第八話 扉の外にいる兄
古い引き戸が、向こう側から数ミリずつ滑った。
木枠が擦れる、乾いた音。
直哉がすぐに右手を差し入れ、戸を止めた。
完全には閉まらない。
細い隙間から、夜の空気が流れ込んでくる。
八月二日の湿った風ではなかった。
冷えている。
線香と、雨に濡れた土の匂いがした。
「開けて」
颯真の声が、隙間の向こうから聞こえる。
湊の隣にいる颯真が、吊った左腕を押さえた。
「誰だ」
声は低かった。
引き戸の向こうで、短く息を吸う音がする。
「俺だよ」
「俺はここにいる」
「見れば分かる」
「見せろ」
直哉の手に力が入る。
「開けない」
「父さん」
外の声が呼んだ。
直哉の指が一瞬だけ止まる。
同じ声だった。
呼び方も、言葉の置き方も同じだった。
「今は、誰も一人で決めない」
湊が言った。
工具箱の前に立つ宗一郎が、湊を見る。
家族で時計の扱いを決めてから、何度も繰り返してきた言葉だった。
開けることも、閉め切ることも、一人では決めない。
佳乃が大学ノートを取る。
「外にいる人」
鉛筆の先を紙へ置く。
「質問に答えられますか」
「答える」
「答えられないことは、分からないと言えますか」
少し間があった。
「言う」
澪は折れた境界針を両手で包んでいる。
針先は、玄関にも居間にも向かない。
ただ、二つに折れたまま震えていた。
「名前を」
佳乃が言う。
「黒瀬颯真」
「生年月日」
外の颯真が答える。
現在の颯真も、同じ日付を小さく口にした。
声が重なった。
「湊の誕生日」
答えは同じだった。
「湊が左膝に傷を作った理由」
「神社の裏の石垣から飛んだ」
現在の颯真が先に言う。
外から、同じ答えが返る。
「止めたのに飛んだ。着地してから泣かなかったって嘘ついた」
湊は左膝へ手を置いた。
薄い傷が残っている。
「父さんが、台所のどこに菓子を隠していたか」
佳乃が直哉を見る。
「何でそれを聞く」
直哉の声が硬くなる。
外の颯真が答えた。
「流しの下。使ってない土鍋の中」
現在の颯真も頷く。
佳乃がゆっくり直哉を見る。
「あとで話しましょう」
「今じゃない」
直哉は引き戸から手を離さない。
外の颯真が、かすかに笑った。
その笑い方で、曇りガラスの右側に小さなくぼみの影ができる。
右頬のえくぼ。
現在の颯真にはない。
笑い声が消えると、影も消えた。
「兄ちゃんが嫌いだった食べ物」
湊が訊く。
「煮た人参」
外の颯真は、今度は迷わなかった。
「四歳の時、喉に詰まらせた」
「じゃあ、何で食べられるって言ったの」
「食べられるようになったから」
「いつ」
外が静かになる。
「八月三日」
居間の全員が壁時計を見た。
八月二日、午後九時二十二分。
秒針は動いている。
「今日は八月二日だ」
直哉が言う。
「そっちは違うのか」
「八月十五日」
外の颯真が答えた。
「午後九時十三分から、時計が動いてない」
◇
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
隙間から入る空気に、線香の匂いが混じっている。
八月十五日。
宗一郎を止めろと刻まれた日時。
「証明できる?」
湊が訊く。
「できるか分からない」
外の颯真は答えた。
「俺の腕時計は止まってる。でも見せるには、もう少し開けないといけない」
現在の颯真が引き戸へ近づく。
直哉が左腕で制した。
「近づくな」
「質問するだけだ」
「そこからでいい」
「俺に聞かせて」
颯真は父を見た。
「俺のことは、俺が一番分かる」
「分かるとは限らない」
宗一郎が言う。
現在の颯真が振り返る。
「祖父ちゃんは黙ってて」
「分かった」
宗一郎は本当に黙った。
以前なら、時間がないと言って先に結論を出していた。
今は工具箱から距離を取り、右手を空の左袖へ添えている。
颯真は引き戸の前に座った。
戸を隔てて、二人の兄が同じ高さになる。
「左肩」
現在の颯真が言う。
