第十三話 一人になる手前で
午後零時四十六分。
非常ベルは止まっていたが、廊下の警報灯はまだ赤く点滅していた。御厨黎一が西棟へ入る。正門で保護者を名乗ったため、警察官が前後を挟み、身元と目的を確認しながら連れてきた。逮捕ではない。神社での刃は残らず、監視映像にも暴行は映っていなかった。手錠はなく、右手には透明な書類袋がある。
「ここで止まってください」
高井が階段の前へ立つ。黎一は止まり、踊り場の澪を見る。次に、二階の教室を見上げた。教室の中にも、同じ顔がいる。
「二人を確認しましたか」
高井が訊く。
「見えている」
「どちらも御厨澪と名乗っています」
黎一は答えず、書類袋から一枚の紙を出した。校長が朝に送った事故報告の写しだった。在籍生徒、御厨澪。もう一名、氏名欄は空白。その下に、保護者引き取りの申出書がある。
「身元を確認できない方を、御厨家で引き取る」
黎一が言った。踊り場の澪の黒い線が濃くなる。
「本人の同意は」
高井が訊く。
「未成年だ」
「本人の同意が不要とは言っていません」
「学校の生徒は学校へ残せばいい。こちらは家へ戻す」
黎一は、踊り場の澪を指した。
「こちらとは誰ですか」
澪が訊く。
「お前だ」
「名前を呼んでください」
黎一の指が止まる。
「御厨澪」
二階の教室からも返事がした。
「はい」
踊り場の澪も答える。
「はい」
静まり返った廊下で、二つの声が重なった。
「どちらを呼びましたか」
教室の澪が、扉のガラス越しに訊く。黎一は踊り場の澪を見る。
「黒瀬家から来た方だ」
「それは名前ではありません」
「今は、それで十分だ」
「私を家へ連れていくためには?」
「そうだ」
「教室にいる私は」
「学校の記録が残す」
教室の澪の顔が白くなった。黎一はもう一度歩き出す。高井が腕を広げる。
「引き渡しません」
「保護者だ」
「二人のうち一人だけを連れ出す根拠がない」
「根拠は記録にある」
「その紙は、今朝の異常を記した事故報告です。所有権を決める書類ではありません」
黎一の目が細くなる。
「所有ではない。戻すだけだ」
「どこへ」
高井の質問に、黎一は答えなかった。議論を続ける気はなかった。警察官の横を抜けようとする。一人が肩を押さえる。黎一はその手を振り払い、踊り場へ二歩進んだ。澪が後ずさる。黒い線が階段の下へ引かれた。
「来い」
「行きません」
「お前をこのままにすれば、八月十五日に一人へ戻る」
「私だけを連れていけば、今日から一人です」
澪の声が震えた。黎一が腕を伸ばす。高井が間へ入る。
「触らないでください」
「家族に触れるなと言うのか」
「嫌がっている子に触るなと言っています」
黎一は高井を睨んだ。その時、先頭の警察官が事故報告の空白欄を見て、踊り場の澪から目を外した。もう一人も無線へ「対象児童一名」と答える。ほんの数秒、二人の中から教室外の澪が抜け落ちた。
黒い線が強く脈打つ。階段の距離が縮み、黎一は警察官の間を抜けた。大人が遅れたのではない。目の前の人数を、一瞬だけ誤らされた。
「止めろ!」
颯真が叫ぶ。警察官が追う。黎一は教室前へ着き、扉を開けた。教室の澪までの距離が伸びる。十歩だったはずの床が、奥へ引き延ばされる。机が細く遠ざかる。澪は扉へ走った。進んでも進んでも届かない。
「動くな!」
黎一が怒鳴る。
「どちらへ言ってる!」
颯真が階段を駆け上がる。左腕を吊ったまま、黎一の背中へぶつかった。二人が扉の横へ倒れる。直哉が颯真を引き起こす。
「片腕で突っ込むな!」
「口だけじゃ止まらねえだろ!」
踊り場の澪も階段を上がってくる。黒い線が正門側へ引いている。足を進めるほど、線が胸元へ食い込んだ。湊はその手を掴んだ。
「待って」
「もう一人が中にいます」
「分かってる」
「離してください」
