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時は復讐を忘れない  作者: 23
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第十話 同じ紙を読めない

午後六時四十九分。


引き戸の前に、白い紙が一枚置かれていた。


湊には、最後の一行が「兄ちゃんだけが、最後まで僕の場所を変えなかった」と読めた。


颯真には「兄ちゃんだけが、最後まで僕を選んだ」。直哉には「父さんは、最後まで迎えに来なかった」。佐伯先生には「先生が書いたから、僕は消えた」。


佳乃、澪、宗一郎にも別の文章が見えた。全員分を声へ出すのはやめた。紙を読むたび、傷口へ指を入れ直しているようだった。


一行目と二行目は同じだった。


三行目だけが、それぞれの一番触れられたくない場所へ変わる。


湊は全員へ紙を配ろうとした。佐伯先生が止める。


「一度書けば十分です」


「でも、誰が何て」


「今は覚えています」


「あとで変わるかもしれない」


「それでも、同じことを何度も確かめる間に、別のことが起きます」


佐伯先生は自分のノートへ一行だけ書く。


私は、そう読んだ。事実とは書かない。


他の者も、それぞれ自分の紙へ同じ一文を加えた。


颯真は書かなかった。


「こんなの、紙が言ってるんじゃない」


「じゃあ何」


湊が訊く。


「俺たちが、自分で一番嫌な言葉にしてる」


「兄ちゃんは、選ばれたいの」


言ってから、湊は間違えたと思った。


颯真の右手が紙を握る。


「外の俺が家に入ったら、俺がいなくなっても同じだと思われる」


「思わない」


佳乃が言う。


「母さんは、二人とも息子だって言った」


「二人とも息子よ」


「ほら」


「でも、代わりにはならない」


「昨日まで言わなかった」


佳乃は口を閉じる。


颯真は湊を見る。


「お前も、どっちも兄ちゃんだろ」


「うん」


「俺が消えても、外の俺が残る」


「それは嫌だ」


「何が嫌なんだよ。外の俺も兄ちゃんなんだろ」


湊は答えを探した。うまい言葉が出ない。


「今、触れるのは兄ちゃんだから」


「それだけ?」


「今、いなくなられたら嫌なのは、ここにいる兄ちゃん」


颯真は笑わなかった。


「今は、か」


「今しか分からない」


湊は正直に言った。


「ずっとは、まだ分からない」


颯真は紙を床へ置いた。許した顔ではなかった。それでも破らなかった。


佐伯先生の携帯電話が鳴る。画面には学校の番号が表示されていた。


「はい」


通話を聞くうち、表情が硬くなる。


「分かりました。鍵は返します。ノートについては、直接お話しします」


電話を切る。


「校長先生からです。学校の鍵と、記録を提出するように言われました」


「今から?」


佳乃が訊く。


「職員室で待つそうです」


「一人で行かないで」


湊は立ち上がる。


「あなたは家に」


「行く」


「颯真さんのことは」


「兄ちゃんも来て」


「何で俺まで」


「外の兄ちゃんが言った未来と、今が違うか確かめる」


「また実験かよ」


「違う。学校にいる澪を見に行く」


居間の澪が顔を上げる。


教室にいる、もう一人の自分。


「私も行きます」


直哉が車を出した。佳乃と宗一郎は家へ残る。工具箱、鍵の封筒、懐中時計を一人の近くへ置かないためだった。


学校へ着いた時、校舎の窓はほとんど暗かった。職員室だけに明かりがある。


佐伯先生は鍵を校長へ返した。大学ノートは胸へ抱いたままだった。


「記録も提出するよう伝えました」


「今夜の出来事を書き終えていません」


「学校内の記録です」


「黒瀬家と御厨家で起きたことも含まれています」


校長は直哉を見る。


「警察へ連絡しています」


直哉が携帯電話の発信履歴を見せる。


「このノートも確認対象になるかもしれません。明日の朝、改めて話してください」


校長は納得していなかった。それでも鍵だけを受け取った。


「明日、八時に」


佐伯先生は頷く。


西棟へ向かう。


教室の澪は、前から三列目の席に座っていた。廊下側の澪がガラスへ近づく。


「まだ出られませんか」


教室側は扉へ歩く。三歩目から床が伸び、扉が遠ざかる。すぐに戻った。


「変わりません」


「今夜、ここにいるんですか」


「学校の方が、家より私を覚えています」


「でも一人です」


「あなたは帰れます」


廊下側の澪の顔が歪む。


「帰れたことを責めていますか」


「責めていません」


答えが早すぎた。


「では、どうして見ないんですか」


教室側の澪は目を逸らしていた。


「あなたが黒瀬家で寝た場所を考えたくないからです」


初めて、二人の声が違った。


廊下側は怒る代わりに、ガラスへ手を置いた。


「私は眠れませんでした」


「布団はありました」


「はい」


「私は机でした」


「ごめんなさい」


「謝らないでください」


教室側の声が強くなる。


「あなたが謝ると、私が残ったことが間違いになります」


廊下側は手を下ろした。


その時、佐伯先生の携帯へ警察から連絡が入った。市立病院を抜けた黎一を捜しているという。神社での傷害については証言があるが、刃も映像も残らず、任意の事情聴取に留まっていた。


