第六話 観測者の欠片
窓の中の宗一郎は、右手を胸元へ差し入れた。
そこにあるはずの懐中時計を探すような動きだった。
左腕がある。
白い廊下で背中を刺されていた宗一郎と同じ、失われていない左腕。
けれど、今、湊の後ろに立っているのは窓ガラスの中だけだった。
「先生」
湊は振り返らずに言った。
「写真を撮ってください」
担任は返事をしなかった。
スマートフォンを取り出す指が震えている。
一枚。
電子音が教室へ小さく響く。
窓の中の宗一郎が、こちらを見た。
次に、右手の親指で何かの蓋を押し上げた。
懐中時計を開く動作。
湊の掌で、金属片が熱を持つ。
0815 21:13。
『次は、宗一郎を止めろ。』
「もう一枚」
担任が角度を変える。
二枚目の撮影音が鳴った瞬間、窓の中の老人は消えた。
教室には、湊と担任しかいない。
振り返っても、当然、誰も立っていなかった。
担任は撮った写真を開く。
一枚目。
湊。
担任。
朝の教室。
二人の後ろには、誰もいない。
二枚目も同じだった。
「写っていません」
「先生にも見えたよね」
「見えました」
担任はすぐに大学ノートを開いた。
八月一日、午前八時二十九分。
教室の窓へ、左腕のある黒瀬宗一郎が映る。
写真には写らない。
書き終えてから、窓へ近づく。
ガラスの内側に、白く曇った跡が残っていた。
五本の指。
左手の形だった。
担任が息を呑む。
「触れていたんでしょうか」
「向こうから」
「向こうって、どこですか」
湊は答えられなかった。
代わりに、ガラスへ自分の左手を重ねる。
大人の手形は、湊の指より一節分以上長い。
冷たさはない。
ただ、拭かれていない黒板の文字のように、そこに残っていた。
「消さないで」
担任は頷いた。
透明な定規を手形の横へ当て、写真を撮る。
今度の写真には、白い五本の跡だけが写った。
人は消える。
触れた痕だけは残る。
担任は写真の違いもノートへ書き加えた。
「家へ連絡します」
「澪の教室を先に見たい」
「一人では行かせません」
「先生も来て」
担任は受話器へ伸ばしかけた手を止めた。
怖がっている。
それでも、逃げなかった。
「連絡してからです」
◇
佳乃が学校へ到着したのは、午前九時前だった。
助手席から宗一郎が降りる。
左袖は空のまま、風に揺れた。
後部座席から澪が続く。
昨日まで留めていた銀色の髪留めはない。
髪は佳乃が貸した黒いゴムで低く結ばれている。
「お父さんまで来たの」
湊が言う。
「来るなと言われた」
「誰に」
「全員にだ」
佳乃が車の扉を閉めた。
「止めても、勝手に歩いてきそうだったから乗せたの」
「直哉と颯真は?」
「家。時計から離れないようにしてる」
宗一郎の視線が、湊の握る金属片へ落ちる。
「新しい変化は」
「窓に、左腕のあるおじいちゃんがいた」
宗一郎の顔は動かなかった。
けれど、空の左袖が一度だけ強く握られたように縮んだ。
担任が教室へ案内する。
白い手形はまだ窓に残っていた。
宗一郎は定規を外さず、近くから観察する。
右手を重ねようとはしなかった。
「あなたの手ですか」
佳乃が訊く。
「大きさは近い」
「それだけ?」
「指の付け根に、古い切り傷がある」
白い手形の薬指の下。
細い空白が一本入っている。
「私にも同じ傷があった」
宗一郎は右手を開いた。
右の薬指には傷がない。
「左手に?」
湊が訊く。
「ああ」
失われた腕にあった傷。
今の宗一郎には確認できない。
宗一郎は担任のノートへ目を移す。
「写真には人影がなく、手形だけが残った」
「はい」
「なら、見たものと残ったものを分けて記録してください」
担任が鉛筆を止める。
