第四話 鳥居の向こう側
午後六時四十二分を告げる鐘が、境界の奥で鳴った。
最初の指が颯真の手首へ絡みつく。
半透明の指だった。
皮膚の下に骨はなく、白い煙の中へ爪だけが浮いている。
次の手が肘を掴み、その次が制服の袖を握った。
子どもの小さな手。
節の太い老人の手。
指先を失った手。
何十本もの腕が、鳥居の向こうから颯真を引いた。
颯真の右足が影の中へ沈む。
石畳へ立っているはずなのに、靴底の半分が白い廊下の床へ重なっていた。
「兄ちゃん!」
湊は颯真の腰へ飛びついた。
身体ごと後ろへ引く。
颯真は倒れなかった。
向こう側から引く力の方が強い。
「離せ、湊!」
「離さない!」
「お前まで入る!」
湊の右手首にも、冷たい指が触れた。
袖の下で黒線が一気に肘まで伸びる。
痛みはない。
腕の内側だけが、冬の水へ沈めたように感覚を失っていく。
宗一郎が湊の背後から身体を抱えた。
右腕一本で二人を引く。
失われた左袖が激しく揺れた。
「颯真、刀を放せ!」
颯真は黒い鞘の短刀を握ったままだった。
「これを使わないと閉じない!」
「誰にそう聞いた」
「こいつだ!」
颯真が白布の男を見る。
男は扇を開いたまま、鳥居の脇に立っていた。
白い布の下から見える片目は、颯真ではなく鳥居の向こうを見ている。
「一人で済むものを、なぜ増やす」
静かな声だった。
責めているのではない。
計算が狂ったことを確認しているだけの声だった。
湊は颯真を掴んだまま叫んだ。
「一人で済むって、何が!」
男は答えない。
澪が銀の針を構えた。
髪を留めていたときより長く、細い針先が白い光を反射している。
「叔父さま」
澪の声は震えていなかった。
「颯真が鳥居を閉じたあと、どちら側へ残るのですか」
男の片目が澪へ向く。
「町ではない」
颯真の呼吸が止まった。
湊の腕の中で、身体がわずかに硬くなる。
「聞いてない」
颯真が言った。
白布の男は扇を閉じた。
「聞けば、迷う」
「迷ったら駄目なのかよ」
「境界は迷いを選ぶ。二つの側へ意味を与えた者から裂いていく」
「だから黙ってたのか」
「お前は三度、こちら側へ戻されている。複数の履歴を持ちながら、現在の身体を保っている。器として最も安定している」
「器じゃない」
湊が言った。
男は湊を見ない。
「颯真一人を残せば、町へ漏れた履歴は閉じる。弟の線も消える」
「兄ちゃんは?」
「白い廊下へ残る」
「それを死ぬって言うんだよ!」
湊の声が杉林へ跳ね返った。
何十本もの白い手が、同じ瞬間に握る力を強めた。
颯真の肩が鳥居へ引かれる。
短刀の鞘が石畳へ当たり、乾いた音を立てた。
颯真は白布の男を睨んだ。
「俺が残れば、本当に湊の線は消えるんだな」
「記録にはそうある」
「見たのか」
宗一郎が訊いた。
男の視線が初めて宗一郎へ移る。
「何を」
「颯真が残り、湊が戻ったところまで、お前自身が見たのか」
「御厨の記録に残っている」
「見てはいないのだな」
男は答えなかった。
宗一郎が颯真の制服を掴む右手へ力を込める。
「記録が正しいなら、御厨は今日ここに誰も寄こさずに済んだ。お前が立っている時点で、記録の外がある」
「黒瀬が記録を歪めた」
「違う」
澪が言った。
「記録が、残った履歴へ寄っている可能性があります」
「澪」
男の声が低くなる。
「家の教えを疑うな」
「疑っているのではありません。見たことと、記されたことを分けています」
白布の男――御厨黎一は、扇の骨を親指で押した。
小さな軋みが鳴る。
「町の西側が消えかけている」
初めて、声に感情が混じった。
