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時は復讐を忘れない  作者: 23
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第一話 死んだことのない兄

線香の匂いが、鼻の奥にまとわりついていた。


十一歳の黒瀬湊は、その甘い匂いが嫌いだった。


息を吸うたび、胸の奥に重いものが溜まっていく。


吐き出そうとしても、喉の途中で固まって動かない。


座敷の正面には、白い菊が隙間なく並べられていた。


花の中央に、兄の写真が置かれている。


黒瀬颯真。


中学三年生。


制服の第一ボタンを外し、少しだけ顎を上げて笑っている。


右頬にだけできるえくぼも、寝癖を無理に水で押さえた跡も、湊の知っている兄そのものだった。


写真の下には、黒い棺が置かれている。


その中でも、兄は同じ顔をしていた。


ただ、笑っていなかった。


頬から色が消え、唇は薄く閉じられている。


額へかかった髪を母が何度直しても、颯真は嫌そうに眉を寄せなかった。


もう二度と、動かない顔だった。


「颯真……」


母は何度も兄の名を呼んでいた。


返事を待っているような呼び方だった。


母の前には、白い湯飲みが三つ置かれている。


どれも畳の縁に沿い、定規を当てたように一直線に並んでいた。


母は泣きながら、ときどき湯飲みの位置を直した。


一つを右へ。


隣を少しだけ前へ。


揃ったのを確認すると、また棺へ手を伸ばす。


父は泣かなかった。


遺影の正面に座り、背筋を伸ばしたまま動かない。


膝の上で組んだ指だけが、白くなるほど強く絡み合っていた。


知らない親戚たちのすすり泣きが、座敷のあちこちから聞こえる。


颯真は二日前の夕方、山ノ宮神社の石段下で倒れているところを見つかった。


警察は、足を滑らせた事故だと言った。


けれど、頭にも骨にも命を奪うような傷はなかった。


病院が告げたのは心停止だったが、心臓そのものに原因となる異常は見つからなかった。


首筋から鎖骨へ、黒い筋だけが残っていた。


制服の襟で半分隠されても、湊には見えた。


誰も、その線について話そうとしなかった。


その中で、祖父だけが颯真を見ていなかった。


黒瀬宗一郎は、窓際に立っていた。


右手には、古びた銀色の懐中時計がある。


黒い礼服の左袖から出た手には、小指がなかった。


湊は以前から、そのことを知っていたはずだった。


けれど、いつなくなったのか思い出せない。


宗一郎は時計の外蓋を開いた。


白い文字盤と、細い二本の針が現れる。


針は午後六時四十二分で止まっていた。


祖父は文字盤と、窓の向こうの山を交互に見た。


町を囲む低い山。


その中腹にある、山ノ宮神社の赤い鳥居。


鳥居は遠すぎて、ここからでは人がいるかどうかも分からない。


それでも宗一郎は、誰かを待っているように山を見ていた。


カチリ。


外蓋が閉じる。


「……また、間に合わなかった」


小さな声だった。


周囲の泣き声に紛れてしまうほどの声だったが、湊には聞こえた。


また。


その言葉が、胸の奥へ引っかかった。


「おじいちゃん」


宗一郎は振り返らない。


「またって、何?」


返事はなかった。


湊は棺へ近づいた。


「兄ちゃん」


颯真の頬へ触れようと手を伸ばす。


宗一郎は湊の腕を掴み、棺との間へ身体を滑り込ませた。


「見るな」


「兄ちゃんの顔、もう見たよ」


「そういう意味ではない」


掴む力が強くなる。


「痛いよ」


宗一郎の手が震えていた。


祖父が震えているところなど、一度も見たことがなかった。


「どうして兄ちゃん、死んだの」


宗一郎は答えなかった。


「転んだだけで、心臓が止まるの?」


母の嗚咽が、一瞬だけ途切れた。


父の指にも、さらに力が入った。


「首の黒い線は何?」


誰も答えない。


「誰かが兄ちゃんに何かしたの?」