「人影を見たことは事実ではないんですか」
「見たことは事実です。人影が実在したかは別です」
言い切ったあと、宗一郎は付け加えた。
「私の推測ですが」
佳乃が僅かに頷く。
湊は、祖父が自分から推測と言ったことを覚えておこうと思った。
澪は窓へ近づかなかった。
教室の外、西側の廊下を見ている。
「澪の教室、あっち?」
湊が訊く。
「はい」
「行ける?」
澪は一歩進んだ。
廊下の床は普通に続いている。
御厨家へ向かおうとした時のように、元の場所へ戻されることはない。
「学校までは来られます」
「教室は?」
「分かりません」
午前九時七分。
四人と担任は、澪の教室がある棟へ向かった。
◇
澪の担任は、廊下に立つ本人を見て、最初に笑った。
「御厨さん、どうしたの。さっきまで教室に――」
言葉が止まる。
教室の中へ視線を戻す。
前から三列目、窓側の席。
白い制服の少女が座っていた。
同じ顔。
同じ長さの髪。
銀色の髪留めで、右側だけを留めている。
教科書を開き、黒板を見ていた。
廊下の澪は、無意識に自分の髪へ触れた。
そこに銀色の留め具はない。
「御厨さんが……二人?」
担任の声が掠れる。
教室の生徒たちは、廊下の騒ぎへ気づいている。
廊下側の澪へ目を向けた生徒もいた。
けれど誰も、席にいる澪と見比べようとはしなかった。
隣の生徒が、何事もないように消しゴムを借りている。
席の澪が渡す。
指が触れる。
消しゴムは確かに移動した。
「触れています」
湊が言った。
「少なくとも、あの子には」
宗一郎が答える。
澪の担任が教室の扉へ手をかける。
佳乃が止めた。
「全員の前で近づけない方がいいと思います」
「でも、どちらが――」
「本物か、とは訊かないでください」
廊下の澪が静かに言った。
担任は口を閉じた。
「どちらも自分を御厨澪だと思っている可能性があります」
「可能性?」
「まだ確認していません」
午前九時十二分。
廊下の時計が秒を刻む。
五十七。
五十八。
五十九。
午前九時十三分。
校舎の音が一度だけ遠くなった。
教室の生徒たちの輪郭が、薄い紙を重ねたように二重になる。
席の澪が顔を上げた。
廊下の澪と目が合う。
二人は同時に立った。
席の澪が扉へ歩いてくる。
教室の担任が、進路を空ける。
廊下の澪も一歩進んだ。
敷居を越えたはずだった。
次の瞬間、彼女は湊の隣に戻っていた。
「澪」
湊が腕を掴む。
「今、入ったよね」
「入りました」
澪はもう一度扉へ向かう。
一歩。
敷居。
次の瞬間、同じ場所。
教室へ続く距離だけが抜けている。
御厨家へ帰れない時と同じだった。
席にいた澪が、扉の内側へ立つ。
二人の間には、薄いガラスが一枚あるだけ。
銀の髪留めをした澪が口を開いた。
「あなたは、誰ですか」
声は扉越しでも聞こえた。
廊下の澪は瞬きをしなかった。
「御厨澪です」
教室側の少女の眉が動く。
「私もです」
同じ声。
抑揚まで近い。
湊は、自分と同じ顔をした誰かに名前を名乗られたら、立っていられるだろうかと思った。
「昨夜、どこにいましたか」
廊下の澪が訊く。
「家にいました」
「山ノ宮神社へは?」
「行っていません」
「叔父さまは」
教室側の澪は、すぐには答えなかった。
「帰っていません」
「鳥居が倒れたことは」
「朝、聞きました」
「沙夜子さんとは話しましたか」
銀の髪留めへ触れる指が止まる。
「今朝は、声がよく聞こえませんでした」
廊下の澪の呼吸が浅くなる。
「姿は」
「障子の向こうにいます。でも、昨日より薄い」
「私のことを何か言っていましたか」
教室側の澪は首を振った。
「家には、私しかいません」
