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時は復讐を忘れない  作者: 23
2/40

第二話 午後六時四十二分

「黒瀬君!」


湊が振り返ると、商店街の曲がり角から担任が小走りで近づいてきた。


その隣には、颯真の中学校の教師がいる。


二人とも息を切らしていた。


「お父さんから聞いている。二人とも、こっちへ」


担任は湊の肩へ手を置いた。


それから路上に散らばった本と、御厨の少女を見た。


「何かあったの?」


「自転車を避けただけです」


颯真が先に答えた。


少女は拾い終えた本を胸に抱え、何も言わない。


銀色の髪留めだけが朝日に光っている。


湊の右手には、もう黒い線はなかった。


それでも指先の冷たさは残っていた。


「あなたは、午後六時四十二分に山へ行かないでください」


少女は湊へ言った。


担任が眉を寄せる。


「山って、山ノ宮神社のこと?」


少女は答えず、今度は颯真を見る。


「あなたは、今度こそ弟の言うことを聞いてください」


颯真の口から、ガムを噛む音が消えた。


「何の話だ」


「颯真は何も覚えていない。だから、弟にしか言えない」


「こいつに近づくな」


颯真が湊の前へ出る。


少女の指が、本の角へ強く食い込んだ。


けれど、声は変わらなかった。


「近づいているのは、私ではありません」


「兄ちゃん」


中学校の教師が颯真の肩へ触れた。


「黒瀬。今日は私と来なさい」


それから少女へ向き直る。


「御厨、お前も学校へ――」


教師は言いかけた。


御厨家からは、澪が欠席や遅刻をしても、その場で無理に登校させず、まず家へ連絡するよう、毎年同じ申し入れが届いていた。


魚屋の店主と年配の客が、同時にこちらを見ていた。


教師は奥歯を噛み、澪から視線を外さなかった。


「……担任には、こちらから連絡する」


少女は小さく頭を下げた。


湊たちの横を通り過ぎ、商店街の奥へ歩いていく。


若い八百屋の店員は段ボールを運び続けていた。


魚屋の店主は包丁を置いたまま少女の背中を見ている。


年配の客だけが、小さく舌打ちした。


「御厨に関わると、またろくなことにならない」


少女の歩調は変わらなかった。


「先生」


湊は担任を見上げた。


「御厨って、何ですか」


担任はすぐには答えなかった。


「名字よ。この町に昔からいる家のね」


「みんな、あの子を嫌ってるの?」


「学校へ着いてから話しましょう」


それ以上は、今ここでは言えないという顔だった。


小学校と中学校へ分かれる交差点まで、四人で歩いた。


別れ際、颯真が湊の肩を掴む。


「手、洗えよ」


「汚れてない」


「いいから」


颯真の視線は、少女に触れた右手へ向いていた。


「兄ちゃんは、放課後どこへ行くの」


「真っ直ぐ帰る」


「本当に?」


「先生がいる前で嘘つくかよ」


中学校の教師が無言で颯真を見る。


颯真は目を逸らした。


湊は思い出した。


「今日、夕飯は煮物だって。人参、僕が食べてあげる」


颯真が怪訝そうに眉を寄せる。


「何で」


「兄ちゃん、煮た人参嫌いだろ」


「俺、人参は普通に食うけど」


「いつも皿の端に寄せるじゃん」


「誰と間違えてんだよ」


颯真は笑った。


けれど湊は笑えなかった。


母が作った肉じゃがの中から、兄が人参だけを自分の皿へ移してきた夜を覚えている。


一度ではない。


何度もあった。


「また放課後な」


颯真は湊の頭へ手を置き、中学校へ続く坂を上っていった。


湊はその背中が見えなくなるまで立っていた。


担任に促され、小学校へ向かう。


ランドセルの内ポケットから、焦げた花の匂いがした。



教室へ入る前に、担任は湊を保健室へ連れていった。


「気分は悪くない?」


「大丈夫です」


「お父さんから、今日は様子を見てほしいと言われているの」


養護教諭が湊の右手を取った。


傷も腫れもない。


指先の温度を測っても、左手と変わらなかった。


