第十四話 祖父の手を縛った
カチリ。
工具箱の内側から鳴った音に、宗一郎の右手が動いた。
目より先だった。
床へ置かれた箱へ向かって指が伸びる。直哉が靴下のまま工具箱を蹴り、畳の端まで滑らせた。
「親父、触るな」
宗一郎は止まらなかった。
立ち上がろうとして膝をつき、空の左袖を床へ擦りながら、右手だけを前へ出す。湊は祖父の腰へ抱きついた。
「祖父ちゃん!」
細い身体から、老人とは思えない力が返ってきた。湊の傷ついた右掌が服へ押しつけられ、包帯の下で痛みが弾ける。
颯真が工具箱の前へ回り込んだ。
「来んな、爺さん」
左腕を吊ったまま、右足で箱をさらに遠ざける。宗一郎の指が畳を掻いた。
「宗一郎!」
佳乃が名前を呼んだ。
宗一郎の肩が震えた。
右手の動きが止まり、ゆっくり顔を上げる。目の前にいる湊を見て、次に畳の端の工具箱を見る。
「……私は、何をしていた」
「箱を開けようとしてた」
「鍵は」
直哉の顔が硬くなった。
宗一郎は自分が口にした言葉へ驚いていた。工具箱の鍵が封筒へ入っていることは覚えているらしい。
だが、自分の名前は工具箱から消えている。
「祖父ちゃん、離れて」
湊が腰へ回した腕を緩めると、宗一郎の右手がまたわずかに動いた。
本人も気づいた。
「離すな」
「え?」
「私を箱から離せ」
宗一郎は右腕を胸へ押しつけようとした。左手がないため、押さえられない。
「縛れ」
直哉が眉を寄せる。
「そこまでする必要はない」
「もう一度鳴れば、止まれる保証がない」
「だったら俺が押さえる」
「お前は眠る」
宗一郎は直哉を見た。
「私も眠る。その後、この手が何をするか分からん」
佳乃が物置から荷造り用の紐を持ってきた。直哉は受け取らなかった。
「親父を椅子に縛れっていうのか」
「お前ができないなら、私が――」
宗一郎の右手が、また工具箱の方へ引かれた。
湊は紐を取った。
「僕がやる」
「湊」
「父さんができないなら、僕がやる」
言いながら、胸の中が気持ち悪くなった。
一人で決めるなと言った。本人に選ばせろとも言った。
それでも今は、祖父の手を動かなくしようとしている。
颯真が椅子を引いた。
「座れ、爺さん」
宗一郎は逆らわなかった。食卓の椅子へ腰を下ろし、右腕を肘掛けの代わりになる背板へ置く。
湊は手首へ紐を回した。
一周。
二周。
結び目を作ろうとすると、傷ついた掌がうまく動かない。
「貸せ」
颯真が口を挟む。
「僕がやる」
「手、血が出てるだろ」
「僕がやる」
湊は歯で紐を引いた。
宗一郎の手首へ細い溝ができる。きつすぎると思い、少し緩めようとした。
カチリ。
工具箱が鳴った。
宗一郎の右腕が跳ねた。紐が一気に張り、手首の皮膚が赤く擦れる。
湊は結び目を締めた。
宗一郎が短く息を吐いた。
「それでいい」
「痛い?」
「痛くなければ、抜こうとする」
湊は紐から手を離した。自分の包帯にも赤い染みが広がっている。
工具箱の蓋には、五つの点だけが残っていた。
颯真が強く打った歪んだ点。直哉の深い点。佳乃の浅い点。澪の針先のような点。湊の血が染み込んだ点。
その横にあった三文字は、傷ごと消えている。
「名前、もう一回打つ?」
湊が訊く。
宗一郎は首を横へ振った。
「今打っても、同じだ」
「やってみないと分からない」
「分からないから、私を傷として残し続けるのか」
湊は言い返せなかった。
宗一郎は五つの点を見つめた。
「私は打たなかったのだな」
「祖父ちゃんには打たせなかった」
「なぜだ」
「自分で自分を残そうとしたら、また一人で決めるから」
それを言ったのは湊だった。
正しいと思っていた。今も間違いだったとは言えない。
宗一郎は怒らなかった。
「そうか」
右手の指が一本ずつ曲がる。紐の強さを確かめている。
「なら、私が消える時、私自身には止められない」
「消えないよ」
湊はすぐに言った。
宗一郎は返事をしなかった。
午後六時二十二分。
直哉の携帯電話が鳴った。
高井からだった。
直哉は通話をスピーカーへ切り替える。
『二人の御厨澪は、市立病院の同じ病室にいます。一人だけ左掌に縫合が必要な傷があります。児童相談所の職員と女性警察官が付き添っています』
「分けてないんですね」
佳乃が訊く。
『本人たちが拒否しました。医師も、現時点で無理に離すべきではないと判断しています』