「境界がこのまま開けば、御厨の屋敷も学校も、ここにいる者の家も、選ばれなかった履歴へ飲まれる。私はそれを閉じる」
「颯真を残して?」
「一人と町を比べることを、残酷と呼ぶのは簡単だ」
「澪も町にいるからですか」
黎一の扇が止まった。
澪は答えを待たずに続けた。
「私を残すために、颯真を置いていくのですか」
「お前は御厨の記録を継ぐ」
「それは、私の質問への答えではありません」
黎一は澪を見た。
焼けた杉の匂いに混じって、境界から消毒液の匂いが流れてくる。
白い廊下の赤い非常灯が、鳥居の奥で一度だけ点滅した。
「お前まで失うわけにはいかない」
黎一は言った。
「なら、私に選ばせてください」
澪は針を鳥居ではなく、自分の足元へ向けた。
宗一郎が険しい顔をする。
「二度目を使うつもりか」
「はい」
「一度目は道を示した。二度目は何を失う」
澪は鳥居の向こうを見た。
白い手に掴まれた颯真。
その腰へしがみつく湊。
二人を支える宗一郎。
「この針は、離れた履歴の間から本当に続く道を示します」
澪が言う。
「二度目は、私の記憶を糸にして、誰が同じ側へ残るかを縫い留めます」
「どの記憶を使う」
「御厨へ戻る道を覚えている、私の記憶です」
湊が澪を見る。
「家に帰れなくなるの?」
「分かりません」
澪は正直に答えた。
「家が私を御厨として認識しなくなるか、私が家のある方角を認識できなくなるか。記録には結果までありません」
「記録にないなら使うな!」
黎一が初めて声を荒らげた。
「お前は何を失うか分かっていない」
澪は叔父を見返した。
「颯真も同じです」
黎一の口元が白布の下で動いた。
言葉は出なかった。
澪は針を自分の影へ突き立てた。
高い金属音が鳴る。
銀の針から、細い白い糸が伸びた。
糸は澪の影を離れ、湊の靴へ触れ、宗一郎の足元を回り、颯真の沈みかけた右足へ届く。
四人の影が一本の線で結ばれた。
その瞬間、澪の背後にあったはずの町の道が消えた。
杉と石垣の間に、西へ下る細い道があった。
湊には見える。
宗一郎も振り返った。
けれど澪だけが、何もない杉の幹を見つめている。
「道が」
澪の声が、初めて揺れた。
「御厨へ戻る道が、分かりません」
針の根元へ亀裂が入る。
それでも澪は手を離さなかった。
「四人とも、こちら側です」
白い糸が強く光る。
颯真を掴んでいた手の動きが止まった。
止まっただけで、離れてはいない。
宗一郎が颯真へ言う。
「今なら足を戻せる」
颯真は鳥居の向こうを見た。
白い廊下のガラスに、何人もの自分が映っている。
小さな棺へ入った颯真。
雪の中で倒れている颯真。
階段の下で目を開けない颯真。
どれも現在の颯真と同じ制服を着ていた。
「俺が戻ったら、誰が閉じる」
「分からん」
宗一郎は言った。
「でも、兄ちゃんを残す方法は選ばない」
湊が続けた。
颯真は湊を見下ろした。
右腕の黒線は肘まで達している。
湊の指は震えていた。
それでも腰を掴む手は離れない。
「俺が残れば、お前は助かる」
「助かっても、兄ちゃんを置いてきたことは残る」
「生きてれば忘れる」
「忘れないからここに来たんだよ」
湊の声は小さかった。
「兄ちゃんの葬式を、みんな忘れても僕は覚えてた」
颯真の顔が歪む。
湊は続けた。
「今度も一人でいなくなったら、僕だけが覚えるかもしれない。そんなの、助かったって言わない」
白い廊下から伸びる指が、颯真の手首へさらに食い込む。
赤黒い痣が浮かぶ。
颯真は短刀を見た。
次に、鳥居の影を見る。
「この刀で、影を切れば閉じるって言われた」
「鳥居を越えるなと、僕の金属片には書いてある」
