第七話 忘れた者たち
窓ガラスの隅に浮かんだ白い指は、動かなかった。
左手の人差し指。
工具箱へ刻まれた三文字を、まっすぐ指している。
宗。一。郎。
湊は空の左袖を握ったまま、宗一郎の顔を見上げた。
宗一郎も、自分の名前を見ていた。
「祖父ちゃん」
返事がない。
「祖父ちゃん?」
宗一郎の眉間へ、ゆっくり皺が寄った。
「これは」
右手が工具箱へ伸びる。
指先が、最初の文字へ触れた。
「誰の名だ」
部屋の空気が止まった。
直哉が立ち上がる。
「親父」
宗一郎は、その声へ顔を向けた。
目は直哉を見ている。
けれど、息子を見る目ではなかった。
知らない男の顔から、答えを探している。
「俺だ」
直哉が言った。
「直哉だ」
「知っている」
宗一郎はすぐに答えた。
声だけが、少し遅れた。
「私の息子だ」
「じゃあ、その名前は」
宗一郎は工具箱を見る。
三文字を一つずつ、口の中で確かめる。
「黒瀬宗一郎」
「誰だ」
颯真が訊いた。
宗一郎の喉が動く。
「私だ」
言い切った瞬間、窓の白い指が消えた。
曇りだけが残る。
工具箱の周囲に打った六つの点は残っていた。
ただし、一つだけ浅くなっている。
最後に宗一郎自身が打った点だった。
「今、分からなかったよね」
湊は言った。
「一瞬だ」
「一瞬でも」
宗一郎は否定しなかった。
佳乃が大学ノートの写しを開く。
原本から書き写した今夜の記録。
午後九時十三分。
二人の澪。
左腕のある宗一郎。
沙夜子の観測像。
六人の署名。
宗一郎の名前だけが、コピーでは消えた。
「名前が消える前に、名前を忘れるの」
佳乃が訊いた。
「順番は決まっていない」
宗一郎が答える。
「推測?」
湊が訊く。
「ああ」
すぐに認めた。
直哉が窓へ近づく。
白い指の跡へ触れようとする。
「触るな」
宗一郎が止めた。
「何が起きるか分からん」
「だったら、写真を撮る」
佳乃がスマートフォンを向けた。
窓には曇りしか写らなかった。
工具箱は写る。
刻んだ名前も、六つの点も写る。
画面を拡大する。
宗一郎自身が打った点だけが、写真では見えなかった。
実物にはある。
再撮影した画面にはない。
「自分で残した関係から先に消えている?」
澪が呟いた。
「関係なのか、署名者なのかは分からない」
宗一郎が言う。
「分からないなら、分かる形で残そう」
湊は大学ノートを引き寄せた。
新しいページを開く。
一番上へ書く。
記憶を一人へ任せないための記録。
その下で鉛筆が止まる。
「事実を書くんじゃない」
湊は言った。
「自分が覚えてることを書く」
「同じではないの?」
佳乃が訊く。
「違う」
澪が答えた。
「事実として書けば、どの履歴が正しいかを決めることになります」
居間の全員を見る。
「でも、『私はこう覚えている』なら、違う記憶を同時に残せます」
颯真が鉛筆を取った。
左肩を動かさないよう、右手だけで書く。
私は、宗一郎に自転車の後ろを押してもらったことを覚えている。
湊が兄を見る。
「いつ?」
「小学校に入る前」
「僕は見てない」
「お前はまだ小さかった」
颯真は少し考え、もう一行加えた。
手を放したと言われたあとも、しばらく荷台をつかんでいた。
宗一郎が颯真を見る。
「覚えていたのか」
「転んだあとに見えた」
「そうか」
宗一郎の声は平らだった。
けれど右手が、空の左袖へ触れようとして止まった。
佳乃が次に書く。
私は、初めて黒瀬家へ来た日に、宗一郎が玄関の軋む音を直したことを覚えている。
「挨拶より先にね」
佳乃は言った。
「私の顔を見ないで、蝶番ばかり見てた」
「軋んでいたからだ」
「そういうところ」
佳乃が小さく笑う。
直哉は鉛筆を受け取らなかった。
「書け」
宗一郎が言う。
「命令するな」
「では、頼む」
直哉の指が動く。
鉛筆を取る。
長い間、紙の上へ置いたままにする。