「どうなってる」
「傷は閉じた。糸は昨日取った」
「何針」
外の颯真が答える。
現在の颯真の眉が動いた。
数は同じだった。
「傷の形」
「肩の後ろから前へ斜め。最後だけ少し曲がってる」
現在の颯真が、吊った腕の上から傷の位置をなぞる。
一致している。
「神社で、誰に刺された」
「黎一」
「何で庇った」
「祖父ちゃんが刺されそうだったから」
「俺が言ったこと」
外の颯真は少し黙った。
「死ぬことで兄貴になるのは、やめる」
現在の颯真の唇が固くなる。
同じ記憶。
少なくとも山ノ宮神社で黎一と対峙し、鳥居の影を切るまでは、外の颯真も同じ選択をしている。
「病院で、母さんに最初に何て言われた」
「大丈夫な人は救急車で来ない」
佳乃の鉛筆が止まる。
自分の言葉だった。
「昨日の夜、湊に何て言った」
「泣くなよ」
「そのあと」
「顔が泣く前の顔」
湊は救急車の扉が閉じる瞬間を思い出す。
そこまで同じだ。
違う履歴は、遠い過去から完全に別れていたわけではない。
同じ出来事を通り、同じ言葉を交わし、それでも今は別の玄関に立っている。
「八月二日に何があった」
現在の颯真が訊く。
「朝、父さんが工具箱の写真を撮った。宗一郎の傷だけ写らなかった」
直哉が佳乃を見る。
まだ起きていない。
だが、これまでの観測から考えれば、起こり得る。
「八月三日」
「母さんが人参を薄く切って煮た」
「何で」
「俺の傷が痛くて箸を使いにくかったから、片手でも食えるものを作った」
外の颯真の声が少し柔らかくなる。
「俺が残したら、湊が先に食った」
「僕が?」
「『別の兄ちゃんは食べられるかもしれない』って言った」
湊は何も言えなかった。
まだ口にしていない言葉だった。
外の颯真は続ける。
「腹が立って、一つ食った。思ってたほどまずくなかった」
現在の颯真が鼻で笑う。
「そんな理由で治るかよ」
「お前なら食う」
「食わない」
「食った」
二人の声が、同じ調子でぶつかる。
一瞬だけ、居間の空気が普通の兄弟喧嘩に戻った。
佳乃が口元を押さえる。
笑ったのではない。
泣きそうになったのを隠した。
「八月十五日まで、何が起きた」
直哉が訊く。
外の颯真は答えない。
「全部じゃなくていい」
佳乃が言う。
「確認したことだけ」
「宗一郎の名前は残った」
外の颯真が言う。
「家族との関係は、何度も切れた。そのたびに記憶を書いて戻した」
現在の宗一郎が目を閉じる。
「澪は」
居間の澪が訊く。
「二人ともいた」
「どちらかが消えましたか」
「消えてない。会うたびに、周りが二人を別人だと思う時間が長くなった」
澪は大学ノートへ自分で書き加える。
別の履歴では、八月十五日まで二人の澪が存在した。
「黎一は」
「見てない」
「記録は」
「叔父だったことと、颯真を犠牲にしようとしたこと。二つとも残ってた」
澪の指が止まる。
自分たちが今日書いた文章と同じだった。
「沙夜子さんは」
宗一郎が訊く。
声が掠れている。
「障子の向こうにいた」
「何と書いた」
「忘れても、開けないで」
現在と同じ。
宗一郎は工具箱を見なかった。
「それで」
湊が訊く。
「祖父ちゃんを止めたの」
外から、長い息が聞こえた。
「止めた」
「時計は」
「開かなかった」
「誰も?」
「誰も開けてない」
金属片の警告に従った履歴。
沙夜子の意思にも従った履歴。
それでも、玄関の外にいる颯真は、現在ではない場所から助けを求めている。
「何が起きたの」
湊が訊く。
外の颯真は、しばらく答えなかった。
木の向こうで、何かを握り締める音がした。
紙が潰れる音。
「湊が消えた」
◇
現在の颯真が立ち上がった。
吊った左腕が身体へ当たり、顔が歪む。
「どういう意味だ」
「そのまま」
「死んだのか」
「分からない」
「見てたんだろ」
「見てた」
外の颯真の声が震える。
「だから分からないんだよ」
引き戸の向こうで、拳が一度だけ木へ触れた。