「何に触ったの?」


「本です」


「本?」


「知らない文字が書いてありました」


担任と養護教諭が目を合わせる。


「その本は今、どこにあるの」


「御厨って子が持っていきました」


担任は少しだけ黙った。


「黒瀬君。今日は一人で校外へ出ないで。放課後も、迎えが来るまで学校にいましょう」


「兄ちゃんは?」


「中学校にも連絡してあるわ」


湊は頷いた。


右手を石鹸で洗う。


泡を流しても、冷たさは消えなかった。


一時間目の国語が始まった。


先生が物語文を読み上げている。


窓の外では蝉が鳴き、隣の席では鉛筆が紙を擦っていた。


黒板の上の時計が、午前九時十三分を指す。


秒針が十二を越えた。


先生が言う。


「少年は、振り返らずに歩きました」


窓の外で、蝉が三度鳴いた。


隣の男子が鼻をすすり、机の端から消しゴムを落とす。


秒針が一周する。


時計は九時十四分へ進まなかった。


先生が同じ行を読む。


「少年は、振り返らずに歩きました」


声の高さも、息を吸う場所も同じだった。


蝉が同じ間隔で三度鳴く。


隣の男子が同じように鼻をすすり、拾ったはずの消しゴムを同じ角度で落とした。


湊は顔を上げる。


誰も反応していない。


先生自身も、同じ一分を繰り返したことに気づいていない。


もう一度、秒針が十二を越える。


今度は長針がわずかに動いた。


九時十四分。


教室の時間は、何事もなかったように進み始めた。


湊は教科書の端へ小さく線を引いた。


今の一分を忘れないために。


休み時間になっても、教科書の端へ引いた鉛筆の線は消えずに残っていた。


担任が机へ来た。


「何を書いたの?」


「時計が一分、同じところにいました」


「止まっていたの?」


「先生も、同じところを二回読みました」


担任は黒板の時計を見た。


針は普通に動いている。


「昨夜、眠れなかった?」


「葬式があったから」


言ってから、湊は口を閉じた。


担任の顔には、何も浮かばなかった。


「葬式?」


「兄ちゃんの」


教室の音が遠くなる。


担任は湊の顔をじっと見た。


「颯真君は、今朝一緒に来たでしょう」


「先生は覚えてないんですか」


「何を?」


湊はランドセルの内ポケットを押さえた。


ハンカチに包んだ菊の花弁が入っている。


「何でもないです」


担任はすぐには離れなかった。


「つらい夢を見たときは、夢だと分かっていても怖さが残ることがあるわ」


湊は返事をしなかった。


夢なら、どうして祖父の腕はなくなったのか。


夢なら、どうして兄は煮た人参を嫌っていないのか。



午前十時を過ぎたころ、黒瀬直哉は山ノ宮神社の石段下に立っていた。


制服姿の警察官が二人、黄色い縄の内側を調べている。


神社の管理人は、石段の脇で何度も手を擦っていた。


「朝の掃除で見つけました」


管理人が言った。


「血がついていたので、触らずに通報しました」


透明な証拠袋の中に、黒い布切れが入っている。


制服の襟元らしい。


乾いた血が、布の半分を黒く固めていた。


縫いつけられた白い名札には、はっきりと文字が残っている。


黒瀬颯真。


直哉は証拠袋から目を離さなかった。


今朝、颯真が着ていた制服に破れはなかった。


襟元も確かめている。


「息子さんのものですか」


警察官が訊いた。


直哉は工具箱の取っ手を握り直した。


中には宗一郎から取り上げた懐中時計がある。


「違います」


「名前が同じですが」


「今朝、息子の制服を確認しています。襟は破れていなかった。これは今朝の制服ではありません」


嘘ではない。


少なくとも、今朝の颯真が着ていたものではなかった。


証拠袋が石段へ近づいたとき、工具箱の内側で小さな音がした。


こん。


直哉だけが気づいた。


もう一度。


こん。


内側から、金属を叩く音。


直哉は工具箱を地面へ置かなかった。


「この血は、いつのものですか」


「鑑定しなければ分かりません。ただ、見た目ほど新しくはないかもしれない」


