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時は復讐を忘れない  作者: 23
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第十四話 祖父の手を縛った

カチリ。


工具箱の内側から鳴った音に、宗一郎の右手が動いた。


目より先だった。


床へ置かれた箱へ向かって指が伸びる。直哉が靴下のまま工具箱を蹴り、畳の端まで滑らせた。


「親父、触るな」


宗一郎は止まらなかった。


立ち上がろうとして膝をつき、空の左袖を床へ擦りながら、右手だけを前へ出す。湊は祖父の腰へ抱きついた。


「祖父ちゃん!」


細い身体から、老人とは思えない力が返ってきた。湊の傷ついた右掌が服へ押しつけられ、包帯の下で痛みが弾ける。


颯真が工具箱の前へ回り込んだ。


「来んな、爺さん」


左腕を吊ったまま、右足で箱をさらに遠ざける。宗一郎の指が畳を掻いた。


「宗一郎!」


佳乃が名前を呼んだ。


宗一郎の肩が震えた。


右手の動きが止まり、ゆっくり顔を上げる。目の前にいる湊を見て、次に畳の端の工具箱を見る。


「……私は、何をしていた」


「箱を開けようとしてた」


「鍵は」


直哉の顔が硬くなった。


宗一郎は自分が口にした言葉へ驚いていた。工具箱の鍵が封筒へ入っていることは覚えているらしい。


だが、自分の名前は工具箱から消えている。


「祖父ちゃん、離れて」


湊が腰へ回した腕を緩めると、宗一郎の右手がまたわずかに動いた。


本人も気づいた。


「離すな」


「え?」


「私を箱から離せ」


宗一郎は右腕を胸へ押しつけようとした。左手がないため、押さえられない。


「縛れ」


直哉が眉を寄せる。


「そこまでする必要はない」


「もう一度鳴れば、止まれる保証がない」


「だったら俺が押さえる」


「お前は眠る」


宗一郎は直哉を見た。


「私も眠る。その後、この手が何をするか分からん」


佳乃が物置から荷造り用の紐を持ってきた。直哉は受け取らなかった。


「親父を椅子に縛れっていうのか」


「お前ができないなら、私が――」


宗一郎の右手が、また工具箱の方へ引かれた。


湊は紐を取った。


「僕がやる」


「湊」


「父さんができないなら、僕がやる」


言いながら、胸の中が気持ち悪くなった。


一人で決めるなと言った。本人に選ばせろとも言った。


それでも今は、祖父の手を動かなくしようとしている。


颯真が椅子を引いた。


「座れ、爺さん」


宗一郎は逆らわなかった。食卓の椅子へ腰を下ろし、右腕を肘掛けの代わりになる背板へ置く。


湊は手首へ紐を回した。


一周。


二周。


結び目を作ろうとすると、傷ついた掌がうまく動かない。


「貸せ」


颯真が口を挟む。


「僕がやる」


「手、血が出てるだろ」


「僕がやる」


湊は歯で紐を引いた。


宗一郎の手首へ細い溝ができる。きつすぎると思い、少し緩めようとした。


カチリ。


工具箱が鳴った。


宗一郎の右腕が跳ねた。紐が一気に張り、手首の皮膚が赤く擦れる。


湊は結び目を締めた。


宗一郎が短く息を吐いた。


「それでいい」


「痛い?」


「痛くなければ、抜こうとする」


湊は紐から手を離した。自分の包帯にも赤い染みが広がっている。


工具箱の蓋には、五つの点だけが残っていた。


颯真が強く打った歪んだ点。直哉の深い点。佳乃の浅い点。澪の針先のような点。湊の血が染み込んだ点。


その横にあった三文字は、傷ごと消えている。


「名前、もう一回打つ?」


湊が訊く。


宗一郎は首を横へ振った。


「今打っても、同じだ」


「やってみないと分からない」


「分からないから、私を傷として残し続けるのか」


湊は言い返せなかった。


宗一郎は五つの点を見つめた。


「私は打たなかったのだな」


「祖父ちゃんには打たせなかった」


「なぜだ」


「自分で自分を残そうとしたら、また一人で決めるから」


それを言ったのは湊だった。


正しいと思っていた。今も間違いだったとは言えない。


宗一郎は怒らなかった。


「そうか」


右手の指が一本ずつ曲がる。紐の強さを確かめている。


「なら、私が消える時、私自身には止められない」


「消えないよ」


湊はすぐに言った。


宗一郎は返事をしなかった。


午後六時二十二分。


直哉の携帯電話が鳴った。


高井からだった。


直哉は通話をスピーカーへ切り替える。


『二人の御厨澪は、市立病院の同じ病室にいます。一人だけ左掌に縫合が必要な傷があります。児童相談所の職員と女性警察官が付き添っています』


「分けてないんですね」


佳乃が訊く。


『本人たちが拒否しました。医師も、現時点で無理に離すべきではないと判断しています』


湊は少しだけ肩の力を抜いた。