叩くのではなく、身体を支えた音だった。
「午後九時十三分。祖父ちゃんを工具箱から離した。鍵の封筒も開けなかった。全員で名前と関係を言った」
家族で決めた手順。
「最初にコピーから湊の名前が消えた」
誰も動かない。
「原本には残ってた。工具箱に打った点も残ってた。でも、母さんが湊の茶碗を見て、誰のか分からないって言った」
佳乃が食卓を見る。
湊の茶碗がある。
青い線の入った、小さな茶碗。
「父さんが子ども部屋を開けた。二人分の机があるのに、一つは誰の机か分からなかった」
直哉の右手が引き戸から離れかける。
すぐに戻す。
「俺は覚えてた」
外の颯真が言う。
「何でかは分からない。湊が書いた紙を持ってたからかもしれない。傷を覚えてたからかもしれない。ただ、俺だけは名前を呼べた」
「僕は、そこにいた?」
「いた」
「どこに」
「居間」
外の声が細くなる。
「なのに、近づけなかった」
湊は自分の腕を見る。
黒い線は手首から肘の手前まで残っている。
「見えてたの」
「見えてた。お前は全員に触ろうとしてた。母さんの袖を掴んで、父さんの前に立って、兄ちゃんって何度も呼んだ」
現在の颯真が歯を食いしばる。
「俺は返事をした」
「それなら」
「声が届かなかった」
外の颯真は言う。
「目の前にいるのに、ガラスより遠かった」
二人の澪が手を重ねられなかった時と同じ言葉。
物理的な距離ではない。
関係が切れた距離。
「湊は、玄関へ行った」
「何で」
「分からない。誰かに呼ばれたみたいだった」
「誰に」
「俺の声だった」
現在の颯真が戸へ近づく。
「お前が呼んだのか」
「呼んでない」
「でも、お前の声だった」
「俺じゃない」
つい先ほど、外から聞こえた声。
今ここにいる颯真の声。
声が同じであることは、本人である証明にならない。
「湊が戸を開けた」
外の颯真が続ける。
「向こうは白い廊下じゃなかった。黒瀬家の玄関だった」
「今みたいに?」
「たぶん」
外の颯真は、初めてはっきり言った。
「分からない。俺は湊の腕を掴もうとした。届かなかった。戸が閉まって、湊だけいなくなった」
「それで、ここへ来た?」
「戸の向こうから、お前の声がした」
「僕の」
「『兄ちゃん』って」
湊は呼んでいない。
少なくとも、玄関を叩く音がする前には。
「開ければ、湊がいると思った」
外の颯真が言う。
「だから開けてって言った」
「僕を連れて帰るため?」
「違う」
返事は早かった。
「帰る場所があるかも分からない」
「じゃあ」
「お前が、俺の知ってる湊か確認したかった」
「確認できた?」
沈黙。
「まだ」
その答えを、湊は嫌だと思わなかった。
すぐに弟だと決められるより、正しかった。
「俺も、お前を兄ちゃんだと決めてない」
湊が言う。
外の颯真が、かすかに息を漏らす。
「それでいい」
◇
佳乃は紙を新しく一枚取り出した。
上に日付を書く。
八月二日、午後九時三十一分。
玄関側の颯真と、居間側の颯真。
本物、偽物とは書かない。
「確認できた共通記憶」
佳乃が読み上げる。
湊の膝の傷。
直哉が隠していた菓子。
山ノ宮神社での選択。
左肩の傷。
病院で交わした言葉。
「確認できた相違」
右頬のえくぼ。
傷が治癒している時間。
煮た人参を食べられるようになった経験。
現在より十三日先の出来事を記憶していること。
「本人が確認できていないこと」
どの時点で履歴が分かれたか。
なぜ現在の玄関へ接続したか。
扉を完全に開けた場合、二人へ何が起こるか。
外の颯真が、本当に八月十五日から来たのか。
「俺の腕時計を見れば、日付は分かる」
外の颯真が言った。
「見せる方法を考える」
直哉が答える。
「今は開けない」
「分かった」
さっきまで開けてと繰り返していた声が、抵抗せずに受け入れる。
現在の颯真が戸を見つめる。
「簡単に諦めるなよ」
「お前がいるから」
「何だよ」
「俺が入ったら、お前がどうなるか分からない」
