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時は復讐を忘れない  作者: 23
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第三話 境界へ走る

雷が落ちたあとも、空は明るかった。


雨は降らない。


窓ガラスだけが細かく震え、遅れて校舎の奥から蛍光灯の鳴る音がした。


湊は廊下に膝をついたまま、右手を開いていた。


銀色の金属片。


表には、七月三十一日と午後六時四十二分を示す数字。


裏には、湊自身の字で書かれた一行。


『兄を止めろ。』


その向こうに、左腕のない宗一郎が立っている。


息を切らしていた。


白い開襟シャツの胸元が汗で濡れ、失われた左腕の袖が肩口で揺れている。


「颯真はどこだ」


湊は窓の外を指した。


「山へ行った」


宗一郎の顔から、さらに色が消えた。


「一人で?」


「父さんが正門に来たって先生に言って、裏門から出た」


担任が湊の肩を支えたまま立ち上がる。


「お父様は神社にいると確認しています。中学校の防犯カメラにも、颯真君が一人で山へ向かう姿が残っていました」


宗一郎は目を閉じた。


怒っているようにも、何かを諦めたようにも見えた。


「やはり、あの子も見ていたか」


「何を?」


湊が訊く。


宗一郎は答えず、湊の手の中を見た。


「それを見せなさい」


湊は金属片を握り直した。


「取らない?」


「約束はできん」


「じゃあ見せない」


宗一郎の眉がわずかに動く。


以前なら、命令を繰り返したはずだった。


けれど宗一郎は、右手を下ろした。


「分かった。持ったままでいい。近くで見せろ」


湊は立ち上がり、一歩だけ近づいた。


宗一郎は金属片へ顔を寄せる。


指で触れようとはしなかった。


「時計の内蓋と同じ銀だ」


「おじいちゃんの時計の?」


「ああ。だが、直哉が持っている時計から欠けたものではない」


「どうして分かるの」


「内蓋を閉じる前に見た。縁に欠けはなかった」


宗一郎は廊下の時計を見上げた。


長針と短針は午後六時四十二分を指している。


秒針だけが動き、十二を越えても長針は進まなかった。


「時間が止まってるの?」


「止まってはいない」


宗一郎の右手が固く握られる。


「この町が、同じ時刻から出られなくなっている」


担任が二人の間へ入る。


「待ってください。黒瀬君をどこへ連れていくつもりですか」


「山ノ宮神社です」


「十一歳の子を?」


「置いていく方が危険になりました」


「何を言っているんです」


担任の声が強くなる。


「お父様からは、迎えが来るまで校外へ出さないよう頼まれています。警察にも連絡します」


「してください」


宗一郎は即答した。


「黒瀬佳乃にも連絡を。市立病院にいるはずです」


担任は宗一郎を見つめた。


「病院から、あなたが迎えに向かうと電話がありました」


「私は病院へも学校へも連絡していない」


廊下が静かになった。


「学校へ来ると決めたのは、いつですか」


「二十分ほど前です」


「電話は一時間近く前です」


宗一郎の右手が固く握られた。


「電話の主は、私より先に私の行動を知っていた」


担任の顔が強張る。


湊は白い廊下のガラスへ手を当てた、もう一人の自分を思い出した。


未来とは限らない。


まだ起きていないことを知っている者が、未来にいるとも限らない。


廊下の電話が鳴った。


担任が受話器を取る。


「はい、黒瀬湊の担任です」


雑音が漏れた。


ざあ。


その奥で、父の声がした。


『宗一郎は、そこにいるか』


担任が宗一郎を見る。


「黒瀬さんです。お父様です」


宗一郎が受話器を受け取った。


「直哉」


『親父、湊をそこから動かすな』


父の声は遠かった。


風の音と、何度も同じ場所で鳴る蝉の声が混じっている。


「颯真が山へ向かった」


『見えている』


湊は受話器へ近づいた。


「父さん、兄ちゃんがいるの?」


『湊?』


一瞬だけ、声がはっきりした。


『来るな。ここは同じ道が戻ってくる。石段を下りても、また上にいる』


「父さんはどこ?」