やがて、一行だけ書いた。
私は、雨の日に宗一郎が学校の門の外で待っていたことを覚えている。
「傘を忘れた日か」
宗一郎が訊いた。
「違う」
直哉は紙を見たまま答えた。
「俺が喧嘩して呼び出された日だ」
宗一郎は黙った。
「迎えに来て、何も聞かなかった」
「聞いても答えん顔をしていた」
「それでも待ってた」
直哉は鉛筆を置いた。
湊が書く。
私は、宗一郎が左腕を失った瞬間を覚えている。
全員の視線が集まる。
湊は続けた。
私は、その前に左腕があったことも覚えている。
二つの履歴。
どちらかを消さないための文章。
澪は少し迷ってから書いた。
私は、宗一郎が自分の記憶を「推測だ」と言い直したことを覚えている。
「最近のことだけです」
澪が言う。
「それでいい」
佳乃が答えた。
「長く知っていることだけが、関係ではないから」
最後に、宗一郎が鉛筆を持つ。
右手だけで、ゆっくり書く。
私は、ここにいる五人を家族と協力者として覚えている。
颯真が眉を寄せる。
「協力者って誰だよ」
「澪だ」
「澪も家族でよくない?」
居間の澪が僅かに目を見開く。
佳乃は何も言わなかった。
宗一郎が澪を見る。
「本人が決めることだ」
澪は紙を見つめる。
「今は、協力者で構いません」
「今は、ね」
佳乃が言った。
澪は小さく頷いた。
六人がページの端へ、爪で小さな凹みを一つずつつける。
インクではない。
紙へ直接残した圧力だけが残る。
湊はページを閉じなかった。
「朝になったら確認する」
「眠るのか」
直哉が訊いた。
「交代で」
佳乃が答える。
「誰も一人にはしない」
宗一郎は反対しなかった。
壁時計は午後十時二分。
秒針は進んでいる。
十三分ではない。
何も起きない時刻も、今は記録する必要があった。
◇
八月二日の朝。
湊は味噌汁の匂いで目を覚ました。
時計は午前六時十二分。
十三分を過ぎるまで、布団の中で秒針を見た。
午前六時十三分。
何も起きない。
窓にも、白い指はない。
湊は階段を下りた。
居間には五人がいた。
颯真は左腕を吊ったまま、座布団へ座っている。
直哉は新聞を開いているが、一行も読んでいない。
澪は大学ノートを確認している。
宗一郎は工具箱の前に座っていた。
佳乃が膳を並べている。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
六つ目を置こうとして、手が止まった。
「どうしたの」
湊が訊く。
佳乃は空の茶碗を見る。
「一つ多い」
宗一郎の右手が動いた。
直哉が新聞を畳む。
「六人いる」
「そうね」
佳乃は部屋を見回した。
湊。
颯真。
直哉。
澪。
自分。
最後に宗一郎で視線が止まる。
「すみません」
佳乃が言った。
「どちらさまでしたか」
颯真が立ち上がりかける。
傷が引きつり、顔を歪める。
「母さん」
「冗談じゃないの」
佳乃の顔から血の気が引いている。
宗一郎は何も言わない。
佳乃は、知らない老人を家へ入れていたことに今気づいたような目をしていた。
それでも追い出そうとはしない。
「名前を」
湊が言った。
「昨日の記録を見て」
澪が大学ノートを開く。
文字は残っていた。
佳乃自身の文章。
私は、初めて黒瀬家へ来た日に、宗一郎が玄関の軋む音を直したことを覚えている。
佳乃は読む。
一度。
二度。
「書いたことは分かる」
指で自分の筆跡をなぞる。
「でも、思い出せない」
事実は戻らない。
湊は玄関へ走った。
古い引き戸を少し開き、閉める。
音はしない。
軋まない。
蝶番の一つだけが、他より新しい。
「ここ」
佳乃を呼ぶ。
「祖父ちゃんが直した」
「祖父ちゃん」
佳乃の唇が、その言葉の形を作る。
新しい蝶番へ触れる。
指先が小さく震えた。
「お義父さん」
声が戻った。
佳乃が居間を見る。
宗一郎を見つける。
「ごめんなさい」
