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時は復讐を忘れない  作者: 23
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第六話 観測者の欠片

窓の中の宗一郎は、右手を胸元へ差し入れた。


そこにあるはずの懐中時計を探すような動きだった。


左腕がある。


白い廊下で背中を刺されていた宗一郎と同じ、失われていない左腕。


けれど、今、湊の後ろに立っているのは窓ガラスの中だけだった。


「先生」


湊は振り返らずに言った。


「写真を撮ってください」


担任は返事をしなかった。


スマートフォンを取り出す指が震えている。


一枚。


電子音が教室へ小さく響く。


窓の中の宗一郎が、こちらを見た。


次に、右手の親指で何かの蓋を押し上げた。


懐中時計を開く動作。


湊の掌で、金属片が熱を持つ。


0815 21:13。


『次は、宗一郎を止めろ。』


「もう一枚」


担任が角度を変える。


二枚目の撮影音が鳴った瞬間、窓の中の老人は消えた。


教室には、湊と担任しかいない。


振り返っても、当然、誰も立っていなかった。


担任は撮った写真を開く。


一枚目。


湊。


担任。


朝の教室。


二人の後ろには、誰もいない。


二枚目も同じだった。


「写っていません」


「先生にも見えたよね」


「見えました」


担任はすぐに大学ノートを開いた。


八月一日、午前八時二十九分。


教室の窓へ、左腕のある黒瀬宗一郎が映る。


写真には写らない。


書き終えてから、窓へ近づく。


ガラスの内側に、白く曇った跡が残っていた。


五本の指。


左手の形だった。


担任が息を呑む。


「触れていたんでしょうか」


「向こうから」


「向こうって、どこですか」


湊は答えられなかった。


代わりに、ガラスへ自分の左手を重ねる。


大人の手形は、湊の指より一節分以上長い。


冷たさはない。


ただ、拭かれていない黒板の文字のように、そこに残っていた。


「消さないで」


担任は頷いた。


透明な定規を手形の横へ当て、写真を撮る。


今度の写真には、白い五本の跡だけが写った。


人は消える。


触れた痕だけは残る。


担任は写真の違いもノートへ書き加えた。


「家へ連絡します」


「澪の教室を先に見たい」


「一人では行かせません」


「先生も来て」


担任は受話器へ伸ばしかけた手を止めた。


怖がっている。


それでも、逃げなかった。


「連絡してからです」



佳乃が学校へ到着したのは、午前九時前だった。


助手席から宗一郎が降りる。


左袖は空のまま、風に揺れた。


後部座席から澪が続く。


昨日まで留めていた銀色の髪留めはない。


髪は佳乃が貸した黒いゴムで低く結ばれている。


「お父さんまで来たの」


湊が言う。


「来るなと言われた」


「誰に」


「全員にだ」


佳乃が車の扉を閉めた。


「止めても、勝手に歩いてきそうだったから乗せたの」


「直哉と颯真は?」


「家。時計から離れないようにしてる」


宗一郎の視線が、湊の握る金属片へ落ちる。


「新しい変化は」


「窓に、左腕のあるおじいちゃんがいた」


宗一郎の顔は動かなかった。


けれど、空の左袖が一度だけ強く握られたように縮んだ。


担任が教室へ案内する。


白い手形はまだ窓に残っていた。


宗一郎は定規を外さず、近くから観察する。


右手を重ねようとはしなかった。


「あなたの手ですか」


佳乃が訊く。


「大きさは近い」


「それだけ?」


「指の付け根に、古い切り傷がある」


白い手形の薬指の下。


細い空白が一本入っている。


「私にも同じ傷があった」


宗一郎は右手を開いた。


右の薬指には傷がない。


「左手に?」


湊が訊く。


「ああ」


失われた腕にあった傷。


今の宗一郎には確認できない。


