第十一話 名前を消したのは僕だった
八月四日、午前七時四十八分。
西棟二階の教室には、昨夜の毛布と、開けられなかったパンが残っていた。教室の中にいる澪は、窓側の席へ座っている。廊下にいる澪は、扉のガラスへ手を当てていた。
同じ顔だった。
けれど、教室の澪の制服には机へ伏せた皺があり、廊下の澪の髪からは黒瀬家のシャンプーの匂いがした。
「眠れましたか」
廊下の澪が訊く。
「少しだけ」
「嘘ですね」
「あなたもでしょう」
二人は笑わなかった。
湊は扉の横で、昨夜の位置記録を抱えていた。教室内。御厨澪。教室前廊下。御厨澪。同じ名前が二枚ある。それだけなら、紙は二人を残していた。廊下の奥から、校長と佐伯先生が来る。直哉と颯真も一緒だった。佳乃と宗一郎は黒瀬家に残った。工具箱と懐中時計を、一人だけの近くへ置かないためだった。
校長は職員室の鍵を机へ置き、厚い学籍ファイルを開いた。
「警察と児童相談所へ連絡しました」
颯真が壁へ背をつけた。
「早いな」
「生徒が一晩、教室から出られなかったんです。遅いくらいです」
校長の声は硬かった。
「その前に、学校から提出する事故報告を作ります」
用紙は一人分だった。氏名。生年月日。在籍確認。保護者。二枚並べても、学校の管理番号は一つしかない。
「どちらを在籍生徒として書くんですか」
廊下の澪が訊いた。校長は教室を見る。
「昨日から教室に残っている方です」
「私も昨日、学校にいました」
「その後、黒瀬さんの家へ移動した」
「移動できたら、学校の生徒ではなくなるんですか」
校長は答えず、佐伯先生へ顔を向けた。
「七月三十一日に教室で確認したのは、どちらですか」
「その時は、一人でした」
「今いる二人の、どちらに続く生徒です」
佐伯先生は、二人の顔を見た。
「分かりません」
校長の指が机を叩く。
「分からないでは、外部へ報告できない」
「分からないまま報告してください」
教室の澪が言った。
「学校には、それができないんです」
颯真が鼻で息を吐いた。
「できないんじゃなくて、したくないんだろ」
「颯真」
直哉が止める。
「でも、どっちか選ぶ気だ」
校長は報告用紙を二枚取り出した。
「同じ内容で二枚作ります。複写が取れれば、二名を確認した資料として添付します」
二人の澪が、自分の手で書いた。教室にいる澪は、冷えた指で鉛筆を握った。廊下にいる澪は、書き終えた後も紙から手を離さなかった。
校長が紙を受け取ろうとすると、二人とも渡さなかった。学校の記録がすでに一人分へ寄っている。どちらも、学校側に先を決めさせたくなかった。
「湊君へ渡します」
教室の澪が言う。廊下の澪は迷った後、同じように湊へ差し出した。二人とも信頼したからではない。前夜から二人を同時に見ており、選んだ時に責任を逃げられない相手だったからだ。
職員室の複写機の前で、校長が言った。
「君が受け取った順に置いてください」
「受け取ったのは同時です」
「では、どちらかを先に」
湊は二枚を持つ。どちらも同じ重さだった。教室の澪を見る。一晩、硬い椅子で過ごした。パンも食べていない。外へ出ようとしても、廊下が伸びる。廊下の澪は黒瀬家へ帰れた。風呂にも入った。佳乃の布団で横になれた。先に守らなければならないのは、教室の方だと思った。
「こっちを先に」
湊は、教室の澪の紙を複写機へ置いた。廊下の澪が、小さく息を吸った。
「私を後にするんですね」
「違う」
湊はすぐに言った。
「中にいる方が、今は危ないから」
言い終えた瞬間、自分の言葉が嫌になった。中にいる方。外にいる方。先。後。校長が蓋を閉じる。白い光が紙の下を走った。一枚目が出る。八月四日、午前八時十二分。西棟二階、教室内。御厨澪。名前は残っていた。二枚目を置く。廊下の澪の紙。光が走る。紙が吐き出される。八月四日、午前八時十二分。
西棟二階、教室前廊下。氏名欄だけが白かった。
「インク切れ?」
湊が複写紙を持ち上げる。他の文字は黒い。
名前だけがない。
校長が原本を見る。そこには御厨澪と書かれている。
「もう一度」
佐伯先生が言った。今度は廊下の澪の紙だけを置く。光が走る。また、氏名欄だけが白い。
「順番を逆にして」
颯真が言う。校長は最初の紙をもう一度複写した。教室内。御厨澪。名前は残る。
「機械が、最初の一人を選んだ」
