第五話 残された時間
救急車の赤い光が、杉の幹を何度も染めた。
同じ場所を回っているのではない。
点滅するたび、影の位置が少しずつ変わっている。
時間は進んでいる。
湊はそれを確かめるように、颯真の右手を握っていた。
「付き添いは一人です」
救急隊員が言った。
直哉が迷わず車内へ乗り込む。
「父さん」
担架へ固定された颯真が顔をしかめた。
「工具箱」
石段の脇に置かれたままだった。
宗一郎が右手で持ち上げる。
「私が持つ」
直哉の目が細くなった。
「開けるなよ」
「分かっている」
「親父の分かってるは、信用できない」
宗一郎は言い返さなかった。
工具箱を胸へ抱え、救急車から一歩離れる。
扉が閉まる直前、颯真が湊を見る。
「泣くなよ」
「泣いてない」
「顔が泣く前の顔」
颯真が少し笑った。
湊は、その右頬を見た。
笑うと出ていたはずの、小さなえくぼ。
今の颯真にはない。
救急車の扉が閉じた。
サイレンが山道を下っていく。
湊は手の中に残った兄の体温を握り直した。
◇
佳乃は病院の救急入口で待っていた。
宗一郎の腕についての検査が終わった直後、警察から連絡を受けたらしい。
髪は結び直されておらず、病院の書類が入った封筒を抱えたままだった。
救急車から担架が下ろされる。
「颯真」
佳乃が駆け寄る。
「母さん、大丈夫」
「大丈夫な人は救急車で来ない」
「骨は折れてないって」
「誰が言ったの」
颯真が宗一郎を見る。
佳乃も見る。
宗一郎は黙って工具箱を抱え直した。
「医者じゃない人の診断を、先に信じないで」
颯真は担架の上で肩をすくめようとして、痛みに顔を歪めた。
処置室の扉が閉じる。
直哉は血のついた両手を見下ろしていた。
右手には颯真の血。
左手には、神社の石段でついた泥と、工具箱の取っ手の錆が残っている。
同じ息子の名前が付いた古い布切れは、警察の証拠袋の中にある。
「お父さん」
佳乃が呼ぶ。
直哉は顔を上げる。
「何があったの」
「説明できるところから話す」
「説明できないところも話して」
直哉は宗一郎を見る。
宗一郎は工具箱を足元へ置いた。
「今夜は、誰も一人で決めない」
佳乃は空の左袖を一度見てから、宗一郎の顔へ視線を戻した。
「それを最初に言うべきだったわね」
◇
診察の結果、透明な刃は颯真の左肩の筋肉を傷つけていた。
骨と太い血管には届いていない。
傷口を洗浄し、縫合する必要がある。
医師は刃物の種類を尋ねた。
直哉は答えられなかった。
「神社の倒壊で、何か鋭いものが」
それだけを言った。
嘘ではない。
全部でもない。
警察官が、切り取られた制服を透明な袋へ入れた。
左肩から袖の付け根にかけて、布が深く裂けている。
襟は残っていた。
白い名札も、制服の内側にそのまま縫いつけられている。
黒瀬颯真。
午前中に神社で発見された、血染めの襟元。
同じ名前。
けれど、今夜裂けた場所とは違う。
警察官が直哉へ確認した。
「朝の遺留品と、今回の制服は別物ですね」
「はい」
「今着ていた制服から襟が取れた形跡もない」
「ありません」
「同じ制服を複数持っていますか」
「替えはあります。ただ、どれも家にある」
佳乃が言った。
「確認できます」
警察官は二つの証拠袋を並べた。
新しい血は赤い。
古い血は黒く乾いている。
古い襟の切断面は、刃物で切ったように滑らかだった。
今夜の肩口は、布を内側から裂いたように毛羽立っている。
「血液の鑑定には時間がかかります」
警察官が言った。
「布の製造時期も調べます。ただ――」
言葉を止める。
「ただ?」
直哉が訊く。
「午前中に見たときより、古く見えるんです」
証拠袋の中の名札は、端が黄ばんでいた。
直哉は午前十時の白さを覚えている。
同じものを見ているはずなのに、何年も保管されていた布のように変わっていた。
警察官は首を振る。
「私の記憶違いかもしれません」
「違わない」
直哉は答えた。
「俺も同じように見えた」