宗一郎は担任のノートへ目を移す。


「写真には人影がなく、手形だけが残った」


「はい」


「なら、見たものと残ったものを分けて記録してください」


担任が鉛筆を止める。


「人影を見たことは事実ではないんですか」


「見たことは事実です。人影が実在したかは別です」


言い切ったあと、宗一郎は付け加えた。


「私の推測ですが」


佳乃が僅かに頷く。


湊は、祖父が自分から推測と言ったことを覚えておこうと思った。


澪は窓へ近づかなかった。


教室の外、西側の廊下を見ている。


「澪の教室、あっち?」


湊が訊く。


「はい」


「行ける?」


澪は一歩進んだ。


廊下の床は普通に続いている。


御厨家へ向かおうとした時のように、元の場所へ戻されることはない。


「学校までは来られます」


「教室は?」


「分かりません」


午前九時七分。


四人と担任は、澪の教室がある棟へ向かった。



澪の担任は、廊下に立つ本人を見て、最初に笑った。


「御厨さん、どうしたの。さっきまで教室に――」


言葉が止まる。


教室の中へ視線を戻す。


前から三列目、窓側の席。


白い制服の少女が座っていた。


同じ顔。


同じ長さの髪。


銀色の髪留めで、右側だけを留めている。


教科書を開き、黒板を見ていた。


廊下の澪は、無意識に自分の髪へ触れた。


そこに銀色の留め具はない。


「御厨さんが……二人?」


担任の声が掠れる。


教室の生徒たちは、廊下の騒ぎへ気づいている。


廊下側の澪へ目を向けた生徒もいた。


けれど誰も、席にいる澪と見比べようとはしなかった。


隣の生徒が、何事もないように消しゴムを借りている。


席の澪が渡す。


指が触れる。


消しゴムは確かに移動した。


「触れています」


湊が言った。


「少なくとも、あの子には」


宗一郎が答える。


澪の担任が教室の扉へ手をかける。


佳乃が止めた。


「全員の前で近づけない方がいいと思います」


「でも、どちらが――」


「本物か、とは訊かないでください」


廊下の澪が静かに言った。


担任は口を閉じた。


「どちらも自分を御厨澪だと思っている可能性があります」


「可能性?」


「まだ確認していません」


午前九時十二分。


廊下の時計が秒を刻む。


五十七。


五十八。


五十九。


午前九時十三分。


校舎の音が一度だけ遠くなった。


教室の生徒たちの輪郭が、薄い紙を重ねたように二重になる。


席の澪が顔を上げた。


廊下の澪と目が合う。


二人は同時に立った。


席の澪が扉へ歩いてくる。


教室の担任が、進路を空ける。


廊下の澪も一歩進んだ。


敷居を越えたはずだった。


次の瞬間、彼女は湊の隣に戻っていた。


「澪」


湊が腕を掴む。


「今、入ったよね」


「入りました」


澪はもう一度扉へ向かう。


一歩。


敷居。


次の瞬間、同じ場所。


教室へ続く距離だけが抜けている。


御厨家へ帰れない時と同じだった。


席にいた澪が、扉の内側へ立つ。


二人の間には、薄いガラスが一枚あるだけ。


銀の髪留めをした澪が口を開いた。


「あなたは、誰ですか」


声は扉越しでも聞こえた。


廊下の澪は瞬きをしなかった。


「御厨澪です」


教室側の少女の眉が動く。


「私もです」


同じ声。


抑揚まで近い。


湊は、自分と同じ顔をした誰かに名前を名乗られたら、立っていられるだろうかと思った。


「昨夜、どこにいましたか」


廊下の澪が訊く。


「家にいました」


「山ノ宮神社へは?」


「行っていません」


「叔父さまは」


教室側の澪は、すぐには答えなかった。


「帰っていません」


「鳥居が倒れたことは」


「朝、聞きました」


「沙夜子さんとは話しましたか」


銀の髪留めへ触れる指が止まる。


「今朝は、声がよく聞こえませんでした」


廊下の澪の呼吸が浅くなる。


「姿は」