「また見えなくなる」
「それでも行きます」
湊の切れた指が痛む。朝、教室の紙を先にした。今度は廊下にいる澪を手で止めている。守るつもりで、また一人の行き先を決めようとしていた。湊は手を離した。澪は階段を駆け上がる。
「湊!」
直哉が呼ぶ。湊も追った。教室の中では、もう一人の澪が走り続けている。扉は目の前にあるのに、距離だけが縮まらない。踊り場から来た澪が、扉のガラスへ両手をついた。
「止まって!」
教室の澪には声が届いていない。ガラスの向こうで、唇だけが動く。
助けて。
そう言ったように見えた。廊下の澪が扉を開ける。教室の床がさらに伸びる。扉と澪の間に、白い隙間が生まれた。細い線。壁でも床でもない白さ。湊は、兄の葬儀の日に見た白い重なりを思い出す。
「閉めて!」
佐伯先生が叫ぶ。廊下の澪は扉を閉めようとする。その時、黎一が床から起き上がり、扉を掴んだ。
「開けろ」
「嫌です」
「中の澪を、学校の場所へ固定する」
「私を御厨家へ固定するためですか」
「二人とも残すには、それしかない」
「叔父さまが決めた場所には行きません」
黎一が扉を強く引いた。高井と警察官が腕を押さえる。扉が半分だけ閉じる。ガラスが枠の中で軋んだ。教室の澪が白い隙間の手前で転ぶ。立ち上がろうとするが、床が足を引いているように見える。廊下の澪がガラスを叩いた。
「私を見て!」
声は届かない。
「私の方を見て!」
教室の澪が顔を上げる。目が合った。床の伸びが止まる。廊下の澪は扉の隙間へ手を入れた。
「届きますか」
教室の澪も手を伸ばす。指先まで、あと少し。黎一が警察官を振り切ろうとした。扉が大きく揺れる。ガラスに亀裂が走った。
「手を引いて!」
高井が叫ぶ。
遅かった。
ガラスが割れる。教室の澪の左手へ、細い破片が刺さった。血が掌を流れる。それでも手を引かなかった。廊下の澪が、割れた穴からその手を掴む。二人が初めて、直接触れた。教室の澪の身体が濃くなる。廊下の澪の輪郭が薄くなる。壁の色が制服の向こうへ透けた。
「離せ!」
黎一が叫ぶ。
「一人になる!」
廊下の澪は手を離さない。
「私が消えるなら」
「言うな!」
教室の澪が叫んだ。
「勝手に決めないで!」
二人の声は、もう重ならなかった。
一人は泣いている。
一人は怒っている。
湊は扉へ走った。
どちらを掴む。
廊下にいる澪は、今にも透けそうだ。教室にいる澪は、血を流している。一瞬だけ、身体が先に動いた。湊は廊下の澪の腕を掴んだ。
見えている方。
手の届く方。
朝、名前の消えた方。守らなければと思った方。教室の澪の顔が歪んだ。
「また、そちらを先にするんですね」
湊の胸が止まる。また選んだ。今度は紙ではない。手で選んだ。湊は廊下の澪を離さないまま、割れたガラスへ右手を突っ込んだ。破片が掌を切る。痛みより先に、教室の澪の手首を掴んだ。
「二人とも掴む!」
「無理です」
「無理でも離さない!」
扉の左右から、二人の重さが湊の腕を引く。身体が前へ倒れる。割れたガラスが肩へ近づく。颯真が湊の腰を抱えた。
「馬鹿! だったら俺も使え!」
「兄ちゃん、腕!」
「右は動く!」
直哉が颯真の背中を掴む。佐伯先生が直哉を支える。子ども三人と大人二人が、一本の鎖になる。高井たちは黎一を床へ押さえつける。
「離せ!」
黎一が叫ぶ。
「二人を同じ場所へ出せば、どちらかが消える!」
湊は歯を食いしばった。
「だったら、俺ごと引っ張れ!」
理屈はなかった。
正しいかも分からない。
二人を一人にしない方法も知らない。ただ、どちらかの手を離した後で、また守るつもりだったと言いたくなかった。廊下の澪の輪郭がさらに薄くなる。教室の澪の血が、湊の手へ流れる。
「叔父さま!」
二人が同時に叫んだ。黎一が顔を上げる。