拒絶する言い方ではなかった。
自分が知る事実を述べただけだった。
廊下の澪が、折れた境界針をハンカチごと取り出す。
教室側の澪は、自分の銀色の髪留めを押さえた。
「それを使ったのですか」
「二度」
「私は使っていません」
「だから、あなたは帰れた」
「あなたは?」
「帰れません」
二人の間に沈黙が落ちる。
教室の時計は午前九時十三分を示したまま動かない。
教室側の澪がガラスへ手を当てた。
廊下の澪も、少し迷ってから同じ場所へ手を重ねる。
触れない。
ガラスの厚みより遠い。
「どちらが残るのでしょう」
教室側の澪が訊いた。
廊下の澪は、黎一の記録を思い出したように目を伏せた。
それから顔を上げる。
「まだ決めません」
秒針が動いた。
午前九時十四分。
校舎の音が戻る。
教室側の澪は、自分の席に座っていた。
彼女の担任が扉を開く。
今度は普通に開いた。
廊下の澪が敷居へ足を乗せる。
また湊の隣へ戻る。
「入れません」
教室の中では、隣の生徒が澪へ話しかけている。
席の少女は自然に笑った。
廊下の澪は、その笑顔を見ていた。
「私がいた場所へ、あの人が入ったのではありません」
「じゃあ何」
湊が訊く。
「私が失った関係に、あの履歴が繋がっています」
宗一郎が口を開く。
「観測者が関係を一つ失うと、別の履歴がその空席へ重なることがある」
佳乃が宗一郎を見る。
「知っていたの」
「似た現象を見たことがある」
「いつ」
宗一郎は答える前に、教室の澪を見た。
「四十年前だ」
「事実?」
「私が見た範囲では」
「今の説明は」
「推測を含む」
宗一郎は空の左袖へ目を落とした。
「私は、こうしたものを観測者の欠片と呼んでいた」
湊は窓に残った左手の跡を思い出す。
「左腕のおじいちゃんも?」
「おそらく」
「どの履歴の?」
宗一郎の右手が僅かに強張る。
「少なくとも、左腕を失わなかった履歴の私だ。颯真を戻さなかった履歴だと思う」
湊の胸が冷えた。
その宗一郎がいる履歴では、颯真は戻っていない。
左腕は失われていない。
「兄ちゃんを助けなかったおじいちゃん」
「助けられなかった私だ」
宗一郎は訂正した。
「同じじゃないの」
「同じではない」
声が少しだけ低くなる。
けれど、宗一郎は続きを飲み込まなかった。
「その欠片が知っているのは、自分が残った履歴だけだ。未来のすべてを知っているわけではない」
「じゃあ、金属片を書いたかも分からない」
「分からない」
湊は教室側の澪を見る。
彼女は普通に授業を受けている。
偽物には見えなかった。
本物と呼べば、隣にいる澪を消すことになる。
名前を一つに決めるだけで、誰かを向こう側へ押し出す気がした。
「今日は帰りましょう」
佳乃が言った。
「二人をここで会わせ続けて、何が起こるか分からない」
澪は教室の扉から目を離さない。
「沙夜子さんの声が薄い」
「確認したい?」
「はい」
「一人では行かせない」
佳乃は言い切った。
澪は小さく頷いた。
◇
黒瀬家へ戻ると、直哉は居間の入口に立っていた。
工具箱は押し入れの奥。
鍵を入れた封筒は、食器棚の最上段。
どちらも朝と同じ位置にある。
「学校に、澪がいた」
佳乃が言う。
「ここにもいる」
直哉が答える。
冗談には聞こえなかった。
颯真は座布団へ背を預け、左肩を動かさないようにしている。
「見たのか」
「見た」
湊が答える。
「同じ顔?」
「同じ」
「話した?」
「話した」
颯真は隣の澪を見る。
「向こうも自分が澪だって?」
「はい」
「怖くないの」
澪は少し考えた。
「怖いです」
即答しなかったことが、かえって本当らしかった。