「障子の向こうにいます。でも、昨日より薄い」


「私のことを何か言っていましたか」


教室側の澪は首を振った。


「家には、私しかいません」


拒絶する言い方ではなかった。


自分が知る事実を述べただけだった。


廊下の澪が、折れた境界針をハンカチごと取り出す。


教室側の澪は、自分の銀色の髪留めを押さえた。


「それを使ったのですか」


「二度」


「私は使っていません」


「だから、あなたは帰れた」


「あなたは?」


「帰れません」


二人の間に沈黙が落ちる。


教室の時計は午前九時十三分を示したまま動かない。


教室側の澪がガラスへ手を当てた。


廊下の澪も、少し迷ってから同じ場所へ手を重ねる。


触れない。


ガラスの厚みより遠い。


「どちらが残るのでしょう」


教室側の澪が訊いた。


廊下の澪は、黎一の記録を思い出したように目を伏せた。


それから顔を上げる。


「まだ決めません」


秒針が動いた。


午前九時十四分。


校舎の音が戻る。


教室側の澪は、自分の席に座っていた。


彼女の担任が扉を開く。


今度は普通に開いた。


廊下の澪が敷居へ足を乗せる。


また湊の隣へ戻る。


「入れません」


教室の中では、隣の生徒が澪へ話しかけている。


席の少女は自然に笑った。


廊下の澪は、その笑顔を見ていた。


「私がいた場所へ、あの人が入ったのではありません」


「じゃあ何」


湊が訊く。


「私が失った関係に、あの履歴が繋がっています」


宗一郎が口を開く。


「観測者が関係を一つ失うと、別の履歴がその空席へ重なることがある」


佳乃が宗一郎を見る。


「知っていたの」


「似た現象を見たことがある」


「いつ」


宗一郎は答える前に、教室の澪を見た。


「四十年前だ」


「事実?」


「私が見た範囲では」


「今の説明は」


「推測を含む」


宗一郎は空の左袖へ目を落とした。


「私は、こうしたものを観測者の欠片と呼んでいた」


湊は窓に残った左手の跡を思い出す。


「左腕のおじいちゃんも?」


「おそらく」


「どの履歴の?」


宗一郎の右手が僅かに強張る。


「少なくとも、左腕を失わなかった履歴の私だ。颯真を戻さなかった履歴だと思う」


湊の胸が冷えた。


その宗一郎がいる履歴では、颯真は戻っていない。


左腕は失われていない。


「兄ちゃんを助けなかったおじいちゃん」


「助けられなかった私だ」


宗一郎は訂正した。


「同じじゃないの」


「同じではない」


声が少しだけ低くなる。


けれど、宗一郎は続きを飲み込まなかった。


「その欠片が知っているのは、自分が残った履歴だけだ。未来のすべてを知っているわけではない」


「じゃあ、金属片を書いたかも分からない」


「分からない」


湊は教室側の澪を見る。


彼女は普通に授業を受けている。


偽物には見えなかった。


本物と呼べば、隣にいる澪を消すことになる。


名前を一つに決めるだけで、誰かを向こう側へ押し出す気がした。


「今日は帰りましょう」


佳乃が言った。


「二人をここで会わせ続けて、何が起こるか分からない」


澪は教室の扉から目を離さない。


「沙夜子さんの声が薄い」


「確認したい?」


「はい」


「一人では行かせない」


佳乃は言い切った。


澪は小さく頷いた。



黒瀬家へ戻ると、直哉は居間の入口に立っていた。


工具箱は押し入れの奥。


鍵を入れた封筒は、食器棚の最上段。


どちらも朝と同じ位置にある。


「学校に、澪がいた」


佳乃が言う。


「ここにもいる」


直哉が答える。


冗談には聞こえなかった。


颯真は座布団へ背を預け、左肩を動かさないようにしている。


「見たのか」


「見た」


湊が答える。


「同じ顔?」


「同じ」


「話した?」


「話した」


颯真は隣の澪を見る。


「向こうも自分が澪だって?」


「はい」


「怖くないの」


澪は少し考えた。