湊はポケットから銀色の片を出した。
『兄を止めろ。』
『鳥居を越えるな。』
二行は変わっていない。
颯真が短く息を吐いた。
「どっちの字も、信用できないんだったな」
「うん」
「じゃあ、俺たちで決めるしかないか」
颯真は右足を引いた。
白い手が一斉に抵抗する。
湊が引く。
宗一郎が二人を支える。
澪が白い糸を押さえる。
颯真の靴が、鳥居の影から半分だけ戻った。
「黎一!」
宗一郎が叫ぶ。
「お前の記録に、器が自分から戻った例はあるか」
黎一は扇を握ったまま答えない。
「ないのだな」
「戻れば、境界は町へ開く」
「それも見てはいない」
「試してからでは遅い!」
「だから一人へ払わせるのか」
宗一郎の声が低くなる。
「私は、それを三度やった」
颯真が祖父を見る。
宗一郎は目を逸らさなかった。
「お前を救うと決め、代わりに何を残すかを一人で選んだ。正しいと思っていた。今も、救ったことを間違いだったとは言えん」
空の左袖が、境界の風で持ち上がる。
「だが、正しかったことと、一人で決めてよかったことは同じではない」
颯真の右足が石畳へ戻る。
半透明の手が腕から滑り、爪だけを残して向こう側へ戻った。
颯真は膝をついた。
湊も一緒に倒れる。
二人の肩がぶつかった。
「死ぬことで兄貴になるのは、やめる」
颯真が呟いた。
湊は返事をしなかった。
代わりに、颯真の袖をもう一度強く掴んだ。
白い手は颯真を失い、鳥居の内側で行き場を探すように揺れた。
やがて何十本もの指が、四人を結ぶ銀の糸へ向きを変える。
澪の針が軋む。
「長くは保ちません」
颯真が短刀の鞘を払った。
刃は黒い。
光を反射せず、そこだけ空間が抜け落ちたように見える。
「影を切る」
湊が颯真の腕を掴む。
「ここから?」
「ああ。俺は越えない」
「一人でやらないで」
「刀を持てるのは俺だけだ」
「じゃあ、手を離さない」
颯真は少しだけ笑った。
「邪魔するなよ」
「それは約束できない」
颯真は鳥居の外側へ膝をつき、黒い刃を石畳へ置いた。
刃先が鳥居の影へ触れる。
石ではなく、厚い布へ食い込むような感触が伝わった。
黎一が一歩進む。
「やめろ。器を残さず影だけを切れば、入口は壊れる」
「閉じるんじゃないのか」
「閉じるには、向こう側へ重しが要る」
「最初から、それを言えよ」
颯真の声には怒りがなかった。
疲れていた。
「言ったら、俺が断ると思ったんだろ」
黎一は答えない。
「断られたら困る選択を、俺が選んだことにするな」
颯真は刃を引いた。
黒い線が鳥居の影へ走る。
一寸。
二寸。
影の内側から、ガラスを爪で掻くような音が響く。
白い廊下の床へ亀裂が入り、何十本もの手が暴れ始めた。
銀の糸が引かれる。
澪の掌から血が流れた。
「澪!」
湊が呼ぶ。
「離さないでください」
澪は歯を食いしばり、針を押さえた。
「一人でも手を離せば、その人が向こう側になります」
宗一郎が湊の肩を掴む。
湊は颯真の腕を掴む。
颯真は左手で湊の手首を掴んだ。
四人が銀の糸の内側で繋がる。
「切れ!」
宗一郎が言う。
颯真が短刀を最後まで引き抜いた。
鳥居の影が中央から裂けた。
音は遅れて来た。
山全体が内側から割れたような低い轟音。
赤い鳥居へ縦の亀裂が走る。
白い廊下が一気に神社側へ溢れ出した。
石畳が白くなる。
杉の幹が透明になる。
境内の向こうへ、病院の椅子、学校の廊下、雪の積もった階段が重なった。
颯真の手首から白い手が離れる。
代わりに、裂け目の奥から一本の透明な刃が現れた。
黎一がそれを掴んだ。
「器がないなら、始まりを残す」
宗一郎へ向かって踏み込む。