宗一郎は首を横に振る。
「謝ることではない」
「でも、私は」
「忘れさせられている」
言い切ってから、宗一郎は付け加えた。
「その可能性が高い」
佳乃は笑わなかった。
「それでも、忘れたのは私です」
六つ目の膳を宗一郎の前へ置く。
味噌汁の湯気が上がる。
宗一郎は箸を持たない。
「食べて」
佳乃が言う。
「関係を思い出せなくても、朝ご飯は出します」
「昨夜と同じだな」
「何が」
「信じることと、保護することを分けている」
佳乃は少し考える。
「それを覚えているなら、あなたは宗一郎です」
宗一郎は味噌汁へ口をつけた。
湊は膳の数をノートへ書いた。
六つ。
一度、五つだと思った。
蝶番へ触れたあと、六つへ戻った。
「食事まで記録するのか」
直哉が訊く。
「戻った方法も書く」
湊は答えた。
「名前を読むだけじゃ戻らなかった」
澪が頷く。
「意味のある関係は、事実の一覧だけでは接続できないのかもしれません」
「また関係か」
颯真が自分の茶碗を見る。
「道と自分の間。記憶と自分の間。人と自分の間」
「同じ現象とは限りません」
澪は言った。
「似ているだけです」
佳乃が電話の受話器を取る。
着信音が鳴っていた。
病院からだった。
昨夜、宗一郎が受けた腕の検査についての確認。
佳乃は受話器を耳へ当てる。
「はい。家族です」
一度、言葉を止める。
「義理の父です」
電話の向こうで長い説明が続く。
佳乃の眉が寄る。
「緊急連絡先が空欄?」
直哉が立ち上がる。
佳乃は手で止めた。
「昨日、私が書きました」
相手が何か言う。
「名前は残っていますか」
湊が近づく。
佳乃は同じ質問を伝える。
返事を聞く。
「黒瀬宗一郎という患者名はあるそうです」
関係欄だけが空白。
住所もある。
検査結果もある。
左腕が長期間存在しないという記録もある。
家族だけがない。
「名前と身体は残っている」
直哉が言う。
「俺たちとの関係から消えてる」
宗一郎が工具箱へ視線を落とす。
刻まれた名前。
六つの点。
「順番は、関係からか」
「今のところは」
湊が言った。
「絶対じゃない」
宗一郎が湊を見る。
「分かってきたな」
「祖父ちゃんが言ったから」
「何を」
「推測だって言うこと」
宗一郎は少しだけ口元を緩めた。
その表情に、佳乃がもう迷わないことを、湊は確認した。
◇
午前九時を過ぎたころ、担任が黒瀬家へ来た。
大学ノートの原本を抱えている。
昨日と同じ服だった。
眠っていないらしい。
玄関で佳乃へ頭を下げ、居間へ入る。
宗一郎の前で足が止まった。
「先生?」
湊が呼ぶ。
担任は宗一郎を見る。
「こちらの方は」
昨夜の佳乃と同じ目だった。
宗一郎は自分から答えない。
湊が言う。
「黒瀬宗一郎。僕の祖父です」
「お祖父さま」
担任は繰り返す。
「学校へ来た」
大学ノートを開く。
自分の記録を読む。
宗一郎の名前が何度もある。
七月三十一日。
学校へ現れ、湊を神社へ連れていった老人。
その夜、電話で記録に参加した人物。
八月一日の朝。
二人の澪について説明した人物。
「書いてあります」
担任は言った。
「でも、顔を見た記憶がありません」
「外から先に忘れてる」
颯真が言う。
「外か内かで決まるとは限りません」
澪が答える。
「先生は、宗一郎さんとの直接の関係が少ない」
担任は大学ノートを胸へ抱える。
「怖いです」
声が震えていた。
「自分で書いたのに、知らない人の記録に見える」
「それでも持ってきた」
湊が言う。
「約束したから」
担任は頷く。
「続きを書かせてください、と言いました」
「誰に?」
宗一郎が訊く。
「黒瀬君に」
担任は湊を見る。
「あなたにです」
約束の相手は残っている。
宗一郎との関係だけが消えた。
担任は一枚の封筒を出した。
「御厨さんからです」
居間の澪が顔を上げる。
「どちらの?」
「学校にいる方」