「どちらを助けたいんですか!」
教室の澪。
「どちらを家へ連れて帰るんですか!」
廊下の澪。黎一の口が開く。答えが出ない。黒い線が、黎一の手首から二本伸びている。一本は教室へ。一本は廊下の澪へ。黎一自身が、二つに引かれていた。
「澪を」
声が潰れる。
「どちらの澪ですか!」
湊が叫ぶ。黎一は目を閉じた。
「どちらもだ」
同じ瞬間、二人が自分の名を叫び、湊と颯真と直哉と佐伯先生が別々の身体を掴んだ。割れたガラスには二人分の血が付き、廊下と教室の双方へ足跡が残る。
白い隙間が縮んだ。廊下の澪の輪郭が戻り、教室の床も元の長さへ戻り始める。黎一の言葉だけで戻ったとは書けない。二人の声、二つの場所、複数の手、二つの血痕が同時に残った。それらのどれか、または組み合わせが作用した可能性だけが残った。
「引け!」
颯真が叫ぶ。湊と颯真、直哉、佐伯先生が同時に身体を後ろへ倒す。割れた扉の隙間から、教室の澪が廊下へ引き出される。膝から床へ落ちた。もう一人の澪も倒れる。二人は手を握ったままだった。警報灯が、その瞬間だけ消えた。廊下には、二人の荒い呼吸だけが残った。
午後一時九分。
教室前廊下に、御厨澪が二人いる。高井が無線へ告げる。若い警察官が二人を目で確認する。校長も、児童相談所の職員も、教育委員会の男も見ている。教室の中には誰も残っていない。黎一は警察官に両腕を押さえられたまま、二人を見ていた。
「署で話を聞きます」
高井が言う。
「八月十五日まで十一日だ」
黎一は立たされる。
「今日止めても、場所の方が選ぶ」
高井は返事をしなかった。颯真が吐き捨てる。
「次は記録じゃなくて証拠持ってこい」
黎一は颯真を見たが、何も言わなかった。階段を下りていく。二人の澪は、床へ座ったまま互いの手を見ていた。教室にいた澪の左掌には、深い切り傷がある。もう一人の掌には、何もない。養護教諭が駆けつけ、傷へガーゼを当てる。
「これで、見分けられますね」
傷を負った澪が言った。笑っていなかった。もう一人の澪が、その手を包む。
「傷で呼ばないでください」
「では、何と」
「御厨澪です」
「二人とも?」
「はい」
傷を負った澪は、しばらく黙った後、頷いた。湊の右掌からも血が出ている。直哉が包帯を巻く。
「今度こそ、考えてから動け」
「考えたら、また選ぶ」
「考えないことと、選ばないことは違う」
湊は答えなかった。廊下の澪が、湊を見る。
「私は、湊君が先に掴んだ方です」
湊の顔が熱くなる。
「ごめん」
「謝れば戻るとは思っていません」
「分かってる」
「忘れないでください」
「忘れない」
「私を、かわいそうだった方にもしないでください」
湊は頷いた。傷を負った澪も湊を見る。
「私は、後から掴まれた方です」
「ごめん」
「同じ言葉ですね」
「他に分からない」
「今は、それでいいです」
許されたわけではなかった。二人とも、湊が一度選んだことを覚えている。湊の掌にも、選んだ後で両方を掴んだ傷が残った。
午後一時二十一分。
二人の澪が、並んで保健室へ歩き始める。一人の左手には白い包帯。もう一人の手には何もない。同じ顔をした二人は、初めて遠くからでも分かる違いを持った。廊下の床には、割れたガラスと血が残っている。同じ色だった。落ちた場所は、二つだった。
その日の夕方、黒瀬家へ戻った湊は、最初に工具箱を見た。
蓋へ刻んだ「宗一郎」の三文字が消えていた。五つの点だけが残っている。
居間には宗一郎がいる。名前を呼ぶと振り返った。それでも、空の左袖の隣で右手が工具箱へ伸び、止まらない。
箱の内側から、金属音が一度だけ鳴った。
カチリ。
封じた懐中時計の、内蓋が鳴る音だった
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