今度は、座敷全体が静かになった。


父が初めて顔を上げた。


湊ではなく、宗一郎を見ている。


宗一郎は山ノ宮神社から目を離さなかった。


「次は失敗しない」


「次って何?」


「今度こそ、間に合わせる」


宗一郎は湊の腕を放した。


右手の時計を持ち上げ、再び外蓋を開く。


父が立ち上がった。


「親父」


低い声だった。


宗一郎の親指が竜頭を押し込む。


文字盤の縁から、小さな金属音がした。


父の顔色が変わった。


「そこを開くな」


宗一郎は文字盤の脇へ爪をかけた。


白い文字盤そのものが、薄い内蓋のように持ち上がる。


その下で、黒い歯車がゆっくり動いていた。


母が棺の上から顔を上げる。


「何をするの」


「一度だけだ」


宗一郎は誰の顔も見なかった。


「今度で最後にする」


父が時計へ手を伸ばす。


間に合わなかった。


内蓋が開いた。


座敷が大きく揺れた。


地震だと思った。


けれど、花瓶は倒れない。


湯飲みの水もこぼれない。


揺れているのは、部屋ではなかった。


母の姿が二つに重なった。


一人は棺へ縋りついて泣いている。


もう一人は、朝の光が差す食卓で白い皿を並べている。


礼服を着た父の向こうに、新聞を広げた父が透けて見えた。


祭壇の背後に、髪の毛ほど細い白い隙間が開く。


奥は見えない。


ただ、向こう側から冷たい空気が流れ込んだ。


遺影の颯真が笑った。


棺の颯真は目を閉じたままだ。


その二つの顔の間に、制服姿の兄が一瞬だけ立っていた。


「湊」


口が動いたが、声は聞こえなかった。


時計の針が逆方向へ走り始める。


カチ、カチ、カチ、カチ。


線香の煙が香炉へ吸い込まれ、白い菊の花弁が閉じていく。


それでも、一枚だけ畳に残った。


宗一郎の左腕に、細い黒線が浮かび上がる。


指先から手首へ。


手首から肘へ。


黒線が肩へ届くと、宗一郎の身体が大きく傾いた。


父が左腕を掴む。


「閉じろ!」


宗一郎は右手を内蓋へ伸ばした。


父の手が不意に沈んだ。


掴んでいたはずの腕が消え、黒い袖だけが肩口から落ちた。


宗一郎は声を上げなかった。


歯を食いしばり、残った右手で内蓋を閉じた。


その瞬間、棺の中で颯真の目が開いた。


湊を見た。


右頬に、えくぼができた。


世界が白く潰れた。



「湊! 起きなさい!」


目を開けた。


見慣れた天井があった。


暗闇で光る星のシール。


壁には恐竜のカレンダー。


机の横には赤いランドセル。


窓の外で、蝉が鳴いている。


湊は布団の中で息を止めた。


線香の匂いがした。


鼻の奥だけではない。


枕元から、確かに匂っている。


右手を開く。


掌の中に、白い菊の花弁が一枚あった。


端が少しだけ茶色く変色している。


夢ではない。


そう思った瞬間、階下から声がした。


「おい、小学生!」


湊の心臓が跳ねた。


「いつまで寝てんだよ。遅刻すんぞ!」


布団を蹴り飛ばす。


階段を駆け下り、途中で足を滑らせた。


最後の二段を飛び降り、壁へ肩をぶつける。


痛みを確かめる暇もなく、リビングの扉を開けた。


兄がいた。


中学校の制服をだらしなく着崩し、ソファに座ってテレビを見ている。


第一ボタンは外れている。


髪には寝癖が残り、口ではガムを噛んでいた。


湊に気づいて振り返る。


右頬に、えくぼができた。


「おはよ、寝坊助」


「兄ちゃん!」


湊はそのまま颯真へ飛びついた。


「うわっ、何だよ!」


颯真の手からリモコンが落ちた。


湊は兄の制服を強く掴む。


温かい。


胸に耳を当てると、心臓が動いている。


洗剤と汗の混じった、いつもの兄の匂いがした。


「生きてる」


「は?」


「兄ちゃん、生きてる」


「朝から気持ち悪いな、お前」


颯真はそう言ったが、湊を押し退けなかった。


しばらくして、乱暴に頭を撫でる。