現在の颯真の喉が動く。
「消えると思ってるのか」
「分からない」
「そればっかりだな」
「分からないことを、分かったふりするよりいいだろ」
宗一郎がわずかに顔を伏せた。
その言葉は、自分へ向けられたものでもあった。
「少しだけ、開けてみる」
澪が言った。
全員が澪を見る。
「入れるためではありません。現在、数ミリ開いています。そこから広げた時に、何が変化するかを確認します」
「危険だ」
直哉が言う。
「閉め切ることも、外の颯真さんを消す可能性があります」
「可能性で開けるのか」
「閉めることも、可能性で決めています」
澪の声は静かだった。
「どちらかだけを安全な選択とは呼べません」
佳乃が引き戸を見る。
「全員で止められる幅だけ」
直哉は返事をしない。
「あなた一人の手で止めないで」
佳乃が続ける。
直哉の肩から、少し力が抜けた。
現在の颯真が右手を戸へ置く。
湊も並ぶ。
佳乃がその後ろへ手を重ねる。
澪は隙間の幅を鉛筆で木枠へ印す。
宗一郎は工具箱から離れたまま、壁時計を見る。
午後九時三十四分。
時間は進んでいる。
「一センチ」
直哉が言った。
「それ以上は開けない」
外の颯真にも伝える。
「手を入れるな。身体を寄せるな」
「分かった」
「せーの」
佳乃の声で、五人が戸を一センチだけ滑らせた。
冷気が強くなる。
隙間の向こうに、颯真の右目が見えた。
その下に、えくぼの影。
病院着ではない。
黒い半袖のシャツ。
左肩には、外したばかりの糸の跡が赤く残っている。
首筋の黒線は現在の颯真より濃い。
外のさらに向こうには、黒瀬家の庭が見えた。
同じ飛び石。
同じ物置。
だが、軒先に白い提灯が下がっている。
八月十五日の盆飾り。
提灯の火だけが動かない。
「腕」
外の颯真が右手を上げる。
時計の文字盤を隙間へ向ける。
午後九時十三分。
秒針は一の手前で止まっている。
小さな日付窓は、十五。
佳乃が写真を撮る。
画面を見る。
腕時計は写っている。
その手首から先が薄い。
顔は写らない。
直接触れている物だけが、輪郭を残している。
これまでの観測と矛盾しない。
「確認しました」
佳乃が言う。
「腕時計が午後九時十三分で止まり、日付窓が十五を示していることを確認しました。持っている人の顔は写っていません」
澪は、白い提灯と本人の証言を合わせ、八月十五日の可能性が高いと記録する。
その時、現在の颯真が右頬を押さえた。
「どうした」
湊が訊く。
颯真は答えない。
指の下に、小さなくぼみができている。
えくぼ。
笑っていないのに、右頬が内側へ引かれている。
外の颯真が息を呑む。
隙間の向こうで、彼の右頬からえくぼが消えていた。
「閉めろ」
宗一郎が言う。
「まだ」
現在の颯真が首を振る。
「俺は大丈夫」
次の瞬間、颯真の表情が変わった。
台所の匂いを嗅ぐように鼻を動かす。
「甘い」
「何が」
「人参」
佳乃は今夜、人参を煮ていない。
颯真の目が、ここではない食卓を見る。
薄く切った人参。
片手で箸を持つ自分。
先に食べる湊。
まだ起きていない八月三日の記憶。
「湊が、別の兄ちゃんは食えるかもって」
現在の颯真が言う。
外の颯真が同じ言葉を続ける。
「腹が立って、一つ食った」
二人の声が重なる。
現在の颯真の首筋の黒線が、一段濃くなる。
外の颯真の左肩には、まだ縫合糸があるように見え始める。
十三日の差が縮んでいる。
どちらかへ揃っているのではない。
互いの違いが、入れ替わっている。
「閉める!」
直哉が叫ぶ。
全員で戸を押す。
外の颯真も、向こう側から引いた。
一センチの隙間が狭くなる。
閉まる直前、二人の颯真の右手が同じ場所へ伸びた。
木一枚。
触れない。
戸が閉じる。
えくぼは現在の颯真の頬から消えた。
外の声が遠くなる。
「今の、覚えてる?」
湊が訊く。
現在の颯真は、しばらく台所を見ていた。
「人参を食った」
「本当に?」
「記憶がある」