『神社だ。ずっと神社にいる』


その言葉の直後、同じ声がもう一度流れた。


『神社だ。ずっと神社にいる』


呼吸の位置まで同じだった。


受話器の向こうで時間が反復している。


宗一郎が低く訊く。


「颯真へ近づけるか」


『近づけない。あいつは鳥居の前にいる。呼んでも振り向かない。俺と同じ場所にいるはずなのに――』


雑音が大きくなる。


『親父、時計は俺の工具箱の中だ。今度こそ使うな』


通話が切れた。


宗一郎は受話器を見つめた。


湊は、失われた左袖を見た。


祖父の腕が消えた瞬間を思い出す。


「時計を使わないで」


宗一郎が湊を見る。


「颯真を止められなければ、必要になるかもしれん」


「今度は、別のものがなくなるんでしょ」


宗一郎の左袖が、空調の風で揺れた。


「ああ」


否定しなかった。


担任が言う。


「だからこそ、黒瀬君はここに残します」


湊も、そうするべきだと思った。


父は来るなと言った。


先生は守ろうとしている。


宗一郎も、本当は一人で行きたいはずだった。


そのとき、右手首が冷たくなった。


袖の下で、細い黒線が浮かぶ。


指先から手首へ伸び、さらに肘の方角へ一筋だけ進んだ。


金属片が熱を持つ。


『兄を止めろ。』


文字の下に、新しい傷が現れた。


西を指す矢印のような傷。


同時に、廊下の壁へ白い影が重なった。


太い配管。


赤い非常灯。


ほんの一秒だけ、学校の廊下が白い廊下へ変わる。


湊が瞬きをすると元へ戻った。


担任は気づいていない。


宗一郎だけが、湊の右腕を見ていた。


「もう結ばれている」


「何が?」


「お前と颯真だ」


宗一郎は担任へ向き直った。


「ここに置いても、境界がこの子を追う。私の目の届かない場所に残す方が危険です」


「そんな説明だけで、保護者の指示を変えることはできません」


担任は職員室へ戻り、市立病院へ電話をかけた。


数分後、佳乃の声が受話器から聞こえた。


『湊の腕に、黒い線が出ているんですね』


「肘へ向かっている」


宗一郎が答える。


佳乃はしばらく黙った。


『学校に残しても、線は進むんですね』


「進む」


『神社へ向かえば、止められる可能性がある』


「ある。だが、保証はない」


受話器の向こうで、佳乃が息を吸う音がした。


『……なら、湊から一秒も離れないでください』


「分かっている」


『分かっていないから言っています。時計の内側は、何があっても開けないで』


「ああ」


『先生、危険な方へ行かせたいわけではありません。ここに置く方が危険だと判断します。母親として許可します。私も病院を出て、警察へ連絡しながら向かいます』


担任は受話器を置いた。


指が小さく震え、受話器が台へ一度ぶつかった。


「警察が来るまで待つべきです」と言いかけ、湊の袖に浮く黒線を見て言葉を止める。


「黒瀬君」


「勝手にいなくならない。先生が見たことも、電話の時間も、全部書いておいてください」


担任は言葉を失った。


午後一時十三分の放送を黒板へ記録した人だった。


見たものを、なかったことにしなかった人だった。


「必ず戻ると約束できますか」


湊は答えられなかった。


代わりに宗一郎が言う。


「私が連れて戻ります」


「時間を戻すという意味ではありませんね」


担任は宗一郎の失われた左袖を見ていた。


宗一郎は少しだけ驚き、やがて頷いた。


「その意味ではありません」


担任は職員室から大学ノートを一冊持ってきた。


一ページ目へ時刻と出来事を書き、湊へ見せる。


午後六時四十二分。


黒瀬宗一郎が黒瀬湊を伴い、山ノ宮神社へ向かった。


市立病院を名乗る電話について、病院は発信を否定。


黒瀬直哉との通話中、同一音声の反復を確認。


「戻ったら、続きを書きます」


担任はペンを置いた。


「絶対に、私に続きを書かせてください」


湊は頷いた。



校門を出ても、時計は午後六時四十二分だった。


道路を走る車も、蝉も、人の足も動いている。


時間が止まったようには見えない。


それなのに、駅前の電光時計も、薬局の時計も、通行人の腕時計も、すべて同じ分を示していた。


秒は進む。


分だけが終わらない。


宗一郎は歩くのではなく、走り始めた。