「夢でも見たか?」


湊は頷いた。


喉が詰まり、すぐには声が出なかった。


「兄ちゃんが死んだ」


「縁起でもねえな」


颯真は笑った。


そのえくぼを見た瞬間、湊の目から涙が落ちた。


「おい、本当に泣くなよ」


「だって」


「俺、死んでねえだろ」


颯真は困ったように眉を寄せ、自分の胸を拳で軽く叩いた。


「ほら。元気」


湊は兄の制服の襟へ手をかけた。


「何すんだよ」


首筋をのぞく。


葬式で見た黒い線は、どこにもなかった。


台所から母が振り返った。


「朝から何を騒いでるの?」


手には白い皿を持っている。


食卓には、茶碗と箸が一直線に並べられていた。


湊は白い皿から、父の新聞へ目を移した。


「湊が俺の葬式の夢見たんだって」


「まあ」


母は少し笑った。


「怖かったのね」


父は食卓で新聞を広げていた。


紙面の向こうに顔が隠れている。


「顔を洗ってきなさい。遅れるぞ」


声だけは、いつもと同じだった。


だが、新聞の上端がわずかに震えている。


湊は父の隣へ目を向けた。


祖父がいた。


黒いシャツ。


ブラックコーヒー。


銀色の懐中時計。


その左側には、腕がなかった。


シャツの袖が肩口から折り畳まれ、安全ピンで留められている。


母は何の違和感もない様子で、宗一郎の右側へコーヒーを置いた。


颯真も見向きもしない。


湊だけが、空になった袖を見つめていた。


「おじいちゃん」


宗一郎が顔を上げる。


「腕が、ない」


颯真がガムを噛みながら湊を見る。


「じいちゃんの腕なら、ずっとないだろ」


「違う。葬式ではあった」


宗一郎の右手が懐中時計を覆った。


父の新聞が、ゆっくり下がる。


「昨夜、あんたは両手で新聞を畳んだ」


母が父を見る。


「何を言ってるの? お義父さんの腕は、ずっと前から――」


「昨夜だったはずだ。いや、いつ見たのかは思い出せない」


父は宗一郎から目を離さなかった。


「葬式のことは知らない。それでも、あんたには両腕があった」


湊は父を見た。


父が覚えているのは、祖父の腕のことだけらしかった。


それでも、湊と同じ違和感を一つだけ失っていなかった。


「おじいちゃんが時計を開けた」


湊は言った。


「白い文字盤の下を開けた。それから兄ちゃんが生き返って、腕が消えた」


母が皿を置く。


「何の話をしてるの?」


父は颯真を呼び寄せ、制服の襟を下げた。


湊が言った黒い線はない。


「父さんまで何してんだよ」


「黙ってろ」


母が父の手を払い、颯真の襟を直した。


「二人とも、順番に説明して。颯真を怖がらせないで」


宗一郎は答えない。


父が右手を差し出した。


「時計を置け」


「必要になる」


「だから置け」


二人はしばらく見つめ合った。


宗一郎は懐中時計を食卓へ置いた。


父は布巾で包み、金属製の工具箱へ入れた。


小さな鍵をかけると、箱ごと玄関へ運んだ。


湊は掌の花弁を見せた。


「これも残ってた」


母が首を傾げる。


「庭の菊じゃないの?」


「棺の前に落ちてた」


父が花弁へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。


「素手で持つな」


母が白いハンカチを一枚出した。


湊は花弁を折らないように包み、ランドセルの内ポケットへ入れた。


宗一郎はその手元を見つめていた。


「夢は忘れなさい」


「夢じゃない」


「忘れれば、つながりは弱くなる」


父が椅子を引いた。


「この子に何を覚えさせた」


「私が選んだのではない」


「また同じことを言うのか」


颯真が二人の間へ入った。


「朝から意味分かんねえよ。湊を脅すな」


「颯真」


父が呼ぶ。


「今日は俺が送る」


「学校くらい自分で行ける」


「送る。先生にも話を通す。放課後は迎えに行くまで校外へ出るな」


「何でだよ」