「起きてない」
「分かってる」
颯真は右頬を触る。
「でも、味も覚えてる」
佳乃が記録する。
扉を一センチ開いた間、居間側の颯真に玄関側の颯真の未来記憶が現れた。
玄関側の颯真のえくぼは一時的に消え、左肩の傷が現在へ近づいた。
扉を閉じると外見は戻った。
記憶は、居間側の颯真に残った。
「完全に閉めても、戻らないものがある」
澪が言う。
「だからって、開けたままにはできない」
直哉が答える。
「はい」
澪は反論しない。
開けるか閉めるか。
どちらにも結果が残る。
安全な側はない。
◇
「外の兄ちゃん」
湊が戸へ向かって言った。
「聞こえる?」
しばらくして、返事がある。
「聞こえる」
声はさっきより遠い。
「えくぼは」
「戻った」
「傷は」
「糸はない」
「人参の記憶は」
「ある」
「僕たちが開けたことは」
「覚えてる」
二人の履歴は、完全には混ざっていない。
だが、触れた時間だけ互いへ残った。
現在の颯真が戸の前へ戻る。
「お前、入らなくていいのか」
「入りたい」
外の颯真は正直に答えた。
「湊がいる。母さんも父さんもいる。祖父ちゃんも、澪もいる」
「俺もいる」
「だから、今は入れない」
「俺が消えるから?」
「俺が消えるかもしれない」
現在の颯真は黙る。
どちらも、自分だけを守る言い方ではなかった。
「お前のところの家族は」
「いる」
「お前を覚えてる?」
長い沈黙。
「母さんは、俺を息子だって言った」
「父さんは」
「颯真って呼んだ」
「祖父ちゃんは」
「俺を見てた」
「じゃあ、戻れよ」
「戻る戸がない」
外の颯真が言う。
「湊が消えたあと、玄関を閉めた。もう一度開けたら、庭じゃなくてここだった」
「後ろは」
「家の庭に見える。でも、誰も動かない」
白い提灯の火。
止まった時計。
午後九時十三分から進まない八月十五日。
外の颯真は、家の外にいるのではない。
帰る場所と、入る先の間にいる。
「閉めたら、お前はどうなる」
現在の颯真が訊く。
「分からない」
「消えるかも?」
「かもしれない」
「それで閉めろって言ったのか」
「お前が人参のことを言ったから」
「意味分かんねえ」
「俺の記憶がお前に入った」
外の声が少し強くなる。
「俺が全部入ったら、お前が俺になるかもしれない」
「俺は俺だ」
「俺もそう思ってる」
二人とも譲らない。
だからこそ、どちらかを本物とは決められない。
佳乃が引き戸へ手を置く。
「颯真」
二人が同時に返事をした。
「はい」
佳乃の目から、初めて涙が落ちた。
すぐに拭う。
「二人とも、今は私の声に返事をした」
母親であることを証明する言葉ではない。
確認した事実だけ。
「私は、二人とも息子だと思っています」
「母さん」
現在の颯真が呼ぶ。
外からも、同じ声。
「でも、扉を開けた時に、二人のうち一人との関係を失うかもしれない」
佳乃は続ける。
「怖いから開けないのではありません。二人を確認し続けるために、今は閉じます」
外の颯真は答えない。
直哉が佳乃の隣へ立つ。
「追い返すわけじゃない」
声が硬い。
柔らかく言う方法を知らない。
「明日まで持つ方法を探す」
「こっちは時間が動いてない」
「なら、こっちの明日までだ」
「父さん」
「何だ」
「俺のこと、覚えてて」
直哉はすぐに答えなかった。
自分が忘れる可能性を知っている。
約束すれば守れるとは言えない。
「忘れたら、思い出すための記録を残す」
宗一郎との関係が薄れた時に得た答えを使う。
「お前が誰か、勝手に決める記録じゃない。何を話したかを残す」
「うん」
「それでいいか」
「それがいい」
宗一郎が戸へ近づく。
現在の颯真が身体を固くする。
「何を言うつもりだ」
「確認する」
宗一郎は引き戸から一歩離れた場所で止まる。
「八月十五日、私は時計を開かなかったのだな」
「開けなかった」
「誰が止めた」
「全員」
「私は抵抗したか」
外の颯真は少し考える。