警察官はそれ以上書かなかった。
代わりに証拠袋をスマートフォンで撮影した。
一枚。
角度を変えて、もう一枚。
直哉はその動作を見ていた。
佳乃が病院の記録を撮影したのと同じだった。
記憶が頼れないなら、記録を残す。
けれど、その記録も変わるかもしれない。
それでも、何もしないよりはいい。
◇
湊は待合室の長椅子に座っていた。
隣に澪がいる。
澪は折れた境界針を、白いハンカチの上へ並べていた。
二つに折れた銀の針。
先端はどちらの方角も示さない。
「痛くないの」
湊が訊く。
澪の掌には、糸が食い込んだ細い傷が何本も残っている。
「痛みはあります」
「記憶は?」
澪は答える前に、目を閉じた。
「御厨家の玄関は覚えています」
「うん」
「門の形も、座敷の障子も、電話番号も覚えています」
「じゃあ、帰れるんじゃないの」
「そこへ行く順番だけがありません」
澪は病院の案内板を見る。
出口。
会計。
病棟。
文字は読めている。
「道を失うって、場所を忘れることじゃないんだ」
「はい。場所と自分の間にあった関係が抜けています」
湊には完全には分からなかった。
けれど、兄の葬式を覚えているのに、町の誰とも共有できなかった感覚と少し似ている気がした。
場所はある。
記憶もある。
そこへ戻る方法だけが、世界から外れている。
「電話してみる?」
湊が訊く。
澪は少し迷い、待合室の公衆電話へ向かった。
硬貨を入れる。
番号を押す指は止まらない。
呼び出し音が三回鳴った。
誰かが受話器を取る。
澪の表情が固まる。
「御厨です」
相手の声は湊には聞こえない。
「澪です」
沈黙。
「御厨澪です。叔父さまが――」
澪の声が途切れた。
受話器から、短い電子音が漏れる。
通話が切れた。
「誰だった?」
澪は受話器を戻さない。
「家の者です」
「何て?」
「御厨澪は、屋敷にいると言いました」
湊は公衆電話の黒い受話器を見る。
「別の澪?」
「分かりません」
澪は受話器を静かに置いた。
「でも、私が帰れない理由は、道だけではないのかもしれません」
折れた針をハンカチへ包み直す。
指は震えていなかった。
「確認します」
「一人で?」
澪が湊を見る。
湊は言い直した。
「一人では確認しないで」
「はい」
その返事だけは、すぐだった。
◇
担任が病院へ来たのは、午後八時を過ぎたころだった。
大学ノートを胸へ抱えている。
走ってきたらしく、額に汗が浮いていた。
「黒瀬君」
湊を見つけると、肩の力を抜いた。
「無事だったのね」
「兄ちゃんは縫ってます」
「あなたの腕は?」
湊は袖をまくる。
黒線は手首から肘の少し手前まで残っている。
学校を出たときよりは薄い。
担任は息を吐いた。
大学ノートを開く。
「続きを書こうとしたの」
最初のページには、学校で書いた時刻と出来事が並んでいた。
午後六時二十一分。
病院を名乗る電話。
午後六時三十一分。
中学校へ確認。
午後六時四十一分。
廊下の時計が止まる。
午後六時四十二分。
七秒間の停電。
そこまでは湊も見覚えがある。
次の行だけ、文字が二重になっていた。
黒いボールペンの上へ、同じ筆圧の黒い文字が重なっている。
一方は、
黒瀬湊の右腕に黒い線。祖父と神社へ向かう。
もう一方は、
黒瀬湊、祖父の迎えで午後六時四十三分に下校。
同じ字だった。
どちらも担任の字。
「私が書いたのは、上の文章」
担任が言う。
「下の文章を書いた記憶はありません」
「でも先生の字」
「筆圧の癖も、句読点も同じです」
担任は一度、唇を噛んだ。
「怖くなって、破ろうと思いました」
ノートの端に、爪をかけた跡がある。
「でも、破ったら、どちらが本当にあったのか分からなくなる」
担任はノートを閉じなかった。
「だから持ってきました」
宗一郎が待合室の向こうから近づく。
「写真は撮ったか」
「はい。学校の複写機でもコピーしました」
「コピーは」
「片方の文章しか写りませんでした」
