になっている。


澪が紙紐を外す。


「次まで、普通に過ごします」


「普通って何」


颯真が言う。


「人参の残りを食べないこと」


湊が答える。


「それは普通じゃなくて、お前の希望だ」



午後一時十三分。


二度目の観測。


場所、服装、文章、接触。


全員一致。


担任だけが、湊の位置を中央の線より少し西へ書いた。


「違う」


颯真が紙を見る。


「先生だけずれてる」


「私の座った位置からは、そう見えました」


担任は紙を直さない。


「見間違いかもしれません」


「履歴のずれかもしれない」


直哉が言う。


「今は決めない」


湊が答える。


紙を並べる。


五枚は中央。


一枚は、線の上。


コピーを取る。


コピーでは六枚とも中央に寄った。


原本だけ、担任の線が残る。


「再生成された方が、今の履歴へ寄った可能性があります」


澪が言う。


「先生が間違えただけの可能性もある」


颯真が返す。


「はい」


両方を記録する。


担任は自分の紙へ、見間違いの可能性と書き足した。


湊は、その文字の筆圧を指で触った。



午後五時五十八分。


玄関へ置いていた紙が動いた。


誰も引き戸には触れていない。


紙は半分だけ向こう側へ差し込んだ状態で、重い本に挟んでいた。


本は動かない。


紙だけが、数ミリこちらへ戻る。


直哉が全員を呼ぶ。


一人で読まない。


七人が玄関へ集まる。


紙にインクはない。


湊が鉛筆で擦る。


十八時四十二分。


僕を、一人で見ないで。


「僕」


颯真が読む。


「やっぱり湊か」


「書いた者が、自分を僕と呼んだだけです」


澪が言う。


「字は」


「似ています」


担任が答える。


「断定はしません」


「一人で見ないで、って」


直哉は颯真を見る。


「外のお前だけが見えていたことと関係があるのか」


颯真の右頬に、えくぼはない。


未来の人参の味だけが残っている。


「俺一人に任せるな」


颯真は言った。


「俺が見えてても、他が見えてなきゃ意味がない」


「六人で見る」


佳乃が紙を用意する。


「六人で別々に記録する」


「湊は?」


担任が訊く。


「自分がいる場所を書く」


湊が答える。


観測される側の記録も残す。


七枚。


今度は、湊も自分の位置を書く。



午後六時三十九分。


居間の家具は朝と同じ位置。


紙紐で九つの区画を作る。


湊は中央へ立つ。


六人は壁際へ離れる。


颯真は北。


直哉は北西。


佳乃は西。


澪は南西。


宗一郎は東。


担任は南東。


工具箱は宗一郎の背後。


鍵の封筒は佳乃の膝の上。


引き戸は閉じている。


観測用紙には、まだ何も書かれていない。


「文章は」


湊が訊く。


担任が一行を見せる。


僕は、居間の中央にいる。


「それ、答えを言ってる」


颯真が言う。


「聞こえた文章が同じか確認するためです」


「場所は紙へ別に書く」


直哉が言う。


午後六時四十一分。


蝉の声が遠くなる。


窓の外はまだ明るい。


西日が障子へ長い影を作る。


崩れたはずの鳥居の形が、庭の向こうへ一瞬だけ立つ。


実物ではない。


誰も外へ出ない。


「始めます」


担任が言う。


湊は中央へ両足を揃える。


右手を胸の前へ上げる。


「僕は、居間の中央にいる」


六人が記録する。


湊も、自分の紙へ中央と書く。


午後六時四十二分。


壁時計は止まらなかった。


秒針が十二を越える。


音だけが、薄くなる。


蝉。


冷蔵庫。


遠くの車。


全部が一枚の壁の向こうへ移る。


湊の右腕が冷える。


手首から肘へ続く黒線が、皮膚の下で濃くなる。


六人の目が、同時に湊から外れた。


颯真は窓際を見る。


直哉は工具箱の前を見る。


佳乃は食卓の西側を見る。


澪は玄関を見る。


宗一郎は廊下の奥を見る。


担任は、誰も座っていない椅子を見る。


「ここだよ」


湊は言った。


誰も中央を見ない。


「僕はここ」


声が、自分の口から出た感覚はある。


けれど部屋の別々の場所から、別の言葉が返った。


「兄ちゃん」


窓際から。


颯真が息を呑む。


「父さん」


工具箱の前から。


直哉の顔が動く。


「母さん」


食卓の西側から。


佳乃が立ち上がりかける。


「澪」


玄関から。


澪の折れた針が震える。


「祖父ちゃん」


廊下の奥から。


宗一郎の右手が空を探す。


「先生」


空の椅子から。


担任が鉛筆を落とした。


全部、湊の声だった。


湊は何も呼んでいない。


「兄ちゃん!」


中央から叫ぶ。


颯真は窓際へ手を伸ばす。


そこには誰もいない。


湊は紙紐を跨ぎ、颯真の右手首をつかんだ。


触れた。


颯真の指が、湊の腕へ巻きつく。


視線が中央へ戻る。


「湊」


「ここ」


「お前、今」


「何も呼んでない」


直哉はまだ工具箱の前を見ている。


湊と颯真が近づく。


颯真が湊の手首を離さず、父の肩へ左ではなく右手を触れる。


「父さん。ここだ」


直哉の目が湊へ合う。


「湊」


佳乃へ。


直哉が手を伸ばす。


佳乃の指が湊の頬へ触れる。


冷たい。


「見える」


言ってから首を振る。


「中央にいる」


澪が近づく。


湊の袖をつまむ。


「接触しました」


宗一郎は動かない。


湊から見れば、祖父の目は廊下の奥に残っている。


「祖父ちゃん」


「声は聞こえる」


「場所は」


宗一郎は答えない。


湊が近づき、空の左袖ではなく右手を握る。