湊も後を追う。


ランドセルが背中で跳ねた。


「白い廊下にいたおじいちゃんは、何なの」


息を切らしながら訊く。


「今ここにいる私ではない」


「でも、おじいちゃんだった」


「時計を開くたび、選ばれなかった私も残った」


宗一郎は前を向いたまま答える。


「両腕のある私。颯真を救えなかった私。別の代償を払った私。向こうでは順番に意味がない」


「背中を刺されてた」


宗一郎の足が一瞬だけ乱れた。


「見たのか」


「透明な刃が刺さってた」


「確定した未来ではない。起こり得たか、すでに捨てられた時間だ」


「だから見るなって言ったの?」


「見るだけなら、まだ戻れる」


商店街の角を曲がる。


「じゃあ、何をしたら戻れなくなるの」


「見たものを信じ、それを理由に選んだときだ」


「別の僕は、忘れるなって言った」


「見れば傷が残る。忘れれば同じ失敗を繰り返す」


湊はポケットの金属片を握った。


「おじいちゃんは、どっちを選んだの」


宗一郎は答えなかった。


それが答えだった。


商店街へ入ると、同じ店員が二つの店先に立っていた。


一人は魚を並べ、一人は閉店の札を裏返している。


どちらも同じ顔をしている。


湊が振り返ると、片方は消えていた。


八百屋の前では、転がったトマトが籠へ戻り、また同じ場所から落ちた。


誰も気づかない。


宗一郎は速度を落とさなかった。


「午前九時十三分に、教室が一分戻った」


湊が言う。


「十一時十三分には、病院の時計が戻ったらしい」


「どうして知ってるの」


「佳乃から聞いた」


「午後一時十三分には、放送から僕の名前が聞こえた」


宗一郎の表情が変わる。


「二時間ごとだ」


「何が?」


「境界が呼吸していた」


宗一郎は商店街の時計台を見る。


針は六時四十二分のまま。


「十三分に短く開き、閉じる。そのたびに違う場所へ履歴が漏れた」


「今は?」


「全部が一つへ集まっている」


西の空で、二度目の雷が光った。


音はしなかった。


西の山の上で、赤い鳥居が一瞬だけ二重に見えた。



川沿いの橋に、澪が立っていた。


黒い中学校の制服。


肩には鞄。


銀色の髪留めは外され、白い布に包まれて右手に握られている。


宗一郎が足を止めた。


「なぜここにいる」


「学校へ行きました」


澪は答える。


「颯真が裏門から出たと聞き、追いました」


「一人で帰れ」


「帰りません」


「沙夜子に言われたのか」


「祖母さまは、ここから見えるものしか見えないと言いました」


澪は布を開く。


銀色の留め具が、細い針のように伸びていた。


「だから私は、自分で見に来ました」


宗一郎は針を見て顔をしかめる。


「境界針を子どもに持たせたのか」


「髪留めとして持たされていました。使い方を教えられたのは今日です」


「何ができる」


「本当に続いている道を、一度だけ示せます」


「一度だけ?」


「二度目は、私の記憶を縫います」


湊には意味が分からなかった。


宗一郎には分かったらしい。


「使うな」


「必要なら使います」


二人の声は、同じくらい頑固だった。


湊は金属片を取り出した。


『兄を止めろ。』


文字は変わっていない。


「僕の字でも、僕が書いたとは限らない」


湊は宗一郎と澪を見た。


「おじいちゃんの時計も、御厨の記録も、全部が正しいとは限らない。でも、兄ちゃんを一人で選ばせるのは違う」


宗一郎は川面を見た。


水は流れている。


同じ木の葉が、三度橋の下を通った。


「今ここにいる三人と、先にいる兄ちゃんで決めよう」


澪が静かに頷いた。


宗一郎だけが答えなかった。


「颯真を戻したのは、何回?」


湊は訊いた。


宗一郎の右手が固くなる。


「出生時を含めて、三度だ」


「生まれたときも?」


「呼吸をしなかった」


宗一郎の声は平らだった。


「次は、去年の冬。最後が、お前の覚えている葬式だ」


湊は橋の欄干を掴んだ。


湊の知らないところで、兄は二度も救い直されていた。


湊が覚えている葬式まで含めれば、宗一郎は三度、颯真の時間を選び直している。


「それでも、また山へ行った」


「だから今度は戻さない」