担任は自分で言ってから、奇妙な顔をした。
言葉の意味は分かる。
だが、同じ生徒が二人いる異常を、感情として受け止め切れない。
封筒には、御厨澪と書かれていた。
筆跡は居間の澪と同じだった。
澪が封を開ける。
中には便箋が一枚。
最初の一行。
私は、黒瀬家へ行かなかった御厨澪です。
次の一行。
私は、御厨黎一を叔父と呼んでいたことを覚えています。
澪の指が止まる。
「叔父さま」
名前を口にする。
宗一郎が目を閉じた。
黎一。
白布の男。
鳥居の崩壊とともに白い光へ消えた人物。
「御厨家では」
担任が言う。
「その名前を知っている人がいないそうです」
「本人がいた部屋は?」
澪が訊く。
「物置になっている、と」
澪は便箋を裏返す。
裏には鉛筆の凹みがある。
文字は消えている。
湊が鉛筆を横にして擦る。
薄く形が浮かぶ。
私は、あの人のしたことを正しいとは思いません。
その下。
それでも、叔父ではなかったことにはしたくありません。
居間の澪は、長くその文章を見ていた。
「同じです」
「何が」
佳乃が訊く。
「私も、そう思います」
澪は大学ノートの新しいページへ書く。
私は、御厨黎一を叔父と呼んでいました。
私は、黎一が颯真を犠牲にしようとしたことを覚えています。
私は、その二つを同時に残します。
担任がペンを取る。
原本へ同じ文章を書き写す。
「私も見ました」
「先生は叔父さまを見ていません」
「この手紙を見たことを残します」
担任は言った。
「私が覚えている範囲だけ」
宗一郎が担任を見る。
「それでいい」
担任の顔に、一瞬だけ既視感が浮かぶ。
「前にも、そう言われた気がします」
「私が言ったかもしれん」
「推測ですか」
「ああ」
担任は初めて少し笑った。
忘れても、会話の形だけが残っている。
◇
午前十一時十三分。
壁時計の秒針が一周した。
何も起きなかった。
全員が時刻を記録する。
午前十一時十四分。
電話が鳴る。
担任が受話器を取った。
学校からだった。
電話口には、教室側の澪がいる。
担任が受話器を居間の澪へ渡す。
二人の同じ声がつながる。
「手紙を受け取りました」
『消えていませんか』
「表の文章は残っています」
『裏は』
「インクは消えています。凹みは残っています」
電話の向こうで息を吐く音。
『こちらの原本では、まだ両方読めます』
学校側の原本。
黒瀬家へ運ばれた手紙。
距離ではなく、再生成と移動の過程で差が出ているのかもしれない。
澪は断定しない。
「叔父さまの部屋は、本当に物置ですか」
『私は部屋を覚えています』
「今いる家の人は?」
『最初から物置だったと言っています』
「沙夜子さんは」
沈黙。
『障子の向こうにいます』
「叔父さまを覚えていますか」
『名前を見せると、首を横へ振りました』
「知らないという意味?」
『分かりません』
「宗一郎さんは?」
電話の向こうで、障子紙が擦れる音がする。
『その名前にも、反応しませんでした』
宗一郎の右手が畳を押す。
湊が空の左袖を掴む。
「今は行かない」
宗一郎は言った。
誰に言われる前でもなく。
「八月十五日まで、まだ十三日ある」
教室側の澪が言う。
『沙夜子さんの輪郭は、昨日より薄くなっています』
「確認できたことだけ?」
佳乃が訊く。
『はい』
「本人の希望は?」
『届きません』
「なら、まだ決めない」
佳乃が言う。
電話の向こうの澪も、居間の澪も同時に答えた。
『はい』
「はい」
通話が切れる。
表示は二分十三秒。
時刻は午前十一時十六分。
異常は十三分にだけ起きるわけではない。
それでも、十三分の近くに何かが集まっている。
湊は観測結果として書いた。
法則とは書かなかった。
◇
昼を過ぎると、宗一郎の物が一つずつ見つからなくなった。
最初は老眼鏡だった。
居間の棚へ置いてあったはずの黒いケース。