湊は白い廊下で見た光景を思い出した。
両腕のある宗一郎。
背中へ刺さった透明な刃。
現在の宗一郎には左腕がない。
それでも、刃の軌道は同じだった。
「おじいちゃん、後ろ!」
宗一郎が振り返る。
避けきれない。
颯真は湊の手首を掴んだまま、身体を捻って宗一郎の前へ滑り込んだ。
湊の身体も一歩前へ引かれる。
銀の糸が、二人の腕へ強く食い込んだ。
「兄ちゃん!」
透明な刃が、颯真の左肩の肉を貫いた。
制服が裂け、血が石畳へ飛ぶ。
白い廊下で見た血の道が、宗一郎へ届く前に途切れた。
颯真は倒れなかった。
黎一の手首を掴む。
「俺を使うつもりだったんだろ」
「放せ」
「だったら、最後まで俺を見ろよ」
黎一が刃を引こうとする。
颯真は離さない。
湊が颯真の背中を支えた。
宗一郎が黎一の腕を押さえる。
白い布がずれた。
右半分が焼けただれた顔。
黒い線が首から頬へ走っている。
残った片目へ、颯真の顔が一瞬重なった。
同じ目に見えた。
次の瞬間には、年齢も形も違う黎一の目へ戻っている。
澪が呟いた。
「叔父さまの中にも、黒瀬の線がある」
「血筋ではない」
黎一はそれ以上答えなかった。
宗一郎の顔が強張る。
黎一の黒線が、透明な刃を通って鳥居へ続く。
颯真の血が刃へ触れるたび、黎一の輪郭が白い廊下へ引かれていく。
「叔父さま」
澪が呼ぶ。
「記録には、この先も書かれているのですか」
黎一は答えない。
「颯真を残したあと、境界が本当に閉じたところまで、書かれているのですか」
白い廊下から伸びた手が、今度は黎一の肩を掴んだ。
黎一の片目が揺れる。
「記録は」
言葉が途切れる。
「器が入ったところで終わっている」
湊は息を呑んだ。
黎一は、閉じた結果を知らなかった。
颯真を残せば、その先で何が起きるかを見ていない。
「それでもやらせようとしたのか」
颯真が訊く。
「町を失うよりはましだ」
黎一は即答した。
その答えだけは迷わなかった。
「澪を失うよりは」
澪の顔が僅かに歪む。
黎一は透明な刃を手放した。
刃は地面へ落ちず、白い廊下の床へ沈む。
半透明の手が黎一の身体へ増えていく。
「入口を壊しただけだ」
黎一は四人を見た。
「閉じてはいない。次に開くとき、町は今日より多くを払う」
「次があると決めるのも、記録ですか」
澪が訊いた。
黎一は答えなかった。
白い布を自分の顔へ戻す。
「澪。御厨へ戻るな」
「戻れないようにしたのは、私です」
「屋敷は、お前を家族ではなく侵入者として見る」
「それでも、颯真を残すよりは自分で選べます」
黎一は何かを言おうとした。
鳥居の亀裂が大きく開く。
白い手が一斉に黎一を引いた。
男の身体が白い廊下へ半分沈む。
宗一郎が右手を伸ばす。
「黎一!」
黎一はその手を見た。
掴まなかった。
「お前の救い方は、いつも遅い」
白い光が男の姿を消した。
鳥居の奥で、扉が閉まる音がした。
残された手が、糸を失ったように崩れていく。
半透明の指が白い灰へ変わり、石畳へ落ちる前に消えた。
澪の銀の針が折れた。
白い糸も切れる。
四人の影が、それぞれの足元へ戻った。
その直後、鳥居が中央から割れた。
赤い柱が外側へ傾く。
宗一郎が湊と澪を抱えるように押し退ける。
颯真は左肩を押さえ、倒れる柱の下から転がった。
轟音とともに鳥居が石畳へ崩れ落ちる。
舞い上がった土埃の向こうで、白い廊下が細く縮んだ。
最後まで残ったのは、厚いガラスの向こうに立つ別の湊だった。
右腕を黒線に覆われ、金属片を握っている。
口が動く。
今回は、ここまで。
声は聞こえなかった。
ガラスも廊下も消えた。