「でも、あの人を偽物だと決める方が怖いです」
宗一郎が座る。
直哉は父の顔を見た。
「左腕のある親父も出たんだってな」
「ああ」
「どの親父だ」
「颯真を戻さなかった履歴だと思う」
「思う?」
「断定できない」
直哉はしばらく黙っていた。
「少しは言い方を覚えたな」
宗一郎は反論しなかった。
湊は学校から持ち帰った大学ノートの写しを机へ置く。
担任は原本を学校の金庫へ入れた。
写真は三か所へ保存した。
窓の老人は写っていない。
左手の跡だけが残っている。
「次は、兄ちゃんの写真を確認したい」
湊が言う。
颯真が眉を寄せる。
「俺の?」
「えくぼ」
部屋の空気が少し変わる。
颯真は右頬を指で押した。
「そんなに大事か」
「大事かどうかじゃない。違ったことを残したい」
佳乃が押し入れから古いアルバムを持ってくる。
すぐには開かなかった。
「見る前に、覚えていることを書きましょう」
直哉が紙とペンを配る。
一人ずつ、互いに見えないように書く。
湊。
右頬にえくぼがあった。
佳乃。
笑うと右頬が少しへこんだと思う。
直哉。
覚えていない。
宗一郎。
右頬。
澪。
会う前のことは知らない。
颯真。
自分では分からない。
紙を伏せたまま、佳乃がアルバムを開く。
颯真が十歳の春に撮った写真。
学校の門の前。
大きすぎる制服。
照れたように笑っている。
右頬に、小さなえくぼがあった。
湊の息が止まる。
颯真は写真へ顔を近づける。
「本当にある」
佳乃がスマートフォンで写真を撮る。
画面を開く。
そこに写った颯真の右頬は滑らかだった。
えくぼがない。
元の写真を見る。
ある。
画面を見る。
ない。
直哉が自分の端末でも撮る。
同じだった。
「原本にはある」
佳乃が言う。
「撮り直した画像にはない」
澪は紙へ記録する。
「直接残った像は、古い履歴を保持している可能性があります」
「写真は直接じゃないの?」
颯真が訊く。
「紙の写真は、その時の光が直接焼きついています。スマートフォンの画像は、今の写真を読み直して作ったものです」
宗一郎が口を開く。
「再生成された情報ほど、現在の履歴へ寄るのかもしれない」
佳乃が宗一郎を見る。
「仮説ね」
「ああ」
澪は文章の頭へ、仮説、と書き足した。
颯真はアルバムの自分と、窓に映る現在の自分を交互に見る。
「写真の俺と、今の俺、どっちが俺なんだ」
誰もすぐには答えなかった。
湊は、葬式の記憶と、今ここにいる兄を思う。
「どっちも兄ちゃん」
「雑だな」
「でも、違うところは残す」
「えくぼくらいで」
「人参も」
颯真が顔をしかめる。
「まだ言うのか」
少しだけ笑う。
右頬はへこまない。
湊はその違いを見た。
見て、覚えた。
けれど、それだけで今の兄を否定しないと決めた。
宗一郎が写真へ手を伸ばしかけ、止める。
「欠片は、失われた特徴だけを運ぶものではない」
「何を運ぶの」
「その履歴で選んだ理由だ」
湊は左腕のある宗一郎を思い出す。
颯真を戻さなかった理由。
沙夜子を救えなかった理由。
今の宗一郎とは違う後悔。
「八月十五日、あのおじいちゃんは何をするの」
宗一郎は金属片を見た。
「私に、時計を開かせようとする」
「何のために」
「沙夜子をこちらへ戻すためだろう」
澪の指が止まる。
「沙夜子さんを?」
「八月十五日は、沙夜子が現実から切り離された日だ」
直哉が机へ両手をつく。
「初めて聞いた」
「今、話した」
「四十年遅い」
宗一郎は目を逸らさなかった。
「毎年、その日の午後九時十三分に境界が最も薄くなる」
「だから金属片の日付が八月十五日」
湊が言う。
「おそらく」