「怖いです」


即答しなかったことが、かえって本当らしかった。


「でも、あの人を偽物だと決める方が怖いです」


宗一郎が座る。


直哉は父の顔を見た。


「左腕のある親父も出たんだってな」


「ああ」


「どの親父だ」


「颯真を戻さなかった履歴だと思う」


「思う?」


「断定できない」


直哉はしばらく黙っていた。


「少しは言い方を覚えたな」


宗一郎は反論しなかった。


湊は学校から持ち帰った大学ノートの写しを机へ置く。


担任は原本を学校の金庫へ入れた。


写真は三か所へ保存した。


窓の老人は写っていない。


左手の跡だけが残っている。


「次は、兄ちゃんの写真を確認したい」


湊が言う。


颯真が眉を寄せる。


「俺の?」


「えくぼ」


部屋の空気が少し変わる。


颯真は右頬を指で押した。


「そんなに大事か」


「大事かどうかじゃない。違ったことを残したい」


佳乃が押し入れから古いアルバムを持ってくる。


すぐには開かなかった。


「見る前に、覚えていることを書きましょう」


直哉が紙とペンを配る。


一人ずつ、互いに見えないように書く。


湊。


右頬にえくぼがあった。


佳乃。


笑うと右頬が少しへこんだと思う。


直哉。


覚えていない。


宗一郎。


右頬。


澪。


会う前のことは知らない。


颯真。


自分では分からない。


紙を伏せたまま、佳乃がアルバムを開く。


颯真が十歳の春に撮った写真。


学校の門の前。


大きすぎる制服。


照れたように笑っている。


右頬に、小さなえくぼがあった。


湊の息が止まる。


颯真は写真へ顔を近づける。


「本当にある」


佳乃がスマートフォンで写真を撮る。


画面を開く。


そこに写った颯真の右頬は滑らかだった。


えくぼがない。


元の写真を見る。


ある。


画面を見る。


ない。


直哉が自分の端末でも撮る。


同じだった。


「原本にはある」


佳乃が言う。


「撮り直した画像にはない」


澪は紙へ記録する。


「直接残った像は、古い履歴を保持している可能性があります」


「写真は直接じゃないの?」


颯真が訊く。


「紙の写真は、その時の光が直接焼きついています。スマートフォンの画像は、今の写真を読み直して作ったものです」


宗一郎が口を開く。


「再生成された情報ほど、現在の履歴へ寄るのかもしれない」


佳乃が宗一郎を見る。


「仮説ね」


「ああ」


澪は文章の頭へ、仮説、と書き足した。


颯真はアルバムの自分と、窓に映る現在の自分を交互に見る。


「写真の俺と、今の俺、どっちが俺なんだ」


誰もすぐには答えなかった。


湊は、葬式の記憶と、今ここにいる兄を思う。


「どっちも兄ちゃん」


「雑だな」


「でも、違うところは残す」


「えくぼくらいで」


「人参も」


颯真が顔をしかめる。


「まだ言うのか」


少しだけ笑う。


右頬はへこまない。


湊はその違いを見た。


見て、覚えた。


けれど、それだけで今の兄を否定しないと決めた。


宗一郎が写真へ手を伸ばしかけ、止める。


「欠片は、失われた特徴だけを運ぶものではない」


「何を運ぶの」


「その履歴で選んだ理由だ」


湊は左腕のある宗一郎を思い出す。


颯真を戻さなかった理由。


沙夜子を救えなかった理由。


今の宗一郎とは違う後悔。


「八月十五日、あのおじいちゃんは何をするの」


宗一郎は金属片を見た。


「私に、時計を開かせようとする」


「何のために」


「沙夜子をこちらへ戻すためだろう」


澪の指が止まる。


「沙夜子さんを?」


「八月十五日は、沙夜子が現実から切り離された日だ」


直哉が机へ両手をつく。


「初めて聞いた」


「今、話した」


「四十年遅い」


宗一郎は目を逸らさなかった。


「毎年、その日の午後九時十三分に境界が最も薄くなる」


「だから金属片の日付が八月十五日」


湊が言う。