父は工具箱を見た。


「学校なら先生と人目がある。時計は俺が持つ」


母の顔から笑みが消えた。


「その時計を、神社へ持っていくの?」


「家へ置けば親父が触る。今は俺が持つしかない」


父は工具箱へ一度目を落とした。


「あなたはどうするの?」


「二人を送ったあと、警察と山ノ宮神社へ行く」


父は母へ向き直った。


「お前は親父を病院へ連れていけ。腕を診てもらえ。いつ失ったことになっているのか、記録も確認してくれ」


「でも、お義父さんの腕は昔から――」


「俺と湊の記憶が間違っているとしても、診てもらうだけだ」


颯真のガムを噛む音が止まった。


父はそれを見逃さなかった。


「昨日、あそこへ行ったのか」


「行ってねえよ」


返事が早すぎた。


母が颯真を見た。


「駅前で友達と会うって、昨夜電話で話していたでしょう」


颯真が母へ鋭い目を向ける。


「車で話を聞く」


父は宗一郎へ向き直る。


「親父は支度ができるまでここにいろ。それから病院へ行け。勝手なことをするな。時計には触るな」


宗一郎は何も答えなかった。



車内で父は、昨日の行動を何度も訊いた。


颯真は学校から真っ直ぐ帰った、神社には行っていない、駅前で友達と会う約束は今日だと繰り返した。


父は信じた様子を見せなかった。


途中で父の携帯電話が一度鳴った。


画面を確認した父は眉を寄せ、「あとで折り返す」と短く告げて切った。


父の車は、商店街の入口で止まった。


商店街には搬入車が何台も停まり、車では二校へ分かれる交差点まで抜けられない。


商店街を抜けた交差点では、湊の担任と颯真の学校の教師が待っているはずだった。


父はエンジンを切った。


「ここから真っ直ぐ行け。寄り道するな」


「分かってるよ」


颯真がドアへ手をかける。


父はその手首を掴んだ。


「駅前にも、山にも行くな」


颯真が父を見る。


「何で駅前」


「お前が隠し事をするときは、先に聞き返す」


颯真は手を振りほどいた。


「俺のこと何も知らねえくせに」


車を降りる。


湊もランドセルを背負い、後を追った。


父も車を降り、工具箱を片手に二人と歩き出した。


商店街の向こう、二校へ分かれる交差点に湊の担任と、颯真の中学校の教師が立っていた。


湊の担任が「黒瀬君!」と手を上げ、父も大きく手を上げて応えた。


二人の教師は、兄弟の方へ歩き始めた。


教師たちが歩き始めたところで、父の携帯電話が再び鳴った。


さっき切った番号からだった。


山ノ宮神社の管理人から、石段下に血のついた所持品が落ちていると通報があった。


そこに黒瀬の名が記されているため、現場を片づける前に家族へ確認してほしいという。


父は近づいてくる教師たちと、二人の顔を何度も見比べた。


「湊」


「何?」


「先生に引き渡すまで、兄さんから離れるな。変なものが見えても、触る前に大人を呼べ」


父は葬式を覚えていない。


それでも湊の話を、夢だと決めつけなかった。


「うん」


「あの交差点から先生が来てる。真っ直ぐ行け」


交差点の向こうから、湊の担任が「こちらで預かります!」と声を上げた。


父はもう一度手を上げ、二人が教師の方へ歩き出すのを見届けてから車へ戻った。


教師たちは兄弟へ向かっていたが、途中で登校してきた低学年の児童と母親に呼び止められた。


車が走り去るまで、颯真は振り返らなかった。


商店街へ入る。


通りは魚屋の前で緩く折れ、数歩進むと交差点と教師の姿は店の軒に隠れた。


朝の魚屋から、氷を割る音が響いていた。


湊のランドセルの内側には、白い花弁が入っている。


「兄ちゃん」


「ん?」


「昨日、山ノ宮神社に行ったの?」


「行ってねえ」


「駅前には?」


「お前まで親父みたいなこと言うな」


「また死ぬかもしれない」


颯真の足が止まった。


笑い飛ばすと思った。


だが、兄は商店街の先を見たまま訊いた。


「その葬式で、俺はどこで死んだって聞いた?」