警察官は石段の上を見た。


「ほかに争った跡も、負傷者も見つかっていません」


管理人が低い声で言う。


「昨日までは、何もなかったんです」


直哉は石段を見上げた。


二日前、湊の記憶では、この下で颯真が死んだ。


湊の話が正しければ、今の世界では、その事故は起きていない。


それでも、名前と血だけが残っている。


「持ち主の確認が必要です。息子さんにも話を――」


「まだ子どもです」


直哉は警察官の言葉を遮った。


「先に血を調べてください。息子には俺から話します」


守るために隠す。


そのやり方を、直哉は誰より嫌っていた。


宗一郎と同じことをしていると分かっていても、颯真をこの場所へ呼ぶ気にはなれなかった。


工具箱の中で、時計が三度目の音を立てた。



病院の診察室で、黒瀬佳乃は宗一郎の空になった左袖を見ていた。


医師は古い画像と、今撮ったばかりの画像を画面へ並べている。


「傷口に新しい炎症はありません」


「新しくない?」


佳乃が訊き返す。


「切断面は完全に治癒しています。少なくとも十年以上は経過している状態です」


宗一郎は椅子に座ったまま、何も言わない。


佳乃は鞄からスマートフォンを出した。


「診療記録を見せてください」


「ご本人の同意が必要ですが」


「見せろ」


宗一郎が短く言った。


医師は端末を操作した。


画面に、過去の受診歴が並ぶ。


左上腕切断。


工場設備による事故。


湊が生まれるより前の日付。


その後も年に一度、状態確認のため通院した記録がある。


「私、この病院へ一緒に来ていますか」


佳乃の質問に、医師は記録を確認した。


「何度か付き添いとして、お名前があります」


画面には佳乃の署名が保存されていた。


自分の字だった。


佳乃は画面を写真に撮った。


「覚えていないのか」


宗一郎が訊く。


「腕が昔からなかったことは覚えています」


佳乃は画面から目を離さなかった。


「でも、事故の日が思い出せない。病院へ来た日も、何を話したのかも」


思い出そうとすると、白い壁と消毒液の匂いだけが浮かぶ。


椅子が一列に並んでいた気はする。


けれど、誰と来たのかも、何を待っていたのかも出てこない。


「記録があるから、起きたことになるの?」


佳乃は宗一郎を見た。


「それとも、起きたことになったから記録ができたの?」


宗一郎は右手で左肩を押さえた。


そこに腕があることを確かめるような動作だった。


「記録は、残った方へ寄る」


「残った方って何ですか」


「今ここにある方だ」


「じゃあ、なくなった方は?」


宗一郎は答えなかった。


佳乃はスマートフォンを握ったまま立ち上がる。


「家へ帰ったら、全部説明してください」


「子どもには話すな」


「もう子どもたちの方が、私より多く見ています」


佳乃の声は大きくなかった。


宗一郎は初めて、佳乃の顔を正面から見た。


「だから話すなと言っている」


「守ることと、何も知らせないことは同じじゃありません」


診察室の時計が、午前十一時十三分を指した。


秒針が一度だけ逆へ戻った。


佳乃は見逃さなかった。



御厨澪は学校へ行かず、町の西側にある屋敷へ戻った。


古い塀に囲まれた御厨家には、表札がない。


玄関から母屋へ続く廊下は、夏でも冷えていた。


澪は商店街で落とした本を、座敷の前へ置く。


湊が触れた角から、薄い霜が広がっていた。


黒い線が一本、表紙の模様へ沿って伸びている。


「祖母さま」


障子の向こうに、人影が座っていた。


庭の光が動いても、影の濃さは変わらない。


障子と畳の隙間から、白い霧が細く漏れている。


「黒瀬の子に会いました」


扇子が閉じる音がした。


「どちらの子」


「弟です」


「触れたのね」


「事故です」


「触れたことに変わりはないわ」


澪は本の角へ視線を落とした。


颯真に言われた「近づくな」が、まだ耳に残っている。


「黒い線が出ました。彼の指だけ、人の体温ではなかった」


「何を見たの」