担任がスマートフォンを見せる。
写真には二重の文字が写っている。
紙のコピーには、
黒瀬湊、祖父の迎えで午後六時四十三分に下校。
それだけが印刷されていた。
宗一郎は長く黙った。
「記録が残った履歴へ寄っている」
澪が言った。
「でも、先生が自分で書いた線は、完全には消えていない」
「観測した人間が、記録を手放さなかったからかもしれん」
宗一郎が答える。
「推測だ」
最後に付け加えた。
湊は祖父を見る。
以前なら、推測も事実のように言ったかもしれない。
担任は新しいページを開いた。
手が少し震えている。
それでも書いた。
午後八時十二分。
同一の筆跡による二つの記録を確認。
「先生」
湊が呼ぶ。
「はい」
「続き、書けそう?」
担任は怖そうに笑った。
「書かせてくれるなら」
◇
颯真が処置室から出てきた。
左腕を三角巾で固定されている。
麻酔が効いているため、痛みはまだ弱いらしい。
「大げさだな」
「肩を縫った人が言わないの」
佳乃が隣を歩いている。
颯真は長椅子へ座ると、湊の頭を右手で軽く叩いた。
「待たせた」
湊はその手を掴む。
温かい。
本物かどうかを確かめる方法はない。
それでも、今は離さなかった。
担任が颯真へ頭を下げる。
「学校で待たせるよう言ったのに、確認へ行ってしまってごめんなさい」
「俺が騙したんです」
「それでも、教師です」
「じゃあ、次は騙されないでください」
「次を作らないでください」
颯真が笑う。
右頬には何も出ない。
湊はまた、そこを見ていた。
「何だよ」
「別に」
「気持ち悪いな」
昔の兄なら、ここで笑ったときに小さな窪みができた。
写真で確認したわけではない。
湊の記憶だけだ。
だから言えなかった。
「先生のノート、変になってる」
代わりに言った。
颯真は二重の文字を見る。
「俺が山へ行ったことも消えるのか」
「分からない」
担任が答える。
「だから、今のうちに聞かせて。どうして学校を出たのか」
颯真はしばらく黙った。
「俺の机に紙が入ってた。俺の字で、弟を残すなって」
担任は書く。
「その紙は?」
「神社で黒くなって、崩れた」
担任の手が止まる。
「証拠はないんですね」
「湊が聞いた」
「はい」
湊が答える。
担任は湊の証言も書いた。
一人の記憶ではなく、二人の記憶として。
「先生」
颯真が言う。
「俺が忘れたら、それ見せてください」
担任は頷いた。
「あなたが嫌がっても見せます」
「それは嫌だな」
「先ほど、次は騙されるなと言われましたから」
颯真は言い返せなかった。
◇
午後九時前、六人は黒瀬家へ戻った。
直哉と佳乃。
颯真と湊。
宗一郎。
そして澪。
玄関へ入る前、佳乃は澪へ向き直った。
「事情は全部分かっていない」
澪は黙って聞く。
「あなたの家と、うちの家に何があったのかも知らない。あなたを信じていいかも、まだ判断できない」
「はい」
「でも、今夜帰る場所がない子を外へ置くことはしない」
佳乃は玄関を開けた。
「入って」
澪は敷居の前で止まる。
黒瀬家の中を見つめた。
何かが見えているのかもしれない。
それでも一歩を踏み出した。
何も起きなかった。
廊下は白くならない。
時計も止まらない。
「お邪魔します」
居間の壁時計は午後九時三分を示していた。
秒針は一秒ずつ進んでいる。
直哉は工具箱を座卓の中央へ置いた。
鍵はかかったまま。
「この時計をどうする」
誰にともなく訊く。
宗一郎は座卓の向こうへ座る。
「私から遠ざけろ」
「捨てる?」
颯真が訊く。
「捨てた場所が新しい境界になる可能性がある」
澪が言った。
「壊すのは」
湊が訊く。
「中に残っている履歴が、どこへ出るか分からん」
宗一郎が答える。
「それも推測だ」
佳乃が確認する。
「そうだ」
「なら、分かっていることだけで決める」
佳乃は病院から持ち帰った封筒を座卓へ置いた。
宗一郎の診療記録の写真。
颯真の処置記録。
警察から渡された遺留品の控え。
