第三話 境界へ走る
雷が落ちたあとも、空は明るかった。
雨は降らない。
窓ガラスだけが細かく震え、遅れて校舎の奥から蛍光灯の鳴る音がした。
湊は廊下に膝をついたまま、右手を開いていた。
銀色の金属片。
表には、七月三十一日と午後六時四十二分を示す数字。
裏には、湊自身の字で書かれた一行。
『兄を止めろ。』
その向こうに、左腕のない宗一郎が立っている。
息を切らしていた。
白い開襟シャツの胸元が汗で濡れ、失われた左腕の袖が肩口で揺れている。
「颯真はどこだ」
湊は窓の外を指した。
「山へ行った」
宗一郎の顔から、さらに色が消えた。
「一人で?」
「父さんが正門に来たって先生に言って、裏門から出た」
担任が湊の肩を支えたまま立ち上がる。
「お父様は神社にいると確認しています。中学校の防犯カメラにも、颯真君が一人で山へ向かう姿が残っていました」
宗一郎は目を閉じた。
怒っているようにも、何かを諦めたようにも見えた。
「やはり、あの子も見ていたか」
「何を?」
湊が訊く。
宗一郎は答えず、湊の手の中を見た。
「それを見せなさい」
湊は金属片を握り直した。
「取らない?」
「約束はできん」
「じゃあ見せない」
宗一郎の眉がわずかに動く。
以前なら、命令を繰り返したはずだった。
けれど宗一郎は、右手を下ろした。
「分かった。持ったままでいい。近くで見せろ」
湊は立ち上がり、一歩だけ近づいた。
宗一郎は金属片へ顔を寄せる。
指で触れようとはしなかった。
「時計の内蓋と同じ銀だ」
「おじいちゃんの時計の?」
「ああ。だが、直哉が持っている時計から欠けたものではない」
「どうして分かるの」
「内蓋を閉じる前に見た。縁に欠けはなかった」
宗一郎は廊下の時計を見上げた。
長針と短針は午後六時四十二分を指している。
秒針だけが動き、十二を越えても長針は進まなかった。
「時間が止まってるの?」
「止まってはいない」
宗一郎の右手が固く握られる。
「この町が、同じ時刻から出られなくなっている」
担任が二人の間へ入る。
「待ってください。黒瀬君をどこへ連れていくつもりですか」
「山ノ宮神社です」
「十一歳の子を?」
「置いていく方が危険になりました」
「何を言っているんです」
担任の声が強くなる。
「お父様からは、迎えが来るまで校外へ出さないよう頼まれています。警察にも連絡します」
「してください」
宗一郎は即答した。
「黒瀬佳乃にも連絡を。市立病院にいるはずです」
担任は宗一郎を見つめた。
「病院から、あなたが迎えに向かうと電話がありました」
「私は病院へも学校へも連絡していない」
廊下が静かになった。
「学校へ来ると決めたのは、いつですか」
「二十分ほど前です」
「電話は一時間近く前です」
宗一郎の右手が固く握られた。
「電話の主は、私より先に私の行動を知っていた」
担任の顔が強張る。
湊は白い廊下のガラスへ手を当てた、もう一人の自分を思い出した。
未来とは限らない。
まだ起きていないことを知っている者が、未来にいるとも限らない。
廊下の電話が鳴った。
担任が受話器を取る。
「はい、黒瀬湊の担任です」
雑音が漏れた。
ざあ。
その奥で、父の声がした。
『宗一郎は、そこにいるか』
担任が宗一郎を見る。
「黒瀬さんです。お父様です」
宗一郎が受話器を受け取った。
「直哉」
『親父、湊をそこから動かすな』
父の声は遠かった。
風の音と、何度も同じ場所で鳴る蝉の声が混じっている。
「颯真が山へ向かった」
『見えている』
湊は受話器へ近づいた。
「父さん、兄ちゃんがいるの?」
『湊?』
一瞬だけ、声がはっきりした。
『来るな。ここは同じ道が戻ってくる。石段を下りても、また上にいる』
「父さんはどこ?」
『神社だ。ずっと神社にいる』
その言葉の直後、同じ声がもう一度流れた。
『神社だ。ずっと神社にいる』
呼吸の位置まで同じだった。
受話器の向こうで時間が反復している。