「黎一は?」


『任意で話を聞いています。逮捕ではありません』


颯真が舌打ちする。


「また帰すのかよ」


『神社の件も学校の件も、映像と物証が足りません。ただし、学校への接近を控えるよう伝え、今夜は所在を確認します』


「控えろで聞く奴じゃない」


『その意見も記録します』


高井の声は変わらなかった。


『学校は西棟を閉鎖しました。消防の出動記録、非常ベルの操作記録、避難した人数は残っています。黒瀬湊君の行為については、明日改めて事情を聞きます』


湊は切れた掌を握った。


「怒られる?」


『私が決めることではありません』


「澪が消えそうだった」


『分かっています』


「じゃあ、押してよかった?」


電話の向こうで、わずかな沈黙があった。


『助けるためなら、どの非常ベルを押してもよいとは言えません』


湊の胃が縮む。


『ただ、君が押した後に大勢が御厨澪を見たことも、彼女の輪郭が戻ったことも、なかったことにはしません』


正しいとも、間違いとも言われなかった。


その方が苦しかった。


高井が続ける。


『黒瀬さん。ご自宅に、今回の出来事と関係する可能性がある危険物はありますか』


全員が工具箱を見る。


直哉はすぐに答えなかった。


宗一郎の右手が紐の中で動く。


湊は、ないと言ってほしかった。警察へ渡せば、時計を止める方法まで家からなくなる気がした。


だが直哉は言った。


「あります」


「父さん」


「銀色の懐中時計です。金属製の工具箱へ入れて施錠しています」


『開けましたか』


「開けていません。ただ、箱の中から音がしました」


高井は時刻を確認した。


『鍵はどこです』


佳乃が食器棚の上から封筒を取った。封は破れていない。


「ここにあります」


『今から受け取りに行きます。箱には触れないでください』


通話が切れた。


「鍵まで渡すの?」


湊が言う。


「家に置いて、祖父ちゃんが取りに行ったらどうする」


「縛ってる」


「一晩中か」


直哉の声が強くなる。


湊は黙った。


宗一郎が口を開く。


「鍵だけ渡せ」


「箱も持っていってもらう」


「それは駄目だ」


「どうして」


「分からない」


直哉の顎が動いた。


「またそれか」


「分からない物を、町の中へ動かすなと言っている」


「家族の近くならいいのか」


「よくない」


「じゃあどうする」


宗一郎は答えなかった。


颯真が工具箱を見たまま言う。


「鍵だけ外へ出せ。箱を壊そうとしたら、俺が爺さんを蹴る」


「怪我人が言うな」


直哉が返す。


「右足は無傷」


「そういう問題じゃない」


「じゃあ父さんが蹴れよ」


「蹴らない」


「甘いな」


宗一郎が、ほんの少し口元を動かした。


笑ったのかもしれない。


午後六時三十六分、高井が若い警察官と一緒に来た。


玄関で、宗一郎が椅子へ縛られていることを確認する。驚いた顔はしたが、すぐに紐と手首の状態を見た。


「本人の同意はありますか」


「私が頼んだ」


宗一郎が答える。


「痺れは」


「ある」


「締めすぎです」


高井は結び目を少し緩めた。宗一郎の指が動ける程度には血が戻る。それでも手首は椅子から外れない。


封筒は、その場で透明な証拠袋へ入れられた。


「鍵は一本だけですか」


「私が作った物なら、一本だけだ」


「自信がないんですか」


「箱を作ったことは、手が覚えている。鍵を何本作ったかは、頭に残っていない」


高井は宗一郎の言葉も書いた。


工具箱は家へ残すことになった。移動によって何が起きるか分からず、現時点では中身も確認できない。玄関と居間へ簡易の封印テープを貼り、誰かが箱へ触れれば分かるようにした。


「触れたら連絡してください」


「開いたら?」


湊が訊く。


「離れて、連絡してください」


「中に誰かいたら?」


高井のペンが止まる。


「人の声が聞こえた場合も、開けずに連絡してください」


「助けてって言われても?」


「一人で決めないでください」


湊は高井の顔を見た。


その言葉が嫌いになりかけていた。


大人が迷った時に、何もしないための言葉にも聞こえる。


高井は湊の表情へ気づいたが、言い直さなかった。


「明日の午前九時に、学校で話を聞きます。非常ベルだけではありません。ガラスを割った経緯と、二人の御厨澪についてもです」


「学校は閉まってるんじゃないの」


「西棟以外の会議室を使います」


「澪も来る?」


「医師が許可すれば」


高井たちは鍵を持って帰った。


玄関の扉が閉じる。


車の音が遠ざかり、家の中へ夕食の匂いだけが残った。


誰も昼からまともに食べていない。


佳乃は冷えていた味噌汁を温め直した。宗一郎の右手は椅子へ縛られたままだったため、佳乃が椀を持つ。


「自分で食べられる」


「その手を外せないでしょう」


「口へ入れるくらいは」