「山ノ宮神社の石段の下」


颯真の顎がわずかに強張った。


「首に黒い線があった。転んだのに、心臓が止まったって」


颯真はゆっくりガムを噛み始めた。


「詳しい夢だな」


「夢じゃない」


「だったら、お前が守ってくれよ」


「え?」


颯真は湊の頭を小突いた。


「また死にそうになったら」


「本当に守るよ」


「小学生の弟に守られる中三って、格好悪いけどな」


歩き出した兄の背中は、さっきより少しだけ速かった。


「おう、湊!」


魚屋の店主が大きな手を振る。


「今日も兄ちゃんと一緒か」


「おはようございます」


颯真が軽く頭を下げる。


「颯真は相変わらず背が伸びるな。もう親父を抜いたんじゃないか?」


「まだですよ」


「そのうち黒瀬家を背負う男だもんな」


颯真の笑顔が固くなった。


「別に、背負いたくないですけど」


魚屋の店主は聞こえなかったふりをして笑った。


店の奥にある古い掛け時計が、午後六時四十二分を指していた。


朝なのに。


秒針が十二を通り過ぎても、長針と短針は午後六時四十二分から動かなかった。


「時計、壊れてる」


「ずっとあの時間だよ」


「ずっと?」


「この商店街、壊れた時計ばっかだからな」


颯真が湊の肩を押した。


「行くぞ」


八百屋の前を通る。


通りの奥で、自転車のベルが二度鳴った。


店先のラジオから、午後は山沿いで雷雨になるという予報が流れていた。


空には雲一つない。


通りの向こうから、一人の少女が歩いてきた。


颯真と同じ中学校の制服。


長い黒髪を一本に結び、何冊もの本を胸へ抱えている。


細い銀色の髪留めだけが、朝日に光っていた。


少女が近づくにつれ、魚屋の包丁が止まった。


八百屋の店主は少女を見ないふりをし、若い店員だけが段ボールを運び続けた。


年配の客が「……御厨の子だ」と呟いた。


少女は歩調を変えなかった。


颯真の口から、ガムを噛む音が消えた。


「兄ちゃん、知ってる子?」


「知らねえよ」


すぐに答えた。


少女が近づく。


颯真は湊を自分の後ろへ押し、少女の進路へ立った。


「道を変えろ、御厨」


少女は足を止めた。


「あなたは、まだ何も覚えていないんですね」


颯真の右手が拳になる。


「何の話だ」


さっきから近づいていた自転車のベルが、背後で鋭く鳴った。


荷台に木箱を積んだ配達用の自転車が、狭い通りへ入ってくる。


颯真は湊の肩を掴み、反射的に自分の方へ引いた。


湊のランドセルが少女の腕へ当たり、抱えていた本が路上へ散らばった。


「ごめん」


湊はすぐに少女の近くへしゃがんだ。


「手伝う」


「触るな、湊」


一冊だけ、表紙を下にして落ちていた。


湊は普通の教科書だと思い、その本を拾った。


持ち上げた拍子に本が返った。


古い表紙には、見たことのない文字と、何本もの線が絡み合う丸い模様が描かれている。


血管のようにも、道のようにも見えた。


「これ」


本を差し出す。


少女の指先が、湊の手へ触れた。


水の底へ沈めたような冷たさが、手首まで走った。


少女が息を止める。


湊の手の甲に、黒い糸のような線が浮かんでいた。


皮膚の内側を、指先から手首へ向かって伸びていく。


少女の目が大きく開いた。


「今回は……弟の方なんですね」


「何が?」


颯真が湊の腕を掴み、少女から引き離す。


「行くぞ」


「待って」


少女は颯真ではなく、湊を見ていた。


「午後六時四十二分には、山にいないでください」


魚屋の時計が、背後で一度だけ鳴った。


針は動いていない。


颯真に引かれながら、湊は背中のランドセルへ手を伸ばした。


内ポケットから、焦げた花の匂いがした。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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