校長は職員玄関と正門の施錠を確認した。警備画面にも人影はない。


それでも、廊下の奥で靴音がした。


黎一が立っていた。


頬には神社で負った傷が残っている。警備画面の同じ廊下には、誰も映っていなかった。


「澪」


二人が顔を上げる。


黎一は廊下側だけを見る。


「帰るぞ」


「どこへ」


「御厨家だ」


「教室の私は」


「学校に残る」


「私たちを分けるんですか」


「もう分かれている」


黎一は腕を掴もうとした。颯真が間へ入る。


「触るな」


「黒瀬が口を出すな」


「嫌がってる」


「お前も、残る側を選ばされる」


黎一の目が颯真へ向く。


「八月十五日。今いるお前か、扉の外にいるお前か」


颯真の顔色が変わる。


「何をする気だ」


「選ばれなかった側を、同じ場所へ戻す」


「戻したらどうなる」


「余分な履歴が減る」


「人の話をしてるんだ」


「黒瀬が一人を戻すたび、別の家で一人が家族からこぼれた」


黎一の声は低い。


「御厨には、その日付が残っている」


「颯真を戻したから、澪が二人になったとは確認できていません」


佐伯先生が言う。


「確認が終わるまで待てば、また失う」


直哉が訊く。


「復讐か」


黎一は否定しなかった。


廊下側の澪が、黎一の腕から逃れるように一歩下がる。


「私を理由にしないでください」


教室側の澪もガラスの向こうへ立つ。


「私たちを、黒瀬家へ返す物にしないでください」


「お前たちを守るためだ」


「どちらを守るんですか」


黎一は答えない。


颯真が教室と廊下の澪を指す。


「どっちを消せば、御厨は返してもらったことになる」


「今は決められない」


「分からないのに、俺だけ選ばせるな」


黎一の手首に、黒い線が浮かぶ。一本は教室へ、一本は廊下側の澪へ伸びている。


二人の澪も左胸を押さえた。


午後九時十三分。


教室の蛍光灯が消えた。


ガラスの内側と外側で、二人の澪が同時に手を上げる。指先の位置が重なる。


一瞬だけ、ガラスがなくなったように見えた。


教室側の指が、廊下側の指へ触れる。


黎一が息を呑む。


「離れろ」


二人は手を離さない。


教室側の澪が言う。


「私を理由にしないでください」


廊下側の澪も、ガラスへ手を重ねた。


「教室の外にいる私も、中にいる私も、叔父さまの都合で一人にはなりません」


「私たちに選ばせてください」


蛍光灯が戻る。


ガラスも戻る。二人の手は、また触れなくなる。


黎一の黒い線は消えなかった。


「八月十五日に来る」


それだけ言い残し、黎一は階段へ向かった。直哉が追う。だが踊り場へ着いた時、足音だけが下へ続き、姿はなかった。正門も職員玄関も施錠されたまま。警備映像には、入った時と同じく何も映っていない。


佐伯先生は警察へ状況を伝えた。


「逃がしたんじゃない」


直哉は空の階段を見下ろした。


「ここから外れた」


教室側の澪は、今夜も学校へ残ることになった。校長が職員室へ戻り、佐伯先生と交代で西棟に残る。毛布と水、パンが用意された。


廊下側の澪は、黒瀬家へ戻る。


別れ際、二人は名前を呼ばなかった。


「朝、来ます」


「来なくても、私はいます」


「それでも来ます」


教室側は返事をしなかった。


午後十時二分、直哉たちは黒瀬家へ戻った。


颯真は玄関で靴を脱がず、引き戸を見た。


「外の俺は、もういないのか」


返事はない。


湊は颯真の右手へ触れた。


「今ここにいる兄ちゃんを、今は選ぶ」


颯真は手を引かなかった。


「今は、か」


「外の兄ちゃんがいなくなっても、同じ兄ちゃんがいるとは思わない」


「どっちも兄ちゃんなのに?」


「どっちもでも、代わりじゃない」


颯真はしばらく黙り、湊の頭を軽く押した。


「遅い」


「ごめん」


「許してない」


「うん」


午後十時二十三分。


七枚の紙は、一枚へまとめず別々に残した。


それぞれの下には、同じ一文だけがある。


私は、そう読んだ。


事実とは書かない。


佐伯先生の大学ノートは、翌朝、校長ともう一度話すまで彼女の腕の中に残った。


学校の西棟では、教室の澪が一人で毛布にくるまっていた。


開けられなかったパンが、机の端に置かれていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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