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時は復讐を忘れない  作者: 23
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第十一話 名前を消したのは僕だった

八月四日、午前七時四十八分。


西棟二階の教室には、昨夜の毛布と、開けられなかったパンが残っていた。教室の中にいる澪は、窓側の席へ座っている。廊下にいる澪は、扉のガラスへ手を当てていた。


同じ顔だった。


けれど、教室の澪の制服には机へ伏せた皺があり、廊下の澪の髪からは黒瀬家のシャンプーの匂いがした。


「眠れましたか」


廊下の澪が訊く。


「少しだけ」


「嘘ですね」


「あなたもでしょう」


二人は笑わなかった。


湊は扉の横で、昨夜の位置記録を抱えていた。教室内。御厨澪。教室前廊下。御厨澪。同じ名前が二枚ある。それだけなら、紙は二人を残していた。廊下の奥から、校長と佐伯先生が来る。直哉と颯真も一緒だった。佳乃と宗一郎は黒瀬家に残った。工具箱と懐中時計を、一人だけの近くへ置かないためだった。


校長は職員室の鍵を机へ置き、厚い学籍ファイルを開いた。


「警察と児童相談所へ連絡しました」


颯真が壁へ背をつけた。


「早いな」


「生徒が一晩、教室から出られなかったんです。遅いくらいです」


校長の声は硬かった。


「その前に、学校から提出する事故報告を作ります」


用紙は一人分だった。氏名。生年月日。在籍確認。保護者。二枚並べても、学校の管理番号は一つしかない。


「どちらを在籍生徒として書くんですか」


廊下の澪が訊いた。校長は教室を見る。


「昨日から教室に残っている方です」


「私も昨日、学校にいました」


「その後、黒瀬さんの家へ移動した」


「移動できたら、学校の生徒ではなくなるんですか」


校長は答えず、佐伯先生へ顔を向けた。


「七月三十一日に教室で確認したのは、どちらですか」


「その時は、一人でした」


「今いる二人の、どちらに続く生徒です」


佐伯先生は、二人の顔を見た。


「分かりません」


校長の指が机を叩く。


「分からないでは、外部へ報告できない」


「分からないまま報告してください」


教室の澪が言った。


「学校には、それができないんです」


颯真が鼻で息を吐いた。


「できないんじゃなくて、したくないんだろ」


「颯真」


直哉が止める。


「でも、どっちか選ぶ気だ」


校長は報告用紙を二枚取り出した。


「同じ内容で二枚作ります。複写が取れれば、二名を確認した資料として添付します」


二人の澪が、自分の手で書いた。教室にいる澪は、冷えた指で鉛筆を握った。廊下にいる澪は、書き終えた後も紙から手を離さなかった。


校長が紙を受け取ろうとすると、二人とも渡さなかった。学校の記録がすでに一人分へ寄っている。どちらも、学校側に先を決めさせたくなかった。


「湊君へ渡します」


教室の澪が言う。廊下の澪は迷った後、同じように湊へ差し出した。二人とも信頼したからではない。前夜から二人を同時に見ており、選んだ時に責任を逃げられない相手だったからだ。


職員室の複写機の前で、校長が言った。


「君が受け取った順に置いてください」


「受け取ったのは同時です」


「では、どちらかを先に」


湊は二枚を持つ。どちらも同じ重さだった。教室の澪を見る。一晩、硬い椅子で過ごした。パンも食べていない。外へ出ようとしても、廊下が伸びる。廊下の澪は黒瀬家へ帰れた。風呂にも入った。佳乃の布団で横になれた。先に守らなければならないのは、教室の方だと思った。


「こっちを先に」


湊は、教室の澪の紙を複写機へ置いた。廊下の澪が、小さく息を吸った。


「私を後にするんですね」


「違う」


湊はすぐに言った。


「中にいる方が、今は危ないから」


言い終えた瞬間、自分の言葉が嫌になった。中にいる方。外にいる方。先。後。校長が蓋を閉じる。白い光が紙の下を走った。一枚目が出る。八月四日、午前八時十二分。西棟二階、教室内。御厨澪。名前は残っていた。二枚目を置く。廊下の澪の紙。光が走る。紙が吐き出される。八月四日、午前八時十二分。