宗一郎の指が、湊の手を握り返す。


視線が合う。


「ここだ」


最後に担任。


担任は椅子を見たまま、動けない。


湊が名前を呼ぶ。


「先生」


返事はない。


颯真が湊の手を握ったまま、担任の前へ連れていく。


湊は担任が落とした鉛筆を拾い、掌へ置く。


指が触れる。


担任の目が湊へ戻る。


「黒瀬君」


「どこに見えますか」


担任は足元の紙紐を見る。


「中央ではない」


声が震える。


「私の前にいます」


実際に、湊は担任の前にいる。


接触後の位置だけが一致した。


午後六時四十三分。


音が戻る。


蝉が一斉に鳴く。


冷蔵庫が低く震える。


壁時計の秒針が進む。


庭の鳥居の影は消えた。


誰も湊から手を離さなかった。


「記録」


佳乃が言う。


「今、書く」


六人が自分の場所へ戻らず、その場で紙へ書く。


湊も書く。


自分は中央に立っていた。


六人の視線が別々の場所へ外れた。


自分は誰も呼んでいない。


紙を並べる。


颯真の紙。


湊は北、窓際。


「兄ちゃん」と聞こえた。


直哉の紙。


湊は北東、工具箱の前。


「父さん」と聞こえた。


佳乃の紙。


湊は西、食卓の横。


「母さん」と聞こえた。


澪の紙。


湊は南、玄関の前。


自分の名前を呼ばれた。


宗一郎の紙。


湊は東、廊下の奥。


「祖父ちゃん」と聞こえた。


担任の紙。


湊は南東、椅子の前。


「先生」と聞こえた。


六枚とも違う。


湊の紙だけが中央。


「全員、見えていた」


直哉が言う。


「でも、同じ場所じゃない」


湊が答える。


「声も違う」


佳乃が紙へ書く。


「呼ばれた関係によって、場所が分かれた?」


颯真が訊く。


宗一郎はすぐに答えない。


「可能性はある」


「推測」


湊が言う。


「推測だ」


澪は六枚を見比べる。


「湊君が分かれたとは限りません」


「俺たちが別々に見ただけ?」


直哉が訊く。


「観測する側の関係が、位置を作った可能性もあります」


「どっちが危ない」


颯真が言う。


「分かりません」


澪は答えた。


「どちらでも、八月十五日に同じことが起きれば、名前と関係が残っていても湊君を同じ現実へ置けません」


直哉が湊の肩をつかむ。


「これから誰かがずっと触れていれば」


「一人じゃだめだ」


颯真が遮る。


「外の俺だけが見えてた」


「お前が触れていれば、湊は消えなかったかもしれない」


「俺の場所にしかいられなくなったかもしれない」


直哉は言葉を止める。


颯真は湊の手首を握ったまま続ける。


「一人で見続けるのは、守ることじゃない」


宗一郎との関係が薄れた時、一人の記憶へ任せなかった。


引き戸の向こうにいた外の颯真を、一人の判断で閉め出さなかった。


今度は、湊の位置を一人へ任せない。


「二人以上で触る?」


佳乃が訊く。


「触り続けたら生活できない」


湊が言う。


「時間を決める」


担任が鉛筆を拾う。


「位置、声、接触を、それぞれ別に確認する」


「見えている、だけは書かない」


直哉が言う。


「どこに見えたか」


「何と聞こえたか」


「どこへ触れたか」


澪が続ける。


佳乃が新しい表を作る。


名前。


関係。


位置。


声。


接触。


一人ずつではなく、同じ時刻に複数人が記録する。


「これも完全じゃない」


湊が言う。


「完全じゃなくていい」


颯真が返す。


「ずれたら、ずれたことを残す」


工具箱へ名前を刻んだ夜と同じ答え。


宗一郎は六枚の原本へ目を落とす。


「私が一人で決めていた頃よりは、ましだ」


直哉が父を見る。


「まし、で済ませるな」


「では、良い」


「急に軽くするな」


一瞬だけ、颯真が笑う。


湊も笑いかける。


引き戸の下で、紙が動いた。


全員の表情が変わる。


誰も一人で近づかない。


七人で玄関へ移る。


午後六時四十七分。


向こう側へ半分差し込んでいた紙が、こちらへ戻っている。


表に文字はない。


湊が鉛筆を横にする。


擦る前に、担任が手を止めた。


「全員、見ていますか」


「場所を書いてから」


佳乃が答える。


七人が、自分のいる位置と紙の位置を書く。


玄関。


引き戸の前。


全員一致。


それから、湊が擦る。


灰色の文字が浮かぶ。


僕は消えたんじゃない。


次の行。


みんなの中で、同じ場所にいなくなった。


颯真の指が、湊の手首へ強く食い込む。


三行目がある。


兄ちゃんだけが、最後まで僕の場所を変えなかった。


「俺だけ」


颯真が呟く。


「だから外の兄ちゃんには見えてた」


湊が言う。


「そう書いてあるだけだ」


宗一郎が言う。


「誰が書いたかは、まだ分からん」


「でも」


「記録は残す」


颯真は紙から目を離さない。


「信じるかは、これから決める」


湊は颯真の手がある場所を見る。


自分の手首。


同じ場所。


佳乃が時刻を書く。


八月三日、午後六時四十八分。


八月十五日まで、あと十二日。


壁時計は進んでいる。


引き戸の向こうから、もう文字を書く音はしなかった。


それでも七人は、同じ玄関を見ていた。


誰も、見えているとは言わなかった。


それぞれが、紙へ場所を書いた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


続きが気になった方は、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。