担任が撮影したノートの画像。
「時計は、今ここにある」
佳乃が言う。
「開けば、また誰かが代償を払う」
「そうだ」
「誰が何を失うかは分からない」
「分からん」
「それなら、誰か一人が持つのをやめる」
直哉が工具箱の鍵を外した。
宗一郎の肩が僅かに動く。
湊は空の左袖を見た。
直哉は鍵を佳乃へ渡した。
佳乃はその鍵を封筒へ入れ、封をした。
封筒の継ぎ目へ、全員が名前を書く。
直哉。
佳乃。
颯真。
湊。
宗一郎。
澪はペンを持ったまま止まった。
「私もですか」
「使えば、あなたにも関係する」
佳乃が言う。
澪は一番下へ名前を書いた。
整った丸い字。
封筒には、六人の筆跡が並んだ。
封筒は食器棚の一番上へ入れた。
工具箱は居間の押し入れへ置く。
鍵と時計を別の場所へ。
一人では開けられないようにする。
「これで完全ではない」
宗一郎が言った。
「完全じゃなくていい」
湊が答える。
「一人で開けられなければ、前よりはいい」
颯真が頷く。
「爺ちゃんが夜中に工具箱を壊したら?」
「見張る」
直哉が言う。
「親父を?」
「時計をだ」
「同じだろ」
宗一郎は怒らなかった。
「必要なら縛っておけ」
佳乃が宗一郎を見る。
「冗談で言ってる?」
「半分は」
「残り半分が怖いのよ」
その夜、誰も笑わなかった。
けれど、前より息はしやすかった。
◇
宗一郎は、話せる範囲だけを話した。
御厨黎一の中に黒瀬由来の線があること。
それは血筋ではなく、昔の境界事故の際、輸血によって黒瀬家の血が身体へ入ったためだということ。
誰の血だったのか。
事故で何が起きたのか。
宗一郎は答えなかった。
「知らないの」
湊が訊く。
「知っている」
「じゃあ、どうして言わないの」
宗一郎は座卓の木目を見る。
「私だけの記憶では、事実だと確定できないからだ」
澪が顔を上げる。
「御厨の記録と照合する必要があります」
「戻れないのに?」
颯真が訊く。
「戻れないから、別の方法で確認します」
宗一郎は続けた。
「沙夜子についても、今夜すべてを話すつもりはない」
「また隠すの」
湊の声が硬くなる。
「違う」
宗一郎はすぐに答えた。
「私が覚えている沙夜子と、澪が知っている沙夜子が同じとは限らない。私の記憶だけで、本人の選択を決めつけたくない」
以前なら聞けなかった言葉だった。
颯真が右手で三角巾の紐を触る。
「爺ちゃんも、少しは学ぶんだな」
「お前ほど遅くはない」
「俺は今日、生きる方を選び直した」
「だから遅いと言っている」
二人は睨み合った。
佳乃が湯呑みを置く。
「怪我人と老人は静かにして」
同時に黙った。
澪が小さく息を吐く。
笑ったのかもしれない。
◇
夜中、湊は眠れなかった。
隣の部屋では颯真が休んでいる。
痛み止めが効いているのか、寝息は一定だった。
居間へ行く。
壁時計は午前零時十七分。
秒針が一周する。
何も起きない。
湊は少しだけ安心した。
座卓の上に、担任の大学ノートのコピーがある。
病院で撮った写真を佳乃が印刷したもの。
二重だった文章は、印刷すると一つしか残らない。
黒瀬湊、祖父の迎えで午後六時四十三分に下校。
神社も、黒線も書かれていない。
その下へ、佳乃が赤いペンで書き足していた。
原本には別の文章が重なっている。担任、湊、澪、宗一郎が確認。
記憶を一人へ任せないための一行。
湊は自分の名前を横へ書いた。
字が少し震えた。
背後で床が鳴る。
振り返る。
澪が廊下に立っていた。
借りた佳乃の寝間着は少し大きい。
「眠れませんか」
「澪も?」
「目を閉じると、家の玄関が見えます」
「でも行けない」
「はい」
澪は居間へ入り、押し入れを見る。
工具箱の中は静かだ。
「別の私が家にいるって、本当だと思う?」
湊が訊く。
「電話の相手が嘘をついた可能性もあります」
「御厨の人が?」
「御厨は、必要な情報だけを伝えることがあります」
黎一と同じ。
澪はそう言わなかった。
「確認するまで、決めません」