「工具箱へ手を伸ばした」
湊が空の左袖を掴んだ光景。
沙夜子の言葉を聞いた直後。
現在でも起きた動き。
「でも、自分で戻した」
「そのあと、もう一度触れたか」
「触れてない」
「開かなかったことを、何で確認した」
「鍵の封筒は破れてない。全員の署名も残ってた。工具箱も閉じてた」
「時計の音は」
「しなかった」
宗一郎が目を閉じる。
「それでも湊は消えた」
「うん」
金属片の命令は、間違いではないかもしれない。
だが、それだけでは足りない。
宗一郎を止めても、失われる履歴がある。
「紙を持っていると言ったな」
宗一郎が訊く。
「湊が書いた紙」
「こっちへ渡せるか」
「隙間からなら」
直哉が戸の下を見る。
古い引き戸は、完全には床へ密着していない。
数ミリの隙間がある。
紙一枚なら通る。
「身体を近づけるな」
直哉が言う。
「紙だけ押せ」
外で、紙を広げる音がする。
何度も折られ、握られた紙。
戸の下から、白い端が少しずつ現れる。
湊が取ろうとする。
直哉が先に止めた。
「箸を」
佳乃が台所から長い菜箸を持ってくる。
紙へ触れ、引き寄せる。
誰の身体も境界へ触れない。
紙は居間側へ入った。
大学ノートから切り取られた一枚。
紙の上部に、直接書かれた日付。
八月十五日、午後九時十三分以後。
その下に、六人の署名と、「湊との関係」を書く欄がある。
湊。
颯真。
直哉。
佳乃。
澪。
宗一郎。
名前はすべて残っている。
関係を書く欄だけが、湊本人の行で空白になっていた。
他の行には、弟、息子、息子、協力者、孫と書かれている。
宗一郎の欄には、祖父。
湊の名前はある。
湊が誰なのかだけがない。
紙の下へ、外の颯真の字が重ねられている。
宗一郎は時計を開けていない。
鍵の封筒は破れていない。
黒瀬湊は、全員から見えなくなった。
俺だけは、声を聞いた。
「これを書いたのは」
現在の颯真が訊く。
「俺」
外から答えが返る。
「原本?」
佳乃が訊く。
「原本。写真もコピーも、湊の名前まで消えた」
紙の右下に、黒い指の跡がある。
何度も触れた汚れ。
直接の物理痕跡。
「持ってて」
外の颯真が言う。
「俺が消えても、それは残るかもしれない」
「消えるって言うな」
現在の颯真が言う。
「分からないことを、決まったみたいに言うな」
外で、小さく笑う。
「お前、俺より面倒くさいな」
「同じだろ」
「多分な」
◇
午後九時四十八分。
現在の壁時計は進んでいる。
外の腕時計は午後九時十三分のまま。
声は、少しずつ遠くなっていた。
引き戸の曇りガラスにある人影も薄くなっている。
「消えてる?」
湊が訊く。
「違う」
澪はすぐに答えなかった。
「そう見えます。ただし、消えているのか、接続が弱くなっているのかは分かりません」
「どうすればいい」
「記録を続けます」
今できることは、それだけ。
佳乃が玄関側の颯真について読み上げる。
黒瀬颯真と名乗った。
湊の膝の傷を知っていた。
少なくとも七月三十一日から八月一日までの出来事を、居間側の颯真と共有していた。
八月二日以降については、現在側で確認されていない出来事を記憶している。
八月十五日午後九時十三分の履歴を記憶している。
右頬にえくぼがある。
左肩の傷は治りかけている。
煮た人参を食べられる。
宗一郎が時計を開かなかった履歴で、湊が消えたと証言した。
「訂正は」
外へ訊く。
「煮た人参は、好きになったわけじゃない」
現在の颯真が吹き出す。
「そこかよ」
「食えるだけだ」
佳乃は本当に書き加える。
煮た人参を食べられるが、好物ではない。
「他には」
「俺は、今いる颯真を消したいと思ってない」
現在の颯真の笑いが止まる。
佳乃が書く。
「俺を入れろとも、今は言わない」
書く。
「湊を連れていきたいとも思ってない」
湊は引き戸を見る。
「じゃあ、何をしてほしい」
外の颯真は、すぐに答えなかった。