宗一郎が低く訊く。
「颯真へ近づけるか」
『近づけない。あいつは鳥居の前にいる。呼んでも振り向かない。俺と同じ場所にいるはずなのに――』
雑音が大きくなる。
『親父、時計は俺の工具箱の中だ。今度こそ使うな』
通話が切れた。
宗一郎は受話器を見つめた。
湊は、失われた左袖を見た。
祖父の腕が消えた瞬間を思い出す。
「時計を使わないで」
宗一郎が湊を見る。
「颯真を止められなければ、必要になるかもしれん」
「今度は、別のものがなくなるんでしょ」
宗一郎の左袖が、空調の風で揺れた。
「ああ」
否定しなかった。
担任が言う。
「だからこそ、黒瀬君はここに残します」
湊も、そうするべきだと思った。
父は来るなと言った。
先生は守ろうとしている。
宗一郎も、本当は一人で行きたいはずだった。
そのとき、右手首が冷たくなった。
袖の下で、細い黒線が浮かぶ。
指先から手首へ伸び、さらに肘の方角へ一筋だけ進んだ。
金属片が熱を持つ。
『兄を止めろ。』
文字の下に、新しい傷が現れた。
西を指す矢印のような傷。
同時に、廊下の壁へ白い影が重なった。
太い配管。
赤い非常灯。
ほんの一秒だけ、学校の廊下が白い廊下へ変わる。
湊が瞬きをすると元へ戻った。
担任は気づいていない。
宗一郎だけが、湊の右腕を見ていた。
「もう結ばれている」
「何が?」
「お前と颯真だ」
宗一郎は担任へ向き直った。
「ここに置いても、境界がこの子を追う。私の目の届かない場所に残す方が危険です」
「そんな説明だけで、保護者の指示を変えることはできません」
担任は職員室へ戻り、市立病院へ電話をかけた。
数分後、佳乃の声が受話器から聞こえた。
『湊の腕に、黒い線が出ているんですね』
「肘へ向かっている」
宗一郎が答える。
佳乃はしばらく黙った。
『学校に残しても、線は進むんですね』
「進む」
『神社へ向かえば、止められる可能性がある』
「ある。だが、保証はない」
受話器の向こうで、佳乃が息を吸う音がした。
『……なら、湊から一秒も離れないでください』
「分かっている」
『分かっていないから言っています。時計の内側は、何があっても開けないで』
「ああ」
『先生、危険な方へ行かせたいわけではありません。ここに置く方が危険だと判断します。母親として許可します。私も病院を出て、警察へ連絡しながら向かいます』
担任は受話器を置いた。
指が小さく震え、受話器が台へ一度ぶつかった。
「警察が来るまで待つべきです」と言いかけ、湊の袖に浮く黒線を見て言葉を止める。
「黒瀬君」
「勝手にいなくならない。先生が見たことも、電話の時間も、全部書いておいてください」
担任は言葉を失った。
午後一時十三分の放送を黒板へ記録した人だった。
見たものを、なかったことにしなかった人だった。
「必ず戻ると約束できますか」
湊は答えられなかった。
代わりに宗一郎が言う。
「私が連れて戻ります」
「時間を戻すという意味ではありませんね」
担任は宗一郎の失われた左袖を見ていた。
宗一郎は少しだけ驚き、やがて頷いた。
「その意味ではありません」
担任は職員室から大学ノートを一冊持ってきた。
一ページ目へ時刻と出来事を書き、湊へ見せる。
午後六時四十二分。
黒瀬宗一郎が黒瀬湊を伴い、山ノ宮神社へ向かった。
市立病院を名乗る電話について、病院は発信を否定。
黒瀬直哉との通話中、同一音声の反復を確認。
「戻ったら、続きを書きます」
担任はペンを置いた。
「絶対に、私に続きを書かせてください」
湊は頷いた。
◇
校門を出ても、時計は午後六時四十二分だった。
道路を走る車も、蝉も、人の足も動いている。
時間が止まったようには見えない。
それなのに、駅前の電光時計も、薬局の時計も、通行人の腕時計も、すべて同じ分を示していた。
秒は進む。
分だけが終わらない。
宗一郎は歩くのではなく、走り始めた。
湊も後を追う。
ランドセルが背中で跳ねた。