宗一郎が言う。


湊は顔を上げた。


「戻さずに、連れ帰る」


宗一郎は、固く握っていた右手を開いた。


「四人で行く。ただし、誰も勝手に鳥居を越えるな」


澪が頷く。


湊も頷いた。


三人は橋を渡った。



山へ続く坂道は、同じ場所を何度も通った。


赤い郵便受けの家。


割れた植木鉢。


片目の白い猫。


三つを通り過ぎる。


角を曲がる。


また同じ家と植木鉢と猫がある。


「戻った?」


湊が立ち止まる。


「道が重なっている」


澪が銀の針を地面へ向けた。


針先が二つの方向へ揺れる。


山へ続く上り坂。


町へ戻る下り坂。


どちらも西を指していた。


「まだ使うな」


宗一郎が言う。


「一度しか使えないんでしょ」


澪は頷き、針を布へ戻した。


湊の右腕が冷たくなる。


黒線が肘の手前まで浮かんだ。


一本だけ、右側の細い路地へ向かって脈打っている。


「こっち」


湊は路地を指した。


「なぜ分かる」


「兄ちゃんがいる方だけ、冷たい」


宗一郎は迷った。


湊の感覚を使えば、さらに境界へ結ばれる。


使わなければ、同じ道を回り続ける。


「私が先に行く」


宗一郎が路地へ入った。


澪が続く。


湊も走った。


石垣の角を曲がると、颯真が立っていた。


中学校の制服。


背を向けている。


「兄ちゃん!」


湊が近づこうとする。


澪が肩を掴んだ。


「待って」


颯真がゆっくり振り返る。


右頬にえくぼはない。


顔の中央が、薄く白く塗り潰されている。


目も鼻も口もない。


胸元から赤い糸が伸びていた。


一本は山へ。


一本は町へ。


一本は湊の右腕へ。


宗一郎が湊の前へ出た。


「下がれ」


湊は宗一郎の右袖を掴んだ。


「一人で決めないで」


「止めなければ近づいてくる」


「だからって、また誰か一人で選ばないで」


顔のない颯真が一歩進む。


足音はしない。


澪が布を開き、銀の針を影へ向けた。


「これは颯真ではありません」


「分かってる!」


湊は答えた。


分かっていても、兄の制服が近づくと身体が動かなかった。


澪が針先で空中へ小さな円を描く。


顔のない影の輪郭が二つに割れた。


一方は湊たちへ近づく。


もう一方は、同じ場所で背を向けたまま立っている。


「記録の残像です」


澪が言う。


「見えている方を選ばないで」


宗一郎が石を拾い、近づく影へ投げた。


石は身体を通り抜ける。


影の胸から伸びた赤い糸だけが揺れた。


「右を見るな」


宗一郎が言う。


三人は左の石垣へ身体を寄せ、影の横を通った。


湊は目を閉じなかった。


ただ、意味を与えないようにした。


兄ではない。


兄ではない。


何度も心の中で繰り返す。


影が背後を通り過ぎた。


赤い糸の一本が湊の袖へ触れる。


右腕の黒線が一瞬だけ濃くなった。


それでも影は追ってこなかった。


路地を抜けると、山ノ宮神社の石段が見えた。


百段以上続く古い階段。


両脇の杉が、風もないのに同じ方向へ傾いている。


石段の下に、警察官が二人立っていた。


湊が声をかけようとする。


宗一郎が止めた。


警察官は同じ動きを繰り返していた。


一人が腕時計を見る。


もう一人が証拠袋を持ち上げる。


二人で同じ言葉を話す。


また最初の姿勢へ戻る。


「十一時十三分の残りだ」


宗一郎が言う。


「今も続いてるの?」


「ここでは終わっていない」


三人は警察官の間を通った。


二人は気づかない。


石段を上る。


十段目で、父の声が聞こえた。


「湊!」


湊は振り返った。


下の石段に直哉が立っている。


右手から血を流していた。


「父さん!」


駆け下りようとする。


一段下りる。


直哉との距離が二十段分遠くなる。


「来るな!」


父が叫ぶ。


「俺はそっちへ行けない。颯真は上だ!」


「なぜ帰らなかった!」


宗一郎が石段の端へ立つ。


「十一時十三分からだ。石段を下りても鳥居へ戻された。十三分ごとに道が閉じた。工具箱が鳴ってから、颯真まで見えた」


「時計は」


「工具箱の中だ。開けてない」


「そのままにしろ」


「分かってる!」