「何も。時間が抜けているように感じただけです」


「見たことと、考えたことは分けなさい」


「分けています」


答えは強くなった。


澪は息を整える。


「私は彼に、『今回は弟の方』と言いました。御厨の記録では、最初に線が出るのは長男だったからです」


「記録も、残った履歴へ寄ることがある」


「では、記録は信用できないのですか」


「信用することと、従うことは違うわ」


沙夜子の影が、障子の向こうでわずかに揺れた。


「私は、この窓から見えるものしか見えない。黒瀬の家で何が選ばれたかは分からない」


澪は座敷の柱時計を見る。


秒針は動いている。


長針と短針だけが、午後六時四十二分から進まない。


「その時刻に、学校と神社の近くで境界が薄くなる」


「黒瀬の長男は?」


「山へ向かうと書かれている」


「見えたのではなく?」


「書かれているだけ」


澪は唇を噛んだ。


記録が違っていたなら、朝の警告も違っていたかもしれない。


「颯真に、山へ行くなと直接言わなかったのは、警告すれば確かめに行くと思ったからです」


「弟なら止める?」


「少なくとも、見なかったことにはしません」


澪は髪から銀色の留め具を外し、布へ包んで鞄に入れた。


「学校へ行きます」


「黒瀬を助けるため?」


「御厨の記録が正しいのか、自分で確かめるためです」


障子の向こうから、返事はなかった。



午後の授業が始まる前、校内放送へ雑音が混じった。


ざあ、と雨に似た音が教室へ流れる。


『児童のみなさんは、午後も――』


放送委員の声が低く歪んだ。


教室の子どもたちが顔を上げる。


今回は、全員に聞こえていた。


雑音の奥で、誰かが言う。


みなと。


湊は椅子から立ち上がりかけた。


『失礼しました。機器の不具合です』


普通の声へ戻る。


周囲は笑い始めた。


「幽霊じゃね?」


「放送委員がふざけたんだよ」


担任だけは笑わなかった。


教室の電話を取り、放送室へ確認を入れる。


「今の音声、録音は残っていますか」


返事を聞きながら、黒板の隅へ時刻を書いた。


午後一時十三分。


湊はランドセルの中で、菊の花弁が熱を持つのを感じた。


担任が湊の机へ来た。


「お父さんから連絡があったわ。迎えが遅れるそうです」


「兄ちゃんは?」


「中学校では、担任の先生と一緒にいると聞いている」


「駅前には行ってない?」


「行っていないはずよ」


はず。


その言葉が胸へ残った。



午後五時半を過ぎても、父は来なかった。


母は宗一郎を連れて病院にいる。


担任は職員室で父と何度か電話をしたが、話すたびに表情が険しくなった。


湊は図書室で待たされた。


窓から中学校の校舎が見える。


部活動の声が少しずつ減り、校庭から人が消えていく。


午後六時二十分を過ぎたころ、担任が図書室へ来た。


「市立病院の職員を名乗る人から電話があったの。おじいさんが迎えに向かうって」


「病院にいるんじゃないんですか」


「念のため、こちらから病院へ確認しているところよ」


湊は窓へ近づいた。


中学校の校舎裏から、一人の生徒が現れた。


遠すぎて顔は見えない。


制服を着た背の高い男子。


裏門から続く細い道を抜け、山へ続く道へ曲がった。


「兄ちゃん」


「見えるの?」


担任が隣へ来る。


もう道には誰もいなかった。


「今、兄ちゃんが山の方へ」


「中学校へ確認するわ」


担任は職員室へ戻った。


湊は時計を見る。


午後六時三十一分。


あと十一分。


御厨の少女の言葉が蘇る。


午後六時四十二分には、山にいないでください。


湊は図書室を出た。


廊下の先で、担任が電話をしている。


「市立病院から、そのような連絡はしていない……?」


担任の顔色が変わった。


受話器を替え、中学校へつなぐ。


「はい。黒瀬颯真君が、『父親から正門に着いたと連絡があった』と言ったため――」


相手の説明を聞き、担任の声が止まる。


中学校の教師は、颯真に教室で待つよう命じてから、正門を確認しに行った。