宗一郎は置いた場所を覚えている。
直哉も昨夜見た。
棚には、ケースの形に沿った薄い埃の跡だけが残っている。
物はない。
次は湯呑み。
六つ並べたうち、宗一郎が使っていた一つだけが消えた。
濡れた輪染みは残っている。
「物まで消えるの」
颯真が言う。
「全部ではない」
湊は工具箱を見る。
時計が入っている箱は残っている。
宗一郎の名も残る。
六つの点もある。
宗一郎の老眼鏡と湯呑みは、誰かが買った既製品だった。
工具箱の傷は、昨夜六人が直接つけた。
「直接刻んだものは残りやすい」
澪が言う。
「可能性が高いだけ」
湊が付け加える。
宗一郎が頷く。
午後一時十二分。
全員が居間へ集まる。
担任も残っていた。
午後一時十三分。
壁時計が止まる。
秒針は十二と一の間。
音が消えた。
蝉の声。
冷蔵庫の振動。
遠くの車。
全部が一度に消える。
湊の右腕の黒線が冷たくなる。
窓ガラスへ、左腕のある宗一郎が現れた。
昨夜より濃い。
白い顔ではない。
皺も、右耳の小さな傷も見える。
窓の向こうに立っているのではない。
反射の中で、現在の宗一郎と同じ場所へ重なっている。
左腕だけが違う。
佳乃が宗一郎を見る。
「すみません」
朝と同じ言葉。
「あなたは」
直哉が立ち上がる。
宗一郎を見る。
口が開く。
声が出ない。
親父。
その言葉が見つからない。
颯真も、宗一郎と窓の影を交互に見る。
「どっちだ」
「兄ちゃん」
湊が呼ぶ。
「祖父ちゃんだよ」
「知ってる」
颯真は言う。
けれど、身体が後退している。
澪は大学ノートを開く。
「黒瀬宗一郎さん」
名前を読む。
「直哉さんの父。湊君と颯真の祖父」
「それは記録です」
佳乃が言う。
「分かっています。でも」
「分かるのに、感じられない」
佳乃は胸元を押さえる。
担任は宗一郎を完全に知らない人として見ていた。
「外へ」
言いかける。
知らない老人を、子どものいる家から出そうとする。
湊が担任の前へ立つ。
「待って」
「黒瀬君、この人は」
「昨日、先生と話した」
「記録にはあります」
「約束した」
「誰と」
担任自身が書いた言葉。
続きを書かせてください。
約束の相手は湊だった。
宗一郎ではない。
だから止める理由にならない。
現在の宗一郎は動かなかった。
「出た方がいい」
静かに言う。
「関係が切れれば、私がここにいることが危険になる」
「それを一人で決めないで」
湊が言った。
「私は対象だ」
「対象でも、自分のことを一人で決めちゃ駄目」
「また同じことを」
「同じだから言ってる」
窓の左腕の宗一郎が、右手を胸元へ入れる。
時計を探す動作。
現在の宗一郎が薄くなる。
畳の模様が病院着の向こうへ透ける。
工具箱へ刻んだ名前は残っている。
六つの点のうち、五つが写真のように薄い。
「読むだけじゃ駄目だ」
湊は大学ノートを掴む。
事実ではなく、記憶。
「兄ちゃん」
颯真へ向ける。
「自転車」
「何」
「祖父ちゃんが押した」
颯真は紙を見る。
自分の筆跡。
私は、宗一郎に自転車の後ろを押してもらったことを覚えている。
「手を放したって言われたあとも、荷台をつかんでた」
湊が読む。
颯真の目が揺れる。
舗装されていない道。
夕方の風。
転んだ膝の痛み。
後ろで息を切らしている老人。
「祖父ちゃん」
颯真が言った。
今度は、言葉が身体へつながっていた。
現在の宗一郎の輪郭が少し戻る。
「父さん」
湊は直哉を見る。
「雨の日」
直哉は自分の文章を読む。
学校の門。
濡れた制服。
何も聞かず、傘を差し出した父親。
「親父」
直哉の声が掠れる。
「俺の父親だ」
宗一郎の胸元が見えるようになる。
窓の左腕が薄くなる。
「母さん」
佳乃はもう玄関を見ていた。
新しい蝶番。
「挨拶より先に直した」
自分で言う。
「私の顔を見ないで」
宗一郎を見る。
「お義父さん」
三つ目の点が戻る。
