第十話 同じ紙を読めない
午後六時四十九分。
引き戸の前に、白い紙が一枚置かれていた。
湊には、最後の一行が「兄ちゃんだけが、最後まで僕の場所を変えなかった」と読めた。
颯真には「兄ちゃんだけが、最後まで僕を選んだ」。直哉には「父さんは、最後まで迎えに来なかった」。佐伯先生には「先生が書いたから、僕は消えた」。
佳乃、澪、宗一郎にも別の文章が見えた。全員分を声へ出すのはやめた。紙を読むたび、傷口へ指を入れ直しているようだった。
一行目と二行目は同じだった。
三行目だけが、それぞれの一番触れられたくない場所へ変わる。
湊は全員へ紙を配ろうとした。佐伯先生が止める。
「一度書けば十分です」
「でも、誰が何て」
「今は覚えています」
「あとで変わるかもしれない」
「それでも、同じことを何度も確かめる間に、別のことが起きます」
佐伯先生は自分のノートへ一行だけ書く。
私は、そう読んだ。事実とは書かない。
他の者も、それぞれ自分の紙へ同じ一文を加えた。
颯真は書かなかった。
「こんなの、紙が言ってるんじゃない」
「じゃあ何」
湊が訊く。
「俺たちが、自分で一番嫌な言葉にしてる」
「兄ちゃんは、選ばれたいの」
言ってから、湊は間違えたと思った。
颯真の右手が紙を握る。
「外の俺が家に入ったら、俺がいなくなっても同じだと思われる」
「思わない」
佳乃が言う。
「母さんは、二人とも息子だって言った」
「二人とも息子よ」
「ほら」
「でも、代わりにはならない」
「昨日まで言わなかった」
佳乃は口を閉じる。
颯真は湊を見る。
「お前も、どっちも兄ちゃんだろ」
「うん」
「俺が消えても、外の俺が残る」
「それは嫌だ」
「何が嫌なんだよ。外の俺も兄ちゃんなんだろ」
湊は答えを探した。うまい言葉が出ない。
「今、触れるのは兄ちゃんだから」
「それだけ?」
「今、いなくなられたら嫌なのは、ここにいる兄ちゃん」
颯真は笑わなかった。
「今は、か」
「今しか分からない」
湊は正直に言った。
「ずっとは、まだ分からない」
颯真は紙を床へ置いた。許した顔ではなかった。それでも破らなかった。
佐伯先生の携帯電話が鳴る。画面には学校の番号が表示されていた。
「はい」
通話を聞くうち、表情が硬くなる。
「分かりました。鍵は返します。ノートについては、直接お話しします」
電話を切る。
「校長先生からです。学校の鍵と、記録を提出するように言われました」
「今から?」
佳乃が訊く。
「職員室で待つそうです」
「一人で行かないで」
湊は立ち上がる。
「あなたは家に」
「行く」
「颯真さんのことは」
「兄ちゃんも来て」
「何で俺まで」
「外の兄ちゃんが言った未来と、今が違うか確かめる」
「また実験かよ」
「違う。学校にいる澪を見に行く」
居間の澪が顔を上げる。
教室にいる、もう一人の自分。
「私も行きます」
直哉が車を出した。佳乃と宗一郎は家へ残る。工具箱、鍵の封筒、懐中時計を一人の近くへ置かないためだった。
学校へ着いた時、校舎の窓はほとんど暗かった。職員室だけに明かりがある。
佐伯先生は鍵を校長へ返した。大学ノートは胸へ抱いたままだった。
「記録も提出するよう伝えました」
「今夜の出来事を書き終えていません」
「学校内の記録です」
「黒瀬家と御厨家で起きたことも含まれています」
校長は直哉を見る。
「警察へ連絡しています」
直哉が携帯電話の発信履歴を見せる。
「このノートも確認対象になるかもしれません。明日の朝、改めて話してください」
校長は納得していなかった。それでも鍵だけを受け取った。
「明日、八時に」
佐伯先生は頷く。
西棟へ向かう。
教室の澪は、前から三列目の席に座っていた。廊下側の澪がガラスへ近づく。
「まだ出られませんか」
教室側は扉へ歩く。三歩目から床が伸び、扉が遠ざかる。すぐに戻った。
「変わりません」
「今夜、ここにいるんですか」
「学校の方が、家より私を覚えています」
「でも一人です」
「あなたは帰れます」
廊下側の澪の顔が歪む。
「帰れたことを責めていますか」
「責めていません」
答えが早すぎた。
「では、どうして見ないんですか」
教室側の澪は目を逸らしていた。
「あなたが黒瀬家で寝た場所を考えたくないからです」
初めて、二人の声が違った。
廊下側は怒る代わりに、ガラスへ手を置いた。
「私は眠れませんでした」
「布団はありました」
「はい」
「私は机でした」
「ごめんなさい」
「謝らないでください」