湊は少しだけ肩の力を抜いた。
「黎一は?」
『任意で話を聞いています。逮捕ではありません』
颯真が舌打ちする。
「また帰すのかよ」
『神社の件も学校の件も、映像と物証が足りません。ただし、学校への接近を控えるよう伝え、今夜は所在を確認します』
「控えろで聞く奴じゃない」
『その意見も記録します』
高井の声は変わらなかった。
『学校は西棟を閉鎖しました。消防の出動記録、非常ベルの操作記録、避難した人数は残っています。黒瀬湊君の行為については、明日改めて事情を聞きます』
湊は切れた掌を握った。
「怒られる?」
『私が決めることではありません』
「澪が消えそうだった」
『分かっています』
「じゃあ、押してよかった?」
電話の向こうで、わずかな沈黙があった。
『助けるためなら、どの非常ベルを押してもよいとは言えません』
湊の胃が縮む。
『ただ、君が押した後に大勢が御厨澪を見たことも、彼女の輪郭が戻ったことも、なかったことにはしません』
正しいとも、間違いとも言われなかった。
その方が苦しかった。
高井が続ける。
『黒瀬さん。ご自宅に、今回の出来事と関係する可能性がある危険物はありますか』
全員が工具箱を見る。
直哉はすぐに答えなかった。
宗一郎の右手が紐の中で動く。
湊は、ないと言ってほしかった。警察へ渡せば、時計を止める方法まで家からなくなる気がした。
だが直哉は言った。
「あります」
「父さん」
「銀色の懐中時計です。金属製の工具箱へ入れて施錠しています」
『開けましたか』
「開けていません。ただ、箱の中から音がしました」
高井は時刻を確認した。
『鍵はどこです』
佳乃が食器棚の上から封筒を取った。封は破れていない。
「ここにあります」
『今から受け取りに行きます。箱には触れないでください』
通話が切れた。
「鍵まで渡すの?」
湊が言う。
「家に置いて、祖父ちゃんが取りに行ったらどうする」
「縛ってる」
「一晩中か」
直哉の声が強くなる。
湊は黙った。
宗一郎が口を開く。
「鍵だけ渡せ」
「箱も持っていってもらう」
「それは駄目だ」
「どうして」
「分からない」
直哉の顎が動いた。
「またそれか」
「分からない物を、町の中へ動かすなと言っている」
「家族の近くならいいのか」
「よくない」
「じゃあどうする」
宗一郎は答えなかった。
颯真が工具箱を見たまま言う。
「鍵だけ外へ出せ。箱を壊そうとしたら、俺が爺さんを蹴る」
「怪我人が言うな」
直哉が返す。
「右足は無傷」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ父さんが蹴れよ」
「蹴らない」
「甘いな」
宗一郎が、ほんの少し口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
午後六時三十六分、高井が若い警察官と一緒に来た。
玄関で、宗一郎が椅子へ縛られていることを確認する。驚いた顔はしたが、すぐに紐と手首の状態を見た。
「本人の同意はありますか」
「私が頼んだ」
宗一郎が答える。
「痺れは」
「ある」
「締めすぎです」
高井は結び目を少し緩めた。宗一郎の指が動ける程度には血が戻る。それでも手首は椅子から外れない。
封筒は、その場で透明な証拠袋へ入れられた。
「鍵は一本だけですか」
「私が作った物なら、一本だけだ」
「自信がないんですか」
「箱を作ったことは、手が覚えている。鍵を何本作ったかは、頭に残っていない」
高井は宗一郎の言葉も書いた。
工具箱は家へ残すことになった。移動によって何が起きるか分からず、現時点では中身も確認できない。玄関と居間へ簡易の封印テープを貼り、誰かが箱へ触れれば分かるようにした。
「触れたら連絡してください」
「開いたら?」
湊が訊く。
「離れて、連絡してください」
「中に誰かいたら?」
高井のペンが止まる。
「人の声が聞こえた場合も、開けずに連絡してください」
「助けてって言われても?」
「一人で決めないでください」
湊は高井の顔を見た。
その言葉が嫌いになりかけていた。
大人が迷った時に、何もしないための言葉にも聞こえる。
高井は湊の表情へ気づいたが、言い直さなかった。