「おそらく」


「今のおじいちゃんも、沙夜子さんを戻したい?」


宗一郎は答えなかった。


佳乃が訊き直す。


「時計を開くつもりはあるの」


「ない」


「戻したいかは?」


宗一郎の右手が膝の上で閉じる。


「戻せるなら、と思わなかった日はない」


直哉が押し入れを見る。


工具箱は見えない。


「それでも開けないと言えるのか」


「今は」


「八月十五日は?」


宗一郎は黙った。


湊の胸に、金属片の言葉が沈む。


宗一郎を止めろ。


止める対象は、悪い祖父ではない。


戻したいと思っている祖父だ。



その夜、黒瀬家の居間には六人が集まった。


午後九時十三分。


これまで二時間ごとの十三分に続いていた異常は、昼を過ぎてから一度も確認されていない。


それでも、八月十五日の数字と同じ時刻を、誰も一人で迎えたくなかった。


工具箱は押し入れの奥。


鍵の封筒は食器棚の上。


封筒の継ぎ目には、六人の名前が書かれている。


黒瀬湊。


黒瀬颯真。


黒瀬直哉。


黒瀬佳乃。


黒瀬宗一郎。


御厨澪。


担任とは電話を繋いでいる。


大学ノートを開き、学校側の時計を確認してもらう。


「午後九時十二分五十秒」


受話器から担任の声がする。


居間の壁時計も同じ時刻。


五十五。


五十六。


五十七。


宗一郎は工具箱を見ない。


湊は祖父の横顔を見ていた。


五十八。


五十九。


午後九時十三分。


押し入れの中で、歯車が一度だけ鳴った。


カチ。


誰も動かない。


二度目。


カチ。


封筒の中の鍵が、紙を内側から叩く。


颯真が湊の手首を掴んだ。


今度は離さないための力だった。


部屋の電灯が暗くなる。


電話の向こうで、担任が息を呑む。


「学校の時計も止まりました」


黒瀬家の電話が鳴った。


担任と繋いでいる受話器とは別の、固定電話。


呼び出し音が三回鳴る。


澪が受話器を見た。


番号表示には、御厨家の電話番号が出ている。


「私が出ます」


佳乃が止めるより早く、澪が受話器を取った。


「はい」


『御厨です』


澪と同じ声だった。


居間にいる全員が聞いた。


澪が受話器を強く握る。


「今朝、学校にいた方ですか」


『はい』


「沙夜子さんは」


電話の向こうで、障子の震える音がした。


『薄くなっています』


宗一郎の顔が変わる。


『声が途切れます。顔も、時々分からなくなります』


「私を呼んでいますか」


『いいえ』


短い沈黙。


『黒瀬宗一郎さんを』


宗一郎の右手が動いた。


押し入れへ向けてではない。


空の左袖を掴む。


「私は行かない」


宗一郎が言った。


電話の向こうの澪は、少し間を置いた。


『八月十五日、午後九時十三分までに来てください』


「断る」


『沙夜子さんが消えてもですか』


宗一郎は答えなかった。


窓ガラスに、左腕のある老人が映る。


居間の宗一郎の背後。


今度は全員が見た。


左腕のある宗一郎は、胸元から懐中時計を取り出す動作をする。


実物ではない。


それでも、蓋の開く小さな音が部屋へ響いた。


カチ。


押し入れの工具箱が同じ音を返す。


電話の向こうで、もう一人の澪が言う。


『沙夜子さんが消えれば、私たちのどちらが残るかも分かりません』


居間の澪が目を閉じる。


「あなたは、残りたいですか」


『分かりません』


「私もです」


『でも、消えたいとは思いません』


「私もです」


同じ声が、同じ言葉を交わす。


宗一郎は窓の中の自分を見る。


「お前が呼ばせたのか」


左腕のある老人は答えない。


口だけが動く。


湊には読めた。


お前は開く。


宗一郎の右手が、畳へつく。


立ち上がろうとしたのかもしれない。


湊が空の左袖を掴む。


宗一郎は動きを止めた。


「今、行こうとした?」


「違う」


「推測?」


宗一郎の口が閉じる。


佳乃が受話器へ近づく。