澪は自分の文章へ指を置く。
「推測だ、と言い直しました」
宗一郎が澪を見る。
「今も?」
「何が」
「私が宗一郎だということ」
澪は少し考える。
「私は、あなたを宗一郎さんとして覚えています」
事実とは言わない。
「それが正しい履歴かは、まだ決めません」
「十分だ」
澪の点が戻る。
担任だけが残る。
宗一郎との個人的な記憶がない。
大学ノートを読んでも、関係が戻らない。
「先生」
湊は言った。
「祖父ちゃんとのことじゃなくていい」
「でも」
「先生が覚えてる僕との約束を守って」
担任は湊を見る。
続きを書かせてください。
「私は」
声が震える。
「黒瀬君に、記録を続けると約束しました」
「うん」
「あなたが、この人を祖父だと覚えていることを記録します」
担任はノートへ書く。
私は、黒瀬湊が黒瀬宗一郎を祖父と呼んだことを確認した。
直接の関係がなくても、関係を持つ人を通して残す。
担任が書き終えたとき、宗一郎自身が打った最後の点が戻る。
現在の宗一郎の輪郭が、畳を隠す。
窓の左腕の老人は消えなかった。
こちらを見ている。
怒ってはいない。
悲しんでもいない。
左手を窓へ当てる。
現在の宗一郎も、右手を同じ場所へ重ねた。
ガラス一枚。
履歴の厚みより遠い。
二人の手は触れない。
左腕の老人の唇が動く。
湊には読めた。
私も、覚えている。
現在の宗一郎の右手が震えた。
「何を」
声に出す。
左腕の老人は答えない。
反射の中から消える。
壁時計が動き出す。
午後一時十四分。
蝉の声が一気に戻る。
担任がその場へ座り込んだ。
「今の人も、宗一郎さんなんですか」
宗一郎は窓を見たまま答える。
「少なくとも、そう名乗る理由を持った私だと思う」
「消した方がいいの?」
颯真が訊く。
「決めるな」
宗一郎が言う。
「何を覚えているか確認する前に、邪魔な履歴と決めるな」
湊は大学ノートへ書く。
午後一時十三分。
五人が宗一郎との関係を失いかけた。
個人的な記憶、直接の物理痕跡、別の人間の証言によって関係が一時的に戻った。
左腕のある宗一郎は、「私も覚えている」と口を動かした。
一時的。
戻ったとは書く。
治ったとは書かない。
◇
夕方、六人は記録方法を変えた。
一枚の紙へ全員の記憶をまとめない。
一人ずつ別の紙へ書く。
原本を別々の場所へ置く。
写真を撮る。
コピーも取る。
同じ文章が、媒体ごとにどう変わるか確認する。
工具箱の六つの点には、誰が打った点かを記録する。
左から、湊。
颯真。
直哉。
佳乃。
澪。
宗一郎。
宗一郎自身の点は、実物にはある。
写真では消える。
その差も残す。
「私の点だけ、別の印にするか」
宗一郎が言う。
「変えたら、最初から違ったことになる」
湊は答えた。
「同じ点のまま、見え方が違うって残す」
佳乃が台所から古い木箱を持ってくる。
写真や手紙を入れていた箱。
その中へ、一人分ずつ記録を分ける。
澪は教室側の自分から届いた手紙を別の封筒へ入れた。
表に書く。
御厨黎一を叔父と呼んでいた二人の記録。
「二人とも、同じことを覚えているの」
颯真が訊く。
「同じ文章を書きました」
「同じ記憶?」
澪は答えない。
「それは、会って確認します」
同じ文章でも、思い浮かべる場面が同じとは限らない。
二人の澪がどこから分かれたかは、まだ分からない。
直哉は工具箱の鍵を入れた封筒を確認する。
継ぎ目に書いた全員の名前。
宗一郎の名前は残っている。
コピーすると消える。
「開ける時は」
直哉が言う。
「全員が全員を覚えてるか、先に確認する」
「一人でも忘れていたら?」
佳乃が訊く。
「開けない」
「一人が消えかけていたら?」
直哉の答えが止まる。
その一人を戻すために、時計を開きたくなる。
八月十五日に宗一郎が時計を開く理由。
沙夜子だけではないかもしれない。