教室側の声が強くなる。
「あなたが謝ると、私が残ったことが間違いになります」
廊下側は手を下ろした。
その時、佐伯先生の携帯へ警察から連絡が入った。市立病院を抜けた黎一を捜しているという。神社での傷害については証言があるが、刃も映像も残らず、任意の事情聴取に留まっていた。
校長は職員玄関と正門の施錠を確認した。警備画面にも人影はない。
それでも、廊下の奥で靴音がした。
黎一が立っていた。
頬には神社で負った傷が残っている。警備画面の同じ廊下には、誰も映っていなかった。
「澪」
二人が顔を上げる。
黎一は廊下側だけを見る。
「帰るぞ」
「どこへ」
「御厨家だ」
「教室の私は」
「学校に残る」
「私たちを分けるんですか」
「もう分かれている」
黎一は腕を掴もうとした。颯真が間へ入る。
「触るな」
「黒瀬が口を出すな」
「嫌がってる」
「お前も、残る側を選ばされる」
黎一の目が颯真へ向く。
「八月十五日。今いるお前か、扉の外にいるお前か」
颯真の顔色が変わる。
「何をする気だ」
「選ばれなかった側を、同じ場所へ戻す」
「戻したらどうなる」
「余分な履歴が減る」
「人の話をしてるんだ」
「黒瀬が一人を戻すたび、別の家で一人が家族からこぼれた」
黎一の声は低い。
「御厨には、その日付が残っている」
「颯真を戻したから、澪が二人になったとは確認できていません」
佐伯先生が言う。
「確認が終わるまで待てば、また失う」
直哉が訊く。
「復讐か」
黎一は否定しなかった。
廊下側の澪が、黎一の腕から逃れるように一歩下がる。
「私を理由にしないでください」
教室側の澪もガラスの向こうへ立つ。
「私たちを、黒瀬家へ返す物にしないでください」
「お前たちを守るためだ」
「どちらを守るんですか」
黎一は答えない。
颯真が教室と廊下の澪を指す。
「どっちを消せば、御厨は返してもらったことになる」
「今は決められない」
「分からないのに、俺だけ選ばせるな」
黎一の手首に、黒い線が浮かぶ。一本は教室へ、一本は廊下側の澪へ伸びている。
二人の澪も左胸を押さえた。
午後九時十三分。
教室の蛍光灯が消えた。
ガラスの内側と外側で、二人の澪が同時に手を上げる。指先の位置が重なる。
一瞬だけ、ガラスがなくなったように見えた。
教室側の指が、廊下側の指へ触れる。
黎一が息を呑む。
「離れろ」
二人は手を離さない。
教室側の澪が言う。
「私を理由にしないでください」
廊下側の澪も、ガラスへ手を重ねた。
「教室の外にいる私も、中にいる私も、叔父さまの都合で一人にはなりません」
「私たちに選ばせてください」
蛍光灯が戻る。
ガラスも戻る。二人の手は、また触れなくなる。
黎一の黒い線は消えなかった。
「八月十五日に来る」
それだけ言い残し、黎一は階段へ向かった。直哉が追う。だが踊り場へ着いた時、足音だけが下へ続き、姿はなかった。正門も職員玄関も施錠されたまま。警備映像には、入った時と同じく何も映っていない。
佐伯先生は警察へ状況を伝えた。
「逃がしたんじゃない」
直哉は空の階段を見下ろした。
「ここから外れた」
教室側の澪は、今夜も学校へ残ることになった。校長が職員室へ戻り、佐伯先生と交代で西棟に残る。毛布と水、パンが用意された。
廊下側の澪は、黒瀬家へ戻る。
別れ際、二人は名前を呼ばなかった。
「朝、来ます」
「来なくても、私はいます」
「それでも来ます」
教室側は返事をしなかった。
午後十時二分、直哉たちは黒瀬家へ戻った。
颯真は玄関で靴を脱がず、引き戸を見た。
「外の俺は、もういないのか」
返事はない。
湊は颯真の右手へ触れた。
「今ここにいる兄ちゃんを、今は選ぶ」
颯真は手を引かなかった。
「今は、か」
「外の兄ちゃんがいなくなっても、同じ兄ちゃんがいるとは思わない」
「どっちも兄ちゃんなのに?」
「どっちもでも、代わりじゃない」
颯真はしばらく黙り、湊の頭を軽く押した。
「遅い」
「ごめん」
「許してない」
「うん」
午後十時二十三分。
七枚の紙は、一枚へまとめず別々に残した。
それぞれの下には、同じ一文だけがある。
私は、そう読んだ。
事実とは書かない。
佐伯先生の大学ノートは、翌朝、校長ともう一度話すまで彼女の腕の中に残った。
学校の西棟では、教室の澪が一人で毛布にくるまっていた。
開けられなかったパンが、机の端に置かれていた。
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