「今のおじいちゃんも、沙夜子さんを戻したい?」
宗一郎は答えなかった。
佳乃が訊き直す。
「時計を開くつもりはあるの」
「ない」
「戻したいかは?」
宗一郎の右手が膝の上で閉じる。
「戻せるなら、と思わなかった日はない」
直哉が押し入れを見る。
工具箱は見えない。
「それでも開けないと言えるのか」
「今は」
「八月十五日は?」
宗一郎は黙った。
湊の胸に、金属片の言葉が沈む。
宗一郎を止めろ。
止める対象は、悪い祖父ではない。
戻したいと思っている祖父だ。
◇
その夜、黒瀬家の居間には六人が集まった。
午後九時十三分。
これまで二時間ごとの十三分に続いていた異常は、昼を過ぎてから一度も確認されていない。
それでも、八月十五日の数字と同じ時刻を、誰も一人で迎えたくなかった。
工具箱は押し入れの奥。
鍵の封筒は食器棚の上。
封筒の継ぎ目には、六人の名前が書かれている。
黒瀬湊。
黒瀬颯真。
黒瀬直哉。
黒瀬佳乃。
黒瀬宗一郎。
御厨澪。
担任とは電話を繋いでいる。
大学ノートを開き、学校側の時計を確認してもらう。
「午後九時十二分五十秒」
受話器から担任の声がする。
居間の壁時計も同じ時刻。
五十五。
五十六。
五十七。
宗一郎は工具箱を見ない。
湊は祖父の横顔を見ていた。
五十八。
五十九。
午後九時十三分。
押し入れの中で、歯車が一度だけ鳴った。
カチ。
誰も動かない。
二度目。
カチ。
封筒の中の鍵が、紙を内側から叩く。
颯真が湊の手首を掴んだ。
今度は離さないための力だった。
部屋の電灯が暗くなる。
電話の向こうで、担任が息を呑む。
「学校の時計も止まりました」
黒瀬家の電話が鳴った。
担任と繋いでいる受話器とは別の、固定電話。
呼び出し音が三回鳴る。
澪が受話器を見た。
番号表示には、御厨家の電話番号が出ている。
「私が出ます」
佳乃が止めるより早く、澪が受話器を取った。
「はい」
『御厨です』
澪と同じ声だった。
居間にいる全員が聞いた。
澪が受話器を強く握る。
「今朝、学校にいた方ですか」
『はい』
「沙夜子さんは」
電話の向こうで、障子の震える音がした。
『薄くなっています』
宗一郎の顔が変わる。
『声が途切れます。顔も、時々分からなくなります』
「私を呼んでいますか」
『いいえ』
短い沈黙。
『黒瀬宗一郎さんを』
宗一郎の右手が動いた。
押し入れへ向けてではない。
空の左袖を掴む。
「私は行かない」
宗一郎が言った。
電話の向こうの澪は、少し間を置いた。
『八月十五日、午後九時十三分までに来てください』
「断る」
『沙夜子さんが消えてもですか』
宗一郎は答えなかった。
窓ガラスに、左腕のある老人が映る。
居間の宗一郎の背後。
今度は全員が見た。
左腕のある宗一郎は、胸元から懐中時計を取り出す動作をする。
実物ではない。
それでも、蓋の開く小さな音が部屋へ響いた。
カチ。
押し入れの工具箱が同じ音を返す。
電話の向こうで、もう一人の澪が言う。
『沙夜子さんが消えれば、私たちのどちらが残るかも分かりません』
居間の澪が目を閉じる。
「あなたは、残りたいですか」
『分かりません』
「私もです」
『でも、消えたいとは思いません』
「私もです」
同じ声が、同じ言葉を交わす。
宗一郎は窓の中の自分を見る。
「お前が呼ばせたのか」
左腕のある老人は答えない。
口だけが動く。
湊には読めた。
お前は開く。
宗一郎の右手が、畳へつく。
立ち上がろうとしたのかもしれない。
湊が空の左袖を掴む。
宗一郎は動きを止めた。
「今、行こうとした?」
「違う」
「推測?」
宗一郎の口が閉じる。
佳乃が受話器へ近づく。