「明日の午前九時に、学校で話を聞きます。非常ベルだけではありません。ガラスを割った経緯と、二人の御厨澪についてもです」
「学校は閉まってるんじゃないの」
「西棟以外の会議室を使います」
「澪も来る?」
「医師が許可すれば」
高井たちは鍵を持って帰った。
玄関の扉が閉じる。
車の音が遠ざかり、家の中へ夕食の匂いだけが残った。
誰も昼からまともに食べていない。
佳乃は冷えていた味噌汁を温め直した。宗一郎の右手は椅子へ縛られたままだったため、佳乃が椀を持つ。
「自分で食べられる」
「その手を外せないでしょう」
「口へ入れるくらいは」
「どうやって」
宗一郎は答えなかった。
颯真が箸で豆腐を一つ持ち上げる。
「ほら、爺さん。あーん」
「やめろ」
「食わないと弱るぞ」
「お前に食わせてもらうくらいなら弱る」
「かわいくねえな」
颯真は豆腐を自分で食べた。
湊は少し笑った。
笑った直後、工具箱が鳴った。
カチリ。
壁時計を見る。
午後六時四十二分。
宗一郎の右手が跳ねた。緩められた紐へ指を差し込み、結び目を引こうとする。
直哉が肩を押さえた。
「鍵はもうない」
宗一郎は工具箱を見たまま答えた。
「鍵は、外蓋のための物だ」
湊の笑いが消えた。
「内蓋は?」
宗一郎の喉が動く。
「内側から開くなら、鍵は要らない」
「誰が開けるの」
「知らん」
「祖父ちゃんの手が知ってる?」
宗一郎は右手を見る。
指は工具箱へ向かい、空中を掻いていた。
「開け方は知っている」
「開けたら、また誰か消える?」
「分からない」
颯真が椅子の脚を蹴った。
「分からないしか言えねえなら、黙ってろ」
「お前が死ねば、私は開ける」
宗一郎が言った。
颯真の顔から怒りが消える。
「今、俺は死んでない」
「ああ」
「だったら開けるな」
「ああ」
宗一郎は返事をした。
それでも右手は止まらなかった。
湊のポケットが熱くなる。
金属片。
八月十五日午後九時十三分。
『次は、宗一郎を止めろ。』
湊が取り出すと、工具箱の中で何かが擦れた。
宗一郎の表情が変わる。
「近づけるな」
今まで、金属片を見せろと言い続けた祖父が、初めて拒んだ。
「どうして」
「それは、内蓋の欠けた部分かもしれん」
「戻したら?」
宗一郎の右手が激しく紐を引いた。
「開く」
直哉が湊の手から金属片を取ろうとする。
湊は反射的に引いた。
「渡せ」
「嫌だ」
「今度は何を一人で決める気だ」
「父さんに渡したら、警察へ持っていく」
「持っていく」
「外の兄ちゃんと話せなくなるかもしれない!」
言ってから、自分が何を優先したのか分かった。
工具箱より、宗一郎より、二人の澪より。
外にいる颯真とのつながりを残したいと思った。
現在の颯真が、湊の手首を掴んだ。
「俺がいるだろ」
「分かってる」
「分かってねえ顔してる」
「外の兄ちゃんが消えたら嫌なんだ」
「俺が消えるのも嫌だって言えよ」
「嫌だよ!」
「先に言え!」
颯真が金属片を奪った。
湊は取り返そうとして兄の吊った左腕へ触れた。颯真が痛みに顔を歪める。
二人の動きが止まった。
工具箱から、音がした。
カチリではなかった。
木を叩くような音。
一度。
間を置いて、二度。
もう一度、三度。
湊は玄関の引き戸を見た。
外の颯真が初めて現れた夜と同じだった。
「兄ちゃん」
現在の颯真は金属片を握ったまま、工具箱を見る。
「決めつけるな」
「でも」
「まだ声は聞こえてない」
三度目の音が止む。
静かになった箱へ、宗一郎の右手が三回、指を打ちつけた。
椅子の木が鳴る。
一度。
二度。
三度。
工具箱の内側から、同じ回数だけ音が返った。
宗一郎は、自分の右手を見ていた。
「今の、祖父ちゃんがやったの?」
「違う」
「動かしたでしょ」
「私が動かしたんじゃない」
紐の下で、宗一郎の指がもう一度持ち上がる。
今度は、自分で押さえようとしていた。
押さえる左手はなかった。
工具箱の中で、内蓋が鳴る。
カチリ。
湊は兄の手にある金属片を見た。
端の黒い焦げ跡が、白くなり始めていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
続きが気になった方は、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。