夜の杉林だけが残る。
時計の針が動き出す音は、どこからも聞こえなかった。
町の時間が進んだのか、湊にはまだ分からない。
右腕を見る。
黒線は肘から手首まで退いていた。
消えてはいない。
颯真の左肩から血が流れている。
宗一郎がシャツの裾を裂き、傷口へ押し当てた。
「刃は抜けている。骨までは届いていない」
「爺ちゃん、医者じゃないだろ」
颯真が歯を見せる。
いつもの軽口に近かった。
声は震えていた。
「痛い?」
湊が訊く。
「痛くないって言ったら信じるか」
「信じない」
「じゃあ訊くな」
颯真は湊の頭へ右手を置いた。
指に力はない。
それでも湊は、そこに兄の重さを感じた。
石段の下から足音が聞こえた。
一度も繰り返さない足音。
直哉が工具箱を抱えて杉林へ入ってくる。
右手に乾いた血が残り、シャツは泥で汚れている。
崩れた鳥居を見た。
次に、肩から血を流す颯真を見た。
工具箱が地面へ落ちる。
「颯真」
直哉は息子の前へ膝をついた。
傷を見ようとして、手を伸ばし、触れる直前で止める。
「何をした」
颯真は父を見た。
「死なない方を選んだ」
直哉の顔が歪んだ。
怒ることも、抱きしめることもできないような顔だった。
最後に、颯真の後頭部へ手を置く。
「勝手に選ぶな」
「父さんに言われたくない」
颯真が答える。
直哉は何も言い返せなかった。
宗一郎が工具箱を見る。
「時計は」
「開けてない」
直哉が言う。
「一度もだ」
工具箱の中は静かだった。
宗一郎は右手を伸ばしかけた。
湊が空の左袖を掴む。
宗一郎は手を止めた。
「分かっている」
短く言い、工具箱から目を逸らした。
◇
四人と直哉は、崩れた鳥居を背に石段を下り始めた。
反復していた警察官は、石段の下で同時に膝をついていた。
二人とも午前十一時十三分から先の記憶がない。
境内で何が起きたのかを訊かれても、直哉は答えなかった。
けれど、以前のように隠すためではなかった。
「救急車を先に」
そう言って、颯真の肩を押さえ続けた。
石段を下りるたび、町の音が戻ってくる。
車の走る音。
遠くの放送。
夜の虫。
商店街の時計は、午後六時四十三分を示していた。
一分だけ進んでいる。
湊はそれを見て、初めて息を吐いた。
澪は石段の途中で立ち止まった。
西へ分かれる細い道。
御厨家へ続く道がある。
湊にも、直哉にも見えている。
澪は杉の間を見つめたまま動かない。
「どうしたの」
湊が訊く。
澪は一歩だけ西へ踏み出した。
次の瞬間、彼女は湊たちの後ろに立っていた。
誰も、澪が戻ってくるところを見ていない。
ただ一歩進んだはずなのに、位置だけが変わっていた。
澪はもう一度、西へ歩こうとした。
また同じ場所へ戻る。
折れた銀の針を掌に置く。
針先は、どの方角も示さなかった。
「家へ帰る道がありません」
澪は言った。
泣いてはいなかった。
それでも、折れた針を握る指は白くなっていた。
直哉が颯真を支えたまま振り返る。
宗一郎はしばらく黙り、澪へ右手を差し出した。
「今夜は、黒瀬へ来なさい」
澪はその手を見た。
「御厨の人間を家へ入れるのですか」
「戻れない子どもを山へ置いていくよりはましだ」
澪は宗一郎の手を取らなかった。
けれど、黒瀬家へ続く道を歩き始めた。
湊はその隣へ並ぶ。
背後で、崩れた鳥居の木材が一度だけ軋んだ。
振り返っても、白い廊下は見えない。
木材は地面へ倒れたままなのに、鳥居の影だけが立っていた頃の形を残していた。
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