「沙夜子さん本人と話せますか」
『今は、声が届きません』
「なら、本人が何を望んでいるか分からないまま、宗一郎を呼んでいるのね」
電話の向こうの澪は黙った。
「記録や言い伝えではなく、あなた自身は何を確認しましたか」
『姿が薄くなっていることだけです』
「それ以外は推測?」
『はい』
居間の澪が僅かに息を吐く。
佳乃は宗一郎を見る。
「今夜は行かない」
宗一郎ではなく、家族全体へ言った。
「八月十五日までに、確かめる方法を探す」
直哉が押し入れの前へ座る。
「親父が立ったら止める」
「立たない」
「今は、だろ」
宗一郎は否定しなかった。
電話の向こうで、障子が大きく鳴る。
『また連絡します』
「一人で決めないでください」
居間の澪が言う。
『あなたも』
通話が切れた。
表示された通話時間は一分十三秒。
午後九時十四分。
壁時計が動き出す。
学校の担任が電話の向こうで言った。
「こちらも動きました」
窓の中の左腕のある宗一郎は消えていた。
押し入れの工具箱も静かになる。
誰もすぐには話さなかった。
◇
佳乃は、通話の内容を一行ずつ読み上げた。
全員が自分の記憶と違う箇所を訂正する。
担任も電話越しに記録した。
宗一郎だけが、途中から黙っていた。
「名前を書いて」
湊が言う。
「何に」
「今日の記録」
大学ノートの写しを机へ置く。
一人ずつ署名する。
湊。
颯真。
直哉。
佳乃。
澪。
宗一郎。
担任は学校側の原本へ署名した。
湊は家庭用の複合機へ紙を入れる。
「コピーするの?」
颯真が訊く。
「今の履歴へ寄るなら、何が消えるか分かる」
機械が低い音を立てる。
一枚の紙が出てくる。
六人の記録。
通話の内容。
午後九時十三分。
署名欄。
黒瀬湊。
黒瀬颯真。
黒瀬直哉。
黒瀬佳乃。
御厨澪。
一人分だけ、空白だった。
原本を見る。
黒瀬宗一郎。
確かに書かれている。
コピーにはない。
宗一郎は、自分の署名へ右手を置いた。
「始まっている」
直哉が顔を上げる。
「何が」
「私と、この履歴の関係が薄くなっている」
「時計を開いてないのに?」
「開いた私が、近づいているからかもしれない」
宗一郎は窓を見る。
そこには夜の居間しか映っていない。
「推測だ」
佳乃が言うより先に、自分で付け加えた。
湊はコピーの空白を指でなぞる。
インクはない。
筆圧もない。
再生成された紙には、宗一郎が最初から書かなかったことになっている。
「傷なら残る」
湊は工具箱を押し入れから出してもらった。
開けない。
蓋の上へ置くだけ。
直哉が釘と小さな金槌を持ってくる。
「何をする」
宗一郎が訊く。
「名前を残す」
湊は釘の先を金属の蓋へ当てた。
一文字ずつ、浅く傷をつける。
宗。
一。
郎。
形は不格好だった。
それでも、インクではない。
コピーでもない。
工具箱そのものに残った傷。
宗一郎は止めなかった。
「僕が忘れても、これを見ればいい」
「傷も変わるかもしれん」
「変わったら、変わったことをまた残す」
颯真が金槌を受け取る。
宗一郎の名前の横へ、小さな点を一つ打った。
直哉も。
佳乃も。
澪も。
最後に宗一郎自身が、右手で点を打つ。
六つの傷が、名前を囲んだ。
午後九時二十一分。
時間は進んでいる。
湊は金属片を工具箱の上へ置いた。
0815 21:13。
あと十四日。
今度は、起きる前から全員で覚えている。
窓ガラスの隅に、白い指の跡が一つ浮かんだ。
左手の人差し指。
その先が、工具箱に刻まれた宗一郎の名前を指していた。
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