西棟二階、教室前廊下。氏名欄だけが白かった。


「インク切れ?」


湊が複写紙を持ち上げる。他の文字は黒い。


名前だけがない。


校長が原本を見る。そこには御厨澪と書かれている。


「もう一度」


佐伯先生が言った。今度は廊下の澪の紙だけを置く。光が走る。また、氏名欄だけが白い。


「順番を逆にして」


颯真が言う。校長は最初の紙をもう一度複写した。教室内。御厨澪。名前は残る。


「機械が、最初の一人を選んだ」


湊の喉が詰まる。


「決めつけるな」


直哉が言う。けれど、廊下の澪は湊を見ていた。


「最初に置いたのは、湊君です」


「守ろうとしただけだよ」


「誰を」


返せなかった。


校長は、氏名が残った複写と、氏名が消えた複写を机へ並べた。電話が鳴る。警察からの折り返しだった。校長は受話器を取った。


「在籍生徒一名と、同一の氏名、生年月日、外見を申告する少女一名を確認しています」


「違う!」


湊が叫んだ。校長が手で制する。


「現時点で、学校の在籍記録と一致するのは教室内の生徒です。もう一名は身元確認中です」


廊下の澪の顔から、表情が消えた。


「身元確認中じゃない」


湊は受話器へ近づく。


「名前は御厨澪です。僕は知ってます」


電話の向こうの声は聞こえない。校長は通話を続けた。


「はい。二名とも現場にいます。至急お願いします」


受話器を置く。


「外部へ伝えるには、確認できる記録が必要です」


「原本がある」


「原本は本人が書いたものです」


「本人が書いた名前じゃ足りないの?」


校長は、少しだけ目を伏せた。


「足りないと言っているのではありません」


「同じだよ」


湊は氏名の消えた複写を破ろうとした。佐伯先生が手首を掴む。


「破ってはいけません」


「こんなの残したら、この澪がいないことになる」


「破れば、名前が消えたことまで消えます」


「でも僕が先に置いた」


「それも残します」


佐伯先生の声は優しくなかった。


「湊君が選んだことも、隠してはいけません」


湊は紙を離した。鉛筆を持つ。


午前八時十二分。


二枚の原本を複写。教室内の記録を先に置いた。教室前廊下の複写では、氏名が消えた。そこまで書いて、手が止まった。教室内の記録を先に置いた理由。守ろうとしたから。どちらを。書けなかった。廊下の澪が、自分の原本を胸へ抱く。


「私の名前は、ここにあります」


教室の澪がガラスへ手を当てた。


「私も覚えています」


「あなたが覚えていても、学校は私を知らない人にしました」


「私が選ばせたわけではありません」


「分かっています」


二人の声は同じだった。意味は違った。


午前八時二十一分。


校長は職員室へ戻ろうとした。廊下の澪の横を通り、二歩進む。湊が呼び止める。


「校長先生。この人の名前は」


校長が振り返る。澪を見る。数秒、黙った。


「御厨さんと同じ顔をした方です」


廊下の澪の指が、原本へ食い込む。


「名前を訊いています」


「先ほど確認したはずですが」


「何と」


校長は複写紙を見る。氏名欄は白い。


「……確認中の方です」


颯真が壁を蹴った。


「さっき名前を聞いただろ」


「私は、二人とも御厨澪と名乗ったと」


校長は言いかけ、口を閉じた。佐伯先生が大学ノートを開く。


「校長先生は、数分前まで二人とも御厨澪と名乗っていると認識していました」


「そう記録されているなら、そうなのでしょう」


「覚えていないんですか」


「一人分の学籍記録と、身元未確認者が一人いると理解しています」


湊の背中が冷たくなる。紙から名前が消えた後、校長の中でも一人になった。それが本当かは分からない。けれど、廊下の澪はそこにいる。目の前にいるのに、名前だけが届かない。湊は校長と澪の間へ立った。


「御厨澪です」


自分の声が震えた。


「この人も、御厨澪です」


校長は湊を見る。


「君は、そう認識しているんですね」


「認識じゃない」


言い切れなかった。昨夜、自分たちは、見えたものと事実を分けた。今、湊は事実だと言いたかった。けれど、その言葉でまた一人を選ぶのが怖かった。廊下の澪が湊の横を通る。


「もういいです」


「よくない」


「湊君は、教室にいる私を先にしました」


「違うって」


「違いません」


声は静かだった。


「理由があったことは分かります。でも、先にしたことは変わりません」


湊は追えなかった。廊下の澪は扉の前へ戻る。ガラス越しに、もう一人の自分と向かい合う。教室の澪が何か言う。廊下の澪は頷かなかった。


午前八時二十八分。


校庭の外から、サイレンが聞こえた。湊は自分のノートに書いた一文を消しゴムで擦った。教室内の記録を先に置いた。文字は消えた。紙には、鉛筆で押した溝だけが残った。名前を消したのは複写機だった。それでも、先に選んだのは湊だった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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