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時は復讐を忘れない  作者: 23
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第十二話 見ていない間に一人になる

午前十時三十一分。


正門前に、白い車が二台止まった。警察官が二人。児童相談所の職員が一人。市の教育委員会から来た男が一人。先頭の女性警察官は、高井と名乗った。西棟二階へ上がると、高井は立ち止まった。教室の中に御厨澪。教室の外に御厨澪。


「双子?」


若い警察官が口にする。


「違います」


二人が同時に答えた。高井は二人の顔を見比べた後、校長へ手を出した。


「報告書を」


校長が、二枚の複写を渡す。一枚には御厨澪の名前がある。もう一枚は、氏名欄だけが白い。高井は白い欄を指で撫でた。


「原本は」


佐伯先生が、二人の手書きの紙を見せる。どちらにも御厨澪と書かれていた。


「分かりました」


高井は余計なことを言わなかった。教室の澪へ、生年月日を訊く。廊下の澪へも同じ質問をする。住所。両親の名前。学校。組。出席番号。答えは同じだった。


「七月三十一日の放課後、どこにいた」


そこで初めて、二人の答えが分かれた。


「教室に残りました」


「学校の外へ出ました」


高井のペンが止まる。


「それ以前は」


「同じです」


二人が答える。高井は手帳を閉じた。


「今ここに二人いることは確認した。理由は後です」


児童相談所の職員が口を挟む。


「別々に聞き取らなくていいんですか」


「教室から出られない子を、確認のために動かしません」


「外にいる方は移動できます」


廊下の澪の肩が強張る。高井は職員を見る。


「一人だけ動かせば、二人の状態が変わる可能性がある」


「可能性だけで保護を遅らせるんですか」


「目の前で同じ顔の子が二人います。普通の手順をそのまま使う方が危険です」


高井の声は短かった。佐伯先生のように現象を説明しない。校長のように書式を守ろうともしない。今、怪我をさせないことだけを見ている。湊は少しだけ息をつけた。高井は二人の澪へ、白い紙帯を差し出した。病院や避難所で使う仮の識別票だった。教室の澪の紙帯には、御厨澪と書かれる。


廊下の澪の紙帯には、高井の手が止まった。校長の報告では、身元確認中。


「同じ名前を書いてください」


廊下の澪が言う。高井は校長を見る。校長は答えない。児童相談所の職員が言った。


「公的記録と一致していない状態で、同じ氏名を付けることはできません」


高井は紙帯へ、氏名未確認と書いた。湊の胸が痛んだ。自分が先に置いた紙。氏名の残った複写。


その続きが、澪の腕へ巻かれる。


「外して」


湊が言った。


「湊君」


直哉が止める。


「この人は名前を言った」


「聞いています」


高井が答える。


「だったら書いてよ」


「今は、この紙帯で本人を決めるためではありません。移動中に取り違えないためです」


「もう取り違えてる」


廊下の澪は、白い紙帯を見た。


「構いません」


「よくないよ」


「湊君が怒ると、私が怒れない人みたいになります」


湊は口を閉じた。澪は怒っていた。声を荒げないだけだった。


午前十時五十四分。


高井は、教室の澪へ医師を呼ぶよう手配した。廊下の澪は、一階の保健室で先に状態を確認することになった。


「私がついていく」


湊は言った。


「家族ではありません」


児童相談所の職員が答える。


「この人を知ってる」


「警察官が同行します」


「警察の人は、さっき来たばかりだ」


高井が湊を見る。


「どうして君が行く」


湊は廊下の澪を見た。


「僕が、名前のある紙を先にしたから」


澪の顔が動く。


「償いですか」


「違う」


「また、守る方を決めるんですか」


言葉が刺さった。湊は、それでも退かなかった。


「一人で行かせたくない」


澪は数秒、湊を見た。


「それなら来てください」


許したわけではなかった。ただ、一人よりはましだと選んだだけだった。高井は若い警察官へ言う。


「二人から目を離すな」


「二人?」


「教室の子はここに残る。移動する子も、同じ氏名を申告している。勝手に一人へまとめるな」


若い警察官は頷いた。廊下の澪が歩き出す。湊が右側。若い警察官が後ろ。教室の扉から離れる時、もう一人の澪がガラスへ手を置いた。廊下の澪も、一度だけ手を上げる。触れないまま、階段へ向かった。階段を一階分下りる。澪の足音は聞こえていた。二階と一階の間の踊り場で、若い警察官の無線が鳴る。