「一人で決めない?」
「決めません」
二人は壁時計を見る。
午前零時十八分。
時間は進んでいた。
◇
八月一日の朝、町は昨夜のことをほとんど覚えていなかった。
ニュースでは、山ノ宮神社の鳥居が老朽化と落雷によって倒壊したと報じられた。
空は晴れていた。
落雷の痕跡もない。
それでも記事には、落雷と書かれている。
警察官二人は、午前十一時十三分から救急車が来るまでの記憶を失っていた。
管理人は、鳥居が倒れた音を聞いていないという。
商店街の人々は、午後六時四十二分に一瞬停電したとだけ話した。
時間が一分間止まったことを覚えている者はいない。
昨夜をひと続きの出来事として覚えているのは、黒瀬家に集まった六人と担任だけだった。
颯真は学校を休んだ。
宗一郎も家に残る。
澪は登校しなかった。
学校へ電話をかけると、事務員は不思議そうに答えた。
「御厨澪さんは、本日出席しています」
澪は受話器を握ったまま動かなかった。
居間には、本人が立っている。
佳乃が学校名と学年を確認する。
間違いはない。
電話の向こうでは、澪が一時間目の授業を受けているという。
「本人確認はできますか」
佳乃が訊く。
事務員は困ったように笑う。
「毎日通っている生徒ですから」
通話を切る。
澪は窓の外を見た。
「私がいなくなったのではなく、空いた場所が埋められた」
「別の履歴の澪に?」
湊が訊く。
「まだ決めません」
そう答えたが、声は僅かに震えていた。
佳乃は学校との通話時刻を記録する。
午前八時十七分。
◇
湊は一人で登校した。
颯真がいない道は、葬式の翌朝と同じはずだった。
けれど、今は兄が家で眠っている。
それだけで足の重さが違う。
教室へ入ると、担任が大学ノートを机の上へ置いて待っていた。
「新しい変化があります」
昨夜、二重になっていたページ。
黒い文字は一つへ戻っていた。
祖父の迎えで午後六時四十三分に下校。
それだけ。
担任が書いたはずの黒線と神社の文章は消えている。
けれど、紙を斜めから見ると、筆圧の跡が残っていた。
インクだけがない。
鉛筆を横にして薄く擦る。
凹んだ文字が浮かび上がる。
黒瀬湊の右腕に黒い線。祖父と神社へ向かう。
担任の指が震えた。
「書いたことは、完全には消えていません」
「見える人だけが見えるの?」
「今は、鉛筆があれば誰でも見えます」
担任は新しいページへ記録する。
八月一日、午前八時二十七分。
消えたインクの下に筆圧を確認。
「先生」
湊が言う。
「これ、どこにあったの」
ノートの中央に、銀色の金属片が挟まっていた。
昨日までなかったもの。
担任は触れていないという。
湊はハンカチで包んで取り出した。
表に数字が刻まれている。
0815 21:13
八月十五日。
午後九時十三分。
裏側には、丸みのある文字。
湊の字に見える。
『次は、宗一郎を止めろ。』
教室の空気が冷えた。
「宗一郎さんを?」
担任が訊く。
湊は答えられない。
祖父は昨夜、時計を開かなかった。
戻さずに颯真を連れ帰った。
一人で決めたことを認めた。
それでも、未来かもしれない自分は、祖父を止めろと書いている。
窓の外を見る。
西の山。
崩れた鳥居は、校舎からは見えないはずだった。
杉の上に、赤い鳥居が立っている。
柱も笠木も壊れていない。
夕方ではない。
朝の光の中で、影のように薄く浮かんでいる。
担任も窓へ近づいた。
「見えます」
一人だけの観測ではない。
湊が瞬きをすると、鳥居は消えた。
窓ガラスには、教室の中が映っている。
湊。
担任。
そして二人の後ろに、左腕のある宗一郎が立っていた。
振り返る。
誰もいない。
窓の中の宗一郎だけが、右手で懐中時計を開こうとしている。
湊は金属片を握った。
「今度は、間に合わせる」
自分の声が、少しだけ別の声と重なった。
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