そこには誰もおらず、戻ったときには颯真も消えていた。


裏門の防犯カメラには、一人で山の方角へ歩いていく姿が残っていたという。


湊の父は、まだ山ノ宮神社にいる。


「兄ちゃんが、嘘をついたの?」


湊が訊く。


担任は受話器を持ったまま、答えられなかった。


スピーカーから、砂嵐のような音が流れた。


ざあ。


廊下の蛍光灯が一度だけ瞬く。


廊下の時計は、午後六時四十一分。


秒針が十二へ近づく。


担任が湊の肩を掴んだ。


「職員室へ戻りましょう」


秒針が十二を越えた。


午後六時四十二分。


町の音が消えた。


蝉も、車も、担任の呼吸も聞こえない。


廊下はそのまま存在している。


壁も、窓も、床も消えてはいない。


その上へ、別の廊下が薄く重なった。


白い壁。


低い天井。


太い配管。


赤い非常灯が、遠くで点滅している。


物理的な場所へ移動したのか、別の景色を見ているだけなのか、湊には分からなかった。


担任の手は肩にある。


けれど、触れている感覚がない。


白い廊下の奥に、厚いガラスが見えた。


向こう側の小さな部屋に、少年が座っている。


赤いランドセル。


黒い髪。


湊と同じ顔。


向こうの湊は、右腕を黒い線に覆われていた。


少年が椅子から立ち、ガラスへ手を当てる。


口が動いた。


忘れるな。


声は聞こえない。


湊が一歩近づく。


白い廊下の反対側から、金属を擦る音がした。


宗一郎が歩いてくる。


現実の祖父には左腕がない。


白い廊下の宗一郎には、左腕があった。


「おじいちゃん」


宗一郎が顔を上げる。


安堵ではなく、恐怖が浮かんだ。


「なぜ、お前が見えている」


「兄ちゃんが山へ行った」


「声を出すな」


「兄ちゃんが、父さんが来たって嘘をついた」


宗一郎は懐中時計を握っていた。


両方の針が午後六時四十二分で止まっている。


「目を閉じろ」


「でも」


「見るほど、残る」


葬式の棺の前で言われた言葉が蘇る。


見るな。


そういう意味ではない。


ガラスの向こうの湊が、何度も首を振った。


目を閉じるな、と言っているように見える。


宗一郎は、閉じろと言う。


どちらを信じればいいのか分からない。


ガラスの向こうの湊が、口を大きく動かした。


忘れるな。


赤い非常灯が消えた。


七秒間だけ、完全な暗闇になった。


一秒目。


担任の手の感触が戻る。


二秒目。


ランドセルの中で花弁が焼ける匂いがする。


三秒目。


宗一郎の時計が一度だけ鳴る。


四秒目。


遠くで颯真が湊の名を呼ぶ。


五秒目。


右手の中へ、冷たいものが押し込まれる。


六秒目。


ガラスを叩く音が一度だけ響く。


七秒目。


世界の音が戻った。


湊は学校の廊下に膝をついていた。


担任が肩を支えている。


「黒瀬君!」


電話の受話器が床へ落ち、揺れていた。


時計は午後六時四十二分。


秒針は普通に進んでいる。


「今の、見えましたか」


「停電しただけよ。七秒くらい」


担任は青ざめていたが、白い廊下については何も言わなかった。


湊は右手を開く。


銀色の金属片が握られていた。


名札ほどの大きさで、端が黒く焦げている。


表には数字が刻まれていた。


0731 18:42


裏返す。


黒い文字が一行だけ書かれている。


丸みのある、子どもの字。


湊はその字を知っていた。


自分の字だった。


『兄を止めろ。』


職員室の方から、足音が近づく。


担任が廊下を見る。


左腕のない宗一郎が、息を切らして立っていた。


湊の手の中の金属片を見た瞬間、祖父の顔から色が消えた。


「颯真はどこだ」


湊は山の方角を見た。


窓の外で、晴れていた空に最初の雷が落ちた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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