湊の喉が詰まる。
「決めつけるな」
直哉が言う。けれど、廊下の澪は湊を見ていた。
「最初に置いたのは、湊君です」
「守ろうとしただけだよ」
「誰を」
返せなかった。
校長は、氏名が残った複写と、氏名が消えた複写を机へ並べた。電話が鳴る。警察からの折り返しだった。校長は受話器を取った。
「在籍生徒一名と、同一の氏名、生年月日、外見を申告する少女一名を確認しています」
「違う!」
湊が叫んだ。校長が手で制する。
「現時点で、学校の在籍記録と一致するのは教室内の生徒です。もう一名は身元確認中です」
廊下の澪の顔から、表情が消えた。
「身元確認中じゃない」
湊は受話器へ近づく。
「名前は御厨澪です。僕は知ってます」
電話の向こうの声は聞こえない。校長は通話を続けた。
「はい。二名とも現場にいます。至急お願いします」
受話器を置く。
「外部へ伝えるには、確認できる記録が必要です」
「原本がある」
「原本は本人が書いたものです」
「本人が書いた名前じゃ足りないの?」
校長は、少しだけ目を伏せた。
「足りないと言っているのではありません」
「同じだよ」
湊は氏名の消えた複写を破ろうとした。佐伯先生が手首を掴む。
「破ってはいけません」
「こんなの残したら、この澪がいないことになる」
「破れば、名前が消えたことまで消えます」
「でも僕が先に置いた」
「それも残します」
佐伯先生の声は優しくなかった。
「湊君が選んだことも、隠してはいけません」
湊は紙を離した。鉛筆を持つ。
午前八時十二分。
二枚の原本を複写。教室内の記録を先に置いた。教室前廊下の複写では、氏名が消えた。そこまで書いて、手が止まった。教室内の記録を先に置いた理由。守ろうとしたから。どちらを。書けなかった。廊下の澪が、自分の原本を胸へ抱く。
「私の名前は、ここにあります」
教室の澪がガラスへ手を当てた。
「私も覚えています」
「あなたが覚えていても、学校は私を知らない人にしました」
「私が選ばせたわけではありません」
「分かっています」
二人の声は同じだった。意味は違った。
午前八時二十一分。
校長は職員室へ戻ろうとした。廊下の澪の横を通り、二歩進む。湊が呼び止める。
「校長先生。この人の名前は」
校長が振り返る。澪を見る。数秒、黙った。
「御厨さんと同じ顔をした方です」
廊下の澪の指が、原本へ食い込む。
「名前を訊いています」
「先ほど確認したはずですが」
「何と」
校長は複写紙を見る。氏名欄は白い。
「……確認中の方です」
颯真が壁を蹴った。
「さっき名前を聞いただろ」
「私は、二人とも御厨澪と名乗ったと」
校長は言いかけ、口を閉じた。佐伯先生が大学ノートを開く。
「校長先生は、数分前まで二人とも御厨澪と名乗っていると認識していました」
「そう記録されているなら、そうなのでしょう」
「覚えていないんですか」
「一人分の学籍記録と、身元未確認者が一人いると理解しています」
湊の背中が冷たくなる。紙から名前が消えた後、校長の中でも一人になった。それが本当かは分からない。けれど、廊下の澪はそこにいる。目の前にいるのに、名前だけが届かない。湊は校長と澪の間へ立った。
「御厨澪です」
自分の声が震えた。
「この人も、御厨澪です」
校長は湊を見る。
「君は、そう認識しているんですね」
「認識じゃない」
言い切れなかった。昨夜、自分たちは、見えたものと事実を分けた。今、湊は事実だと言いたかった。けれど、その言葉でまた一人を選ぶのが怖かった。廊下の澪が湊の横を通る。
「もういいです」
「よくない」
「湊君は、教室にいる私を先にしました」
「違うって」
「違いません」
声は静かだった。
「理由があったことは分かります。でも、先にしたことは変わりません」
湊は追えなかった。廊下の澪は扉の前へ戻る。ガラス越しに、もう一人の自分と向かい合う。教室の澪が何か言う。廊下の澪は頷かなかった。
午前八時二十八分。
校庭の外から、サイレンが聞こえた。湊は自分のノートに書いた一文を消しゴムで擦った。教室内の記録を先に置いた。文字は消えた。紙には、鉛筆で押した溝だけが残った。名前を消したのは複写機だった。それでも、先に選んだのは湊だった。
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