「八月十五日に、祖父ちゃんを止めて」
同じ警告。
「でも、止めたあとも終わったと思わないで」
新しい部分。
「誰かの名前が残ってても、関係が切れてないか確認して」
宗一郎との関係を戻した時の方法。
「湊が見えてるか、声が聞こえるか、一人ずつ言って」
「それで助かる?」
「分からない」
「お前のところでは、やらなかったの」
「名前と関係は言った。でも、全員が同じものを見えてるかまでは確認しなかった」
名前を読めること。
関係を書けること。
本人を観測できること。
同じではない。
宗一郎との関係を戻したあとも、まだ足りない確認がある。
「分かった」
湊が言う。
「記録する」
「約束するな」
外の颯真が返す。
「忘れたら守れない」
「じゃあ、忘れた時に見つけられるように残す」
「うん」
「外の兄ちゃんも」
「何」
「僕を探して」
「探してる」
「今いる僕じゃなくても」
外の声が詰まる。
「分かった」
「今度は、間に合わせて」
教室の窓に左腕のある宗一郎を見た時、湊が言った言葉。
外の颯真は、低く返事をした。
「お前もな」
現在の颯真が戸へ手を置く。
「おい」
「何だよ」
「俺は、お前を兄ちゃんとは呼ばない」
「勝手にしろ」
「でも、偽物とも呼ばない」
外の颯真は黙る。
現在の颯真は続ける。
「お前が覚えてる湊を、探せ」
「お前は、今いる湊を離すな」
「言われなくても」
曇りガラス越しに、二人の右手が同じ場所へ重なる。
触れてはいない。
影だけが一つになる。
「戸を閉める」
直哉が言う。
「次に開く方法が分かるまで、閉める」
外の颯真が返事をする。
「分かった」
「お前をいなかったことにはしない」
「父さん」
「何だ」
「そっちの俺にも言ってやって」
直哉は隣の颯真を見る。
「お前もだ」
現在の颯真が顔を背ける。
「分かってる」
全員が引き戸へ手を置く。
閉めるために、一人へ任せない。
残っていた数ミリの隙間を、ゆっくり塞ぐ。
冷気が細くなる。
線香の匂いが薄れる。
最後に外の颯真の声が聞こえた。
「湊」
「うん」
「俺のところのお前は、最後まで俺を兄ちゃんって呼んだ」
「僕も呼ぶよ」
「まだ決めてないんだろ」
「決めてない」
湊は答えた。
「でも、呼んだことは残す」
引き戸が閉まる。
木枠が合う。
人影は消えた。
壁時計は午後九時五十一分。
時間は進んでいる。
誰も、すぐに玄関から離れなかった。
現在の颯真の右頬に、えくぼはない。
それでも、煮た人参の味を覚えている。
未来から入った記憶だけが残っている。
佳乃が、玄関側の颯真の記録へ全員の署名を求める。
湊。
颯真。
直哉。
佳乃。
澪。
宗一郎。
宗一郎の署名は原本に残った。
コピーすると消えた。
玄関側の颯真の名前は、原本にもコピーにも残った。
顔写真には写らなかった。
腕時計だけが写っている。
「この紙も確認する」
湊は八月十五日から渡された原本を畳へ置く。
表の文字は残っている。
宗一郎は時計を開けていない。
黒瀬湊は、全員から見えなくなった。
紙を斜めから見ると、湊の関係欄に薄い凹みがあった。
インクはない。
何かを書いた筆圧だけが残っている。
「鉛筆」
担任のノートで使った方法。
湊は鉛筆を横に寝かせ、紙の上を薄く擦る。
灰色の粉が、凹んだ線を浮かび上がらせる。
最初の一行。
祖父ちゃんは、開けていない。
次の一行。
それでも僕は、ここから消える。
文字は湊の筆跡だった。
現在の湊が書いた覚えのない、自分の字。
最後の一行は、途中で途切れている。
兄ちゃんを一人に――
その先は、紙の端ごと破れていた。
現在の颯真が、欠けた部分へ指を置く。
「一人に、何だよ」
誰も答えられない。
玄関の外から、もう声はしなかった。
ただ閉じた引き戸の向こうで、一度だけ、誰かが紙へ文字を書く音がした。
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