「沙夜子さん本人と話せますか」


『今は、声が届きません』


「なら、本人が何を望んでいるか分からないまま、宗一郎を呼んでいるのね」


電話の向こうの澪は黙った。


「記録や言い伝えではなく、あなた自身は何を確認しましたか」


『姿が薄くなっていることだけです』


「それ以外は推測?」


『はい』


居間の澪が僅かに息を吐く。


佳乃は宗一郎を見る。


「今夜は行かない」


宗一郎ではなく、家族全体へ言った。


「八月十五日までに、確かめる方法を探す」


直哉が押し入れの前へ座る。


「親父が立ったら止める」


「立たない」


「今は、だろ」


宗一郎は否定しなかった。


電話の向こうで、障子が大きく鳴る。


『また連絡します』


「一人で決めないでください」


居間の澪が言う。


『あなたも』


通話が切れた。


表示された通話時間は一分十三秒。


午後九時十四分。


壁時計が動き出す。


学校の担任が電話の向こうで言った。


「こちらも動きました」


窓の中の左腕のある宗一郎は消えていた。


押し入れの工具箱も静かになる。


誰もすぐには話さなかった。



佳乃は、通話の内容を一行ずつ読み上げた。


全員が自分の記憶と違う箇所を訂正する。


担任も電話越しに記録した。


宗一郎だけが、途中から黙っていた。


「名前を書いて」


湊が言う。


「何に」


「今日の記録」


大学ノートの写しを机へ置く。


一人ずつ署名する。


湊。


颯真。


直哉。


佳乃。


澪。


宗一郎。


担任は学校側の原本へ署名した。


湊は家庭用の複合機へ紙を入れる。


「コピーするの?」


颯真が訊く。


「今の履歴へ寄るなら、何が消えるか分かる」


機械が低い音を立てる。


一枚の紙が出てくる。


六人の記録。


通話の内容。


午後九時十三分。


署名欄。


黒瀬湊。


黒瀬颯真。


黒瀬直哉。


黒瀬佳乃。


御厨澪。


一人分だけ、空白だった。


原本を見る。


黒瀬宗一郎。


確かに書かれている。


コピーにはない。


宗一郎は、自分の署名へ右手を置いた。


「始まっている」


直哉が顔を上げる。


「何が」


「私と、この履歴の関係が薄くなっている」


「時計を開いてないのに?」


「開いた私が、近づいているからかもしれない」


宗一郎は窓を見る。


そこには夜の居間しか映っていない。


「推測だ」


佳乃が言うより先に、自分で付け加えた。


湊はコピーの空白を指でなぞる。


インクはない。


筆圧もない。


再生成された紙には、宗一郎が最初から書かなかったことになっている。


「傷なら残る」


湊は工具箱を押し入れから出してもらった。


開けない。


蓋の上へ置くだけ。


直哉が釘と小さな金槌を持ってくる。


「何をする」


宗一郎が訊く。


「名前を残す」


湊は釘の先を金属の蓋へ当てた。


一文字ずつ、浅く傷をつける。


宗。


一。


郎。


形は不格好だった。


それでも、インクではない。


コピーでもない。


工具箱そのものに残った傷。


宗一郎は止めなかった。


「僕が忘れても、これを見ればいい」


「傷も変わるかもしれん」


「変わったら、変わったことをまた残す」


颯真が金槌を受け取る。


宗一郎の名前の横へ、小さな点を一つ打った。


直哉も。


佳乃も。


澪も。


最後に宗一郎自身が、右手で点を打つ。


六つの傷が、名前を囲んだ。


午後九時二十一分。


時間は進んでいる。


湊は金属片を工具箱の上へ置いた。


0815 21:13。


あと十四日。


今度は、起きる前から全員で覚えている。


窓ガラスの隅に、白い指の跡が一つ浮かんだ。


左手の人差し指。


その先が、工具箱に刻まれた宗一郎の名前を指していた。

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