直哉の背後で、同じ警察官が同じ証拠袋を拾い上げる。


直哉の姿が薄くなる。


「颯真へ伝えろ!」


声が遠ざかる。


「俺は、あいつに死んで守れなんて一度も言ってない!」


直哉の姿が消えた。


湊は石段を見下ろしたまま動けなかった。


宗一郎が右手を差し出す。


「今は進め」


湊は祖父の手を取った。


三人で石段を上る。


四十二段目だけが、何度踏んでも終わらなかった。


数字の刻まれた石が、次にも、その次にも続く。


澪が銀の針を取り出した。


「ここで使います」


「待て」


「この先へ行かなければ、使う意味がありません」


澪は針を石段の隙間へ刺した。


高い金属音が響く。


銀の針から一本の線が伸びた。


白い光の糸。


四十二と刻まれた段を横切り、右側の杉林へ続いている。


「石段が本当の道ではありません」


澪が針を抜く。


その瞬間、彼女の身体が揺れた。


湊が支える。


「大丈夫?」


「一度目は、道を示すだけです」


澪は答えた。


けれど、針を包む指は震えていた。


「二度目は使うな」


宗一郎が言う。


澪は返事をしなかった。


三人は光の糸を追い、杉林へ入った。


木々の間に、赤い鳥居が見える。


正面からではない。


神社の裏側へ出た。


鳥居の下に、颯真が立っている。


今度は顔があった。


右頬のえくぼはない。


黒い鞘の短刀を右手に握っている。


その前に、白い布で顔の半分を覆った男がいた。


男の胸には、御厨家の紋が刺繍されている。


澪の呼吸が止まった。


「叔父さま」


男がこちらを見る。


「遅かったな、澪」


颯真も振り返った。


「湊?」


驚きの次に、怒りが浮かぶ。


「何で来た!」


湊は杉の根を越え、鳥居へ近づいた。


「兄ちゃんを止めに来た」


「帰れ!」


「帰らない」


「これはお前に関係ない!」


「僕の名前が書いてあったんでしょ!」


颯真の顔が固まった。


湊は分かった。


当たっている。


「兄ちゃんも、自分の字の紙を持ってる」


颯真は短刀を握り直した。


「俺の机に、俺の字で書かれた紙が入ってた。お前が御厨に触れた。右腕に線が出る。境界を閉じなければ、次は湊が残るって」


「それを信じたの?」


「紙を信じたんじゃない。朝、お前の指に線が出た。昨夜は、白い廊下で右腕を黒くしたお前を見た」


颯真の声が掠れる。


「誰も連れてくるな。駅前とだけ言え。最後に、今度はお前が兄になれって書いてあった」


「だから一人で来たの?」


「だったら分かるだろ。お前の線を止める」


「兄ちゃんが死んで?」


「死ぬとは書いてない」


白布の男が静かに言う。


「境界を閉じるだけだ」


宗一郎が前へ出た。


「閉じた場所に、誰を残す」


男は答えない。


「颯真。その刀を捨てろ」


「こいつが教えた。俺は三回も戻されてる。生まれた時、去年の冬、お前が覚えている俺の葬式」


颯真は白布の男を顎で示した。


「爺ちゃんは三回も勝手に俺を戻した」


颯真の声が震える。


「今度は俺に選ばせろ」


宗一郎は言葉を失った。


「兄ちゃん」


湊は金属片を掲げた。


「僕の字には、兄を止めろって書いてある」


「どっちが正しいか分からないだろ」


「分からない。だから一人で決めないで」


颯真の足元へ、直哉の血から伸びた黒い線が届いた。


線は鳥居の影へ入り、白く変わる。


鳥居の向こうへ、白い廊下が薄く重なった。


赤い非常灯。


厚いガラス。


その奥で、右腕を黒線に覆われた別の湊が立っている。


金属片が熱くなった。


『兄を止めろ。』


その下へ、新しい一行が刻まれた。


『鳥居を越えるな。』


「兄ちゃん!」


颯真の右足は、すでに鳥居の影へ入っていた。


白布の男が扇を開く。


澪が銀の針を構える。


宗一郎が颯真へ右手を伸ばす。


湊は石畳を蹴った。


鳥居の向こうで、白い廊下の扉が開く。


中から、何十本もの半透明の手が伸びた。


颯真の手首へ最初の指が絡みつく。


午後六時四十二分を告げる鐘が、境界の奥で鳴った。

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