『移動中の対象者について確認。氏名は』


警察官が紙帯を見る。


「氏名未確認の少女一名です」


澪の歩みが止まった。


「御厨澪です」


警察官は無線へ答えない。


『年齢は』


「中学生。学校在籍者と同一情報を申告」


「御厨澪です」


澪がもう一度言う。湊には聞こえた。だが、警察官は無線を耳へ押し当てたまま、前を見ていた。


「聞こえてる?」


湊が訊く。


「何が」


警察官が顔を上げる。澪が目の前にいる。それなのに、視線が澪を通り過ぎた。


「この人」


湊が澪の腕を掴む。紙帯が鳴る。警察官は眉を寄せた。


「誰のことだ」


澪の指が、湊の手の中で冷たくなる。制服の袖が薄い。後ろの灰色の壁が、布越しに見え始めている。


「いるだろ!」


湊は叫んだ。


「さっきまで一緒に歩いてた!」


警察官が周囲を見る。


「君一人しかいない」


澪が息を吸う。


「私の声は」


湊には聞こえる。警察官は反応しない。


「聞こえてない」


湊が言う。澪の顔から血の気が失われる。


「教室へ戻りましょう」


「走れる?」


「分かりません」


湊は澪の手を引いた。階段を上がろうとする。一段。二段。澪の足音が消える。手の中の重さも薄くなる。


「離さないでください」


「離さない」


「さっきは、先にしなかったのに」


「今は手を掴んでる」


「見えなくなっても?」


「喋るな。息が切れる」


十一歳の足では、澪を引いて階段を上がれない。若い警察官が湊の肩を掴む。


「待て。誰を連れている」


「御厨澪!」


「教室にいる子だろ」


「こっちにもいる!」


警察官の手が、澪の腕を通り抜けるように見えた。実際には触れていない。触れる場所が分からなかった。湊は階段の壁を見る。赤い火災報知器。透明なカバー。下には、強く押すと書かれている。


「何をする」


警察官が言う。湊は拳でカバーを割った。指先が切れる。赤いボタンを押す。校舎中で、非常ベルが鳴った。金属を叩く音が、廊下と階段へ跳ね返る。


「火事ですか!」


一階の職員室から人が飛び出す。保健室の扉が開く。校長、高井、児童相談所の職員、教育委員会の男。二階からは、佐伯先生と颯真、直哉が駆け下りてくる。全員の視線が踊り場へ集まった。澪の制服が濃くなる。壁は透けなくなった。若い警察官が息を呑む。


「いた」


澪は湊の手を握ったまま、膝をついた。高井が階段を上がる。


「怪我は」


「湊君の指です」


澪が答えた。


「あなたは」


「今は、見えていますか」


高井は澪の目を見る。


「見えている」


「名前は」


高井は紙帯を見る。氏名未確認。それを破り捨てた。自分の手帳を開く。


「御厨澪。西棟階段踊り場」


声に出して書く。


「もう一人は」


「二階の教室です」


「確認に行く。佐伯先生、ここを離れないで」


高井は走った。非常ベルは鳴り続けている。先生たちが廊下へ出て、何が起きたのか分からないまま澪を見た。一人。二階の教室にも一人。同じ学校の中で、初めて大勢が二人の存在を同時に知った。湊が押したボタンは戻らない。警報の記録も、学校中の目撃も消せない。


隠して進めることは、もうできなくなった。直哉が湊の切れた指へハンカチを巻く。


「考えてから動け」


「考えてたら、消えてた」


「だからって火災報知器を」


「父さんは、見えてなかったら押さなかった?」


直哉は答えなかった。


消防車が二台到着し、残っていた職員は全員校庭へ避難させられた。西棟は立入禁止となり、割られた報知器のカバーと作動記録は消防が回収した。湊は「火は見ていないが、人が消えそうだった」と三度説明した。虚偽通報として扱うかは、警察と学校で後日協議することになった。


非常ベルを押したことで澪が戻ったとは、誰も書かなかった。人が集まったこと、湊が腕を掴んでいたこと、教室にもう一人がいたこと。そのどれが作用したかは分からない。


校長は保護者への説明文を作り始め、教育委員会は翌日の休校も検討した。湊の行動は、怪異の中だけでは終わらなかった。


高井はその間も、踊り場の澪と教室の澪を別々に確認させた。非常ベルは止まったが、誰も元の仕事へ戻らなかった。


午後零時四十三分。


颯真が湊の頭を軽く叩く。


「今度から非常ベルの前に俺を呼べ」


「兄ちゃん、片腕だろ」


「口は動く」


澪が、かすかに笑った。笑いはすぐに消えた。校内放送のスピーカーから、雑音が流れる。非常ベルとは違う音だった。全員が天井を見る。


『御厨澪さん』


男の声。教室の澪が二階で返事をしたかは聞こえない。踊り場の澪は、口を閉じた。


『お迎えが来ています』


放送が切れる。高井が無線へ手を伸ばす。


「正門を閉めて。誰も入れないで」


若い警察官が走る。二度目の雑音。


『御厨澪さん』


今度は少し近い声だった。


『一人だけ、迎えに来ています』


澪の左胸から、黒い線が浮かんだ。細い線が制服の上を這い、階段を下りる。正門の方向へ伸びている。二階から佐伯先生の声がした。


「こちらにも出ています!」


教室の澪の黒い線は、西棟の奥へ向いていた。同じ名前を呼ばれた二人から、線は別の方向へ伸びた。湊は澪の手を強く握る。


「痛いです」


「ごめん」


それでも少ししか緩めなかった。正門の無線から、若い警察官の声が入る。


『男性一名。御厨澪の保護者を名乗っています』


高井が訊く。


「名前は」


『御厨黎一』


澪の黒い線が、一度だけ脈打った。湊の切れた指から、ハンカチへ血が広がる。名前を消した紙の次は、見ていない人の中から澪が消えた。今度は、消えかけた本人を迎えに来た男がいる。赤い警報灯が点滅する校舎の中で、湊は初めて思った。黎一は話し合いに来たのではない。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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