家族の誰かが消えれば、宗一郎は同じ選択をする。
「だから、今決める」
湊が言った。
「誰かを戻すためでも、一人では開けない」
宗一郎が湊を見る。
「私が全員を忘れていたら」
「それでも」
「お前たちが私を忘れていたら」
「それでも」
「沙夜子が完全に消えるとしても」
湊の喉が詰まる。
簡単には答えられない。
「本人に聞けないままなら、開けない」
佳乃が答えた。
「救われる人が何を望んでいるか分からないのに、救う側だけで決めない」
宗一郎は反論しなかった。
「今は?」
湊が訊く。
「今は、開けない」
「八月十五日は」
宗一郎は工具箱を見る。
「その日にも、同じ質問をしろ」
約束ではない。
止め方を教えた。
それだけだった。
◇
午後九時十二分。
六人は居間へ集まった。
担任は学校へ戻り、電話でつながっている。
教室側の澪も、職員室の電話のそばにいる。
一人ずつ名前を言う。
湊。
颯真。
直哉。
佳乃。
澪。
宗一郎。
関係も言う。
兄。
父。
母。
協力者。
祖父。
宗一郎は、最後に全員を指す。
「家族と協力者」
午後九時十三分。
壁時計は止まらない。
秒針が一を越える。
誰も忘れない。
窓にも人影はない。
電話の向こうで、障子の鳴る音がした。
教室側の澪が息を呑む。
『沙夜子さんが、こちらを見ています』
「名前を聞いて」
居間の澪が言う。
『誰のですか』
「宗一郎さん」
沈黙。
障子紙へ、指が触れる音。
一文字ずつ、赤い染みが浮かぶ。
教室側の澪が読む。
『あの人を』
次の文字。
『来させないで』
宗一郎の名前は書かれない。
それでも、誰を指すかは全員に分かった。
「私を覚えているのか」
宗一郎が訊く。
電話の向こうで、教室側の澪が問いかける。
長い沈黙。
『名前は、書けないようです』
「関係は」
佳乃が訊く。
障子が一度だけ震える。
肯定か否定か分からない。
『もう一つ、書きます』
赤い文字が続く。
『忘れても』
『開けないで』
宗一郎の右手が、工具箱へ伸びる。
湊が空の左袖を掴む。
「今は」
宗一郎が言った。
「分かっている」
右手を戻す。
午後九時十四分。
電話は切れない。
障子の向こうで、沙夜子の影だけが薄く揺れている。
誰もその姿を救うべき結果とは呼ばなかった。
誰も消えていいとも言わなかった。
記録する。
沙夜子は宗一郎の名前を書けなかった。
「あの人」と呼んだ。
忘れても開けないで、と伝えた。
本人の希望として確認できたのは、その言葉だけ。
佳乃が読み上げる。
全員が訂正する。
宗一郎も、自分で署名する。
原本には残った。
コピーには、やはり空白。
工具箱の名前は残っている。
宗一郎自身の点だけが、写真には写らない。
午後九時二十一分。
時間は進んでいる。
その時、玄関を三回叩く音がした。
一回。
二回。
三回。
全員が動きを止める。
直哉が工具箱の前へ立つ。
佳乃が湊と颯真を背へ下げる。
澪は折れた境界針を握る。
針先は、どちらの方角も示さない。
玄関の向こうから、声がした。
「湊」
颯真の声だった。
湊の隣には、颯真がいる。
左腕を吊り、青い顔で扉を見ている。
外の声が、もう一度呼ぶ。
「開けて」
現在の颯真が立ち上がる。
「誰だ」
扉の向こうで、小さく笑う声。
「兄ちゃんだよ」
同じ声。
同じ言い方。
けれど、次の言葉だけが違った。
「煮た人参なら、もう食べられる」
湊の背中が冷たくなる。
現在の颯真は、煮た人参が嫌いだ。
原本写真にえくぼのある颯真が、同じだったかは分からない。
玄関の曇りガラスへ、人影が近づく。
右頬の位置に、小さなくぼみの影ができた。
颯真の右頬にはないもの。
扉の外にいる兄には、あった。
古い引き戸が、向こう側から数ミリずつ滑り始めた。
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