「白い廊下にいたおじいちゃんは、何なの」
息を切らしながら訊く。
「今ここにいる私ではない」
「でも、おじいちゃんだった」
「時計を開くたび、選ばれなかった私も残った」
宗一郎は前を向いたまま答える。
「両腕のある私。颯真を救えなかった私。別の代償を払った私。向こうでは順番に意味がない」
「背中を刺されてた」
宗一郎の足が一瞬だけ乱れた。
「見たのか」
「透明な刃が刺さってた」
「確定した未来ではない。起こり得たか、すでに捨てられた時間だ」
「だから見るなって言ったの?」
「見るだけなら、まだ戻れる」
商店街の角を曲がる。
「じゃあ、何をしたら戻れなくなるの」
「見たものを信じ、それを理由に選んだときだ」
「別の僕は、忘れるなって言った」
「見れば傷が残る。忘れれば同じ失敗を繰り返す」
湊はポケットの金属片を握った。
「おじいちゃんは、どっちを選んだの」
宗一郎は答えなかった。
それが答えだった。
商店街へ入ると、同じ店員が二つの店先に立っていた。
一人は魚を並べ、一人は閉店の札を裏返している。
どちらも同じ顔をしている。
湊が振り返ると、片方は消えていた。
八百屋の前では、転がったトマトが籠へ戻り、また同じ場所から落ちた。
誰も気づかない。
宗一郎は速度を落とさなかった。
「午前九時十三分に、教室が一分戻った」
湊が言う。
「十一時十三分には、病院の時計が戻ったらしい」
「どうして知ってるの」
「佳乃から聞いた」
「午後一時十三分には、放送から僕の名前が聞こえた」
宗一郎の表情が変わる。
「二時間ごとだ」
「何が?」
「境界が呼吸していた」
宗一郎は商店街の時計台を見る。
針は六時四十二分のまま。
「十三分に短く開き、閉じる。そのたびに違う場所へ履歴が漏れた」
「今は?」
「全部が一つへ集まっている」
西の空で、二度目の雷が光った。
音はしなかった。
西の山の上で、赤い鳥居が一瞬だけ二重に見えた。
◇
川沿いの橋に、澪が立っていた。
黒い中学校の制服。
肩には鞄。
銀色の髪留めは外され、白い布に包まれて右手に握られている。
宗一郎が足を止めた。
「なぜここにいる」
「学校へ行きました」
澪は答える。
「颯真が裏門から出たと聞き、追いました」
「一人で帰れ」
「帰りません」
「沙夜子に言われたのか」
「祖母さまは、ここから見えるものしか見えないと言いました」
澪は布を開く。
銀色の留め具が、細い針のように伸びていた。
「だから私は、自分で見に来ました」
宗一郎は針を見て顔をしかめる。
「境界針を子どもに持たせたのか」
「髪留めとして持たされていました。使い方を教えられたのは今日です」
「何ができる」
「本当に続いている道を、一度だけ示せます」
「一度だけ?」
「二度目は、私の記憶を縫います」
湊には意味が分からなかった。
宗一郎には分かったらしい。
「使うな」
「必要なら使います」
二人の声は、同じくらい頑固だった。
湊は金属片を取り出した。
『兄を止めろ。』
文字は変わっていない。
「僕の字でも、僕が書いたとは限らない」
湊は宗一郎と澪を見た。
「おじいちゃんの時計も、御厨の記録も、全部が正しいとは限らない。でも、兄ちゃんを一人で選ばせるのは違う」
宗一郎は川面を見た。
水は流れている。
同じ木の葉が、三度橋の下を通った。
「今ここにいる三人と、先にいる兄ちゃんで決めよう」
澪が静かに頷いた。
宗一郎だけが答えなかった。
「颯真を戻したのは、何回?」
湊は訊いた。
宗一郎の右手が固くなる。
「出生時を含めて、三度だ」
「生まれたときも?」
「呼吸をしなかった」
宗一郎の声は平らだった。
「次は、去年の冬。最後が、お前の覚えている葬式だ」
湊は橋の欄干を掴んだ。
湊の知らないところで、兄は二度も救い直されていた。
湊が覚えている葬式まで含めれば、宗一郎は三度、颯真の時間を選び直している。
「それでも、また山へ行った」
「だから今度は戻さない」
宗一郎が言う。
湊は顔を上げた。
「戻さずに、連れ帰る」
宗一郎は、固く握っていた右手を開いた。
「四人で行く。ただし、誰も勝手に鳥居を越えるな」
澪が頷く。
湊も頷いた。
三人は橋を渡った。
◇
山へ続く坂道は、同じ場所を何度も通った。
赤い郵便受けの家。
割れた植木鉢。
片目の白い猫。
三つを通り過ぎる。
角を曲がる。
また同じ家と植木鉢と猫がある。
「戻った?」
湊が立ち止まる。
「道が重なっている」
澪が銀の針を地面へ向けた。
針先が二つの方向へ揺れる。
山へ続く上り坂。
町へ戻る下り坂。
どちらも西を指していた。
「まだ使うな」
宗一郎が言う。
「一度しか使えないんでしょ」
澪は頷き、針を布へ戻した。
湊の右腕が冷たくなる。
黒線が肘の手前まで浮かんだ。
一本だけ、右側の細い路地へ向かって脈打っている。
「こっち」
湊は路地を指した。
「なぜ分かる」
「兄ちゃんがいる方だけ、冷たい」
宗一郎は迷った。
湊の感覚を使えば、さらに境界へ結ばれる。
使わなければ、同じ道を回り続ける。
「私が先に行く」
宗一郎が路地へ入った。
澪が続く。
湊も走った。
石垣の角を曲がると、颯真が立っていた。
中学校の制服。
背を向けている。
「兄ちゃん!」
湊が近づこうとする。
澪が肩を掴んだ。
「待って」
颯真がゆっくり振り返る。
右頬にえくぼはない。
顔の中央が、薄く白く塗り潰されている。
目も鼻も口もない。
胸元から赤い糸が伸びていた。
一本は山へ。
一本は町へ。
一本は湊の右腕へ。
宗一郎が湊の前へ出た。
「下がれ」
湊は宗一郎の右袖を掴んだ。
「一人で決めないで」
「止めなければ近づいてくる」
「だからって、また誰か一人で選ばないで」
顔のない颯真が一歩進む。
足音はしない。
澪が布を開き、銀の針を影へ向けた。
「これは颯真ではありません」
「分かってる!」
湊は答えた。
分かっていても、兄の制服が近づくと身体が動かなかった。
澪が針先で空中へ小さな円を描く。
顔のない影の輪郭が二つに割れた。
一方は湊たちへ近づく。
もう一方は、同じ場所で背を向けたまま立っている。
「記録の残像です」
澪が言う。
「見えている方を選ばないで」
宗一郎が石を拾い、近づく影へ投げた。
石は身体を通り抜ける。
影の胸から伸びた赤い糸だけが揺れた。
「右を見るな」
宗一郎が言う。
三人は左の石垣へ身体を寄せ、影の横を通った。
湊は目を閉じなかった。
ただ、意味を与えないようにした。
兄ではない。
兄ではない。
何度も心の中で繰り返す。
影が背後を通り過ぎた。
赤い糸の一本が湊の袖へ触れる。
右腕の黒線が一瞬だけ濃くなった。
それでも影は追ってこなかった。
路地を抜けると、山ノ宮神社の石段が見えた。
百段以上続く古い階段。
両脇の杉が、風もないのに同じ方向へ傾いている。
石段の下に、警察官が二人立っていた。
湊が声をかけようとする。
宗一郎が止めた。
警察官は同じ動きを繰り返していた。
一人が腕時計を見る。
もう一人が証拠袋を持ち上げる。
二人で同じ言葉を話す。
また最初の姿勢へ戻る。
「十一時十三分の残りだ」
宗一郎が言う。
「今も続いてるの?」
「ここでは終わっていない」
三人は警察官の間を通った。
二人は気づかない。
石段を上る。
十段目で、父の声が聞こえた。
「湊!」
湊は振り返った。
下の石段に直哉が立っている。
右手から血を流していた。
「父さん!」
駆け下りようとする。
一段下りる。
直哉との距離が二十段分遠くなる。
「来るな!」
父が叫ぶ。
「俺はそっちへ行けない。颯真は上だ!」
「なぜ帰らなかった!」
宗一郎が石段の端へ立つ。
「十一時十三分からだ。石段を下りても鳥居へ戻された。十三分ごとに道が閉じた。工具箱が鳴ってから、颯真まで見えた」
「時計は」
「工具箱の中だ。開けてない」
「そのままにしろ」
「分かってる!」
直哉の背後で、同じ警察官が同じ証拠袋を拾い上げる。
直哉の姿が薄くなる。
「颯真へ伝えろ!」
声が遠ざかる。
「俺は、あいつに死んで守れなんて一度も言ってない!」
直哉の姿が消えた。
湊は石段を見下ろしたまま動けなかった。
宗一郎が右手を差し出す。
「今は進め」
湊は祖父の手を取った。
三人で石段を上る。
四十二段目だけが、何度踏んでも終わらなかった。
数字の刻まれた石が、次にも、その次にも続く。
澪が銀の針を取り出した。
「ここで使います」
「待て」
「この先へ行かなければ、使う意味がありません」
澪は針を石段の隙間へ刺した。
高い金属音が響く。
銀の針から一本の線が伸びた。
白い光の糸。
四十二と刻まれた段を横切り、右側の杉林へ続いている。
「石段が本当の道ではありません」
澪が針を抜く。
その瞬間、彼女の身体が揺れた。
湊が支える。
「大丈夫?」
「一度目は、道を示すだけです」
澪は答えた。
けれど、針を包む指は震えていた。
「二度目は使うな」
宗一郎が言う。
澪は返事をしなかった。
三人は光の糸を追い、杉林へ入った。
木々の間に、赤い鳥居が見える。
正面からではない。
神社の裏側へ出た。
鳥居の下に、颯真が立っている。
今度は顔があった。
右頬のえくぼはない。
黒い鞘の短刀を右手に握っている。
その前に、白い布で顔の半分を覆った男がいた。
男の胸には、御厨家の紋が刺繍されている。
澪の呼吸が止まった。
「叔父さま」
男がこちらを見る。
「遅かったな、澪」
颯真も振り返った。
「湊?」
驚きの次に、怒りが浮かぶ。
「何で来た!」
湊は杉の根を越え、鳥居へ近づいた。
「兄ちゃんを止めに来た」
「帰れ!」
「帰らない」
「これはお前に関係ない!」
「僕の名前が書いてあったんでしょ!」
颯真の顔が固まった。
湊は分かった。
当たっている。
「兄ちゃんも、自分の字の紙を持ってる」
颯真は短刀を握り直した。
「俺の机に、俺の字で書かれた紙が入ってた。お前が御厨に触れた。右腕に線が出る。境界を閉じなければ、次は湊が残るって」
「それを信じたの?」
「紙を信じたんじゃない。朝、お前の指に線が出た。昨夜は、白い廊下で右腕を黒くしたお前を見た」
颯真の声が掠れる。
「誰も連れてくるな。駅前とだけ言え。最後に、今度はお前が兄になれって書いてあった」
「だから一人で来たの?」
「だったら分かるだろ。お前の線を止める」
「兄ちゃんが死んで?」
「死ぬとは書いてない」
白布の男が静かに言う。
「境界を閉じるだけだ」
宗一郎が前へ出た。
「閉じた場所に、誰を残す」
男は答えない。
「颯真。その刀を捨てろ」
「こいつが教えた。俺は三回も戻されてる。生まれた時、去年の冬、お前が覚えている俺の葬式」
颯真は白布の男を顎で示した。
「爺ちゃんは三回も勝手に俺を戻した」
颯真の声が震える。
「今度は俺に選ばせろ」
宗一郎は言葉を失った。
「兄ちゃん」
湊は金属片を掲げた。
「僕の字には、兄を止めろって書いてある」
「どっちが正しいか分からないだろ」
「分からない。だから一人で決めないで」
颯真の足元へ、直哉の血から伸びた黒い線が届いた。
線は鳥居の影へ入り、白く変わる。
鳥居の向こうへ、白い廊下が薄く重なった。
赤い非常灯。
厚いガラス。
その奥で、右腕を黒線に覆われた別の湊が立っている。
金属片が熱くなった。
『兄を止めろ。』
その下へ、新しい一行が刻まれた。
『鳥居を越えるな。』
「兄ちゃん!」
颯真の右足は、すでに鳥居の影へ入っていた。
白布の男が扇を開く。
澪が銀の針を構える。
宗一郎が颯真へ右手を伸ばす。
湊は石畳を蹴った。
鳥居の向こうで、白い廊下の扉が開く。
中から、何十本もの半透明の手が伸びた。
颯真の手首へ最初の指が絡みつく。
午後六時四十二分を告げる鐘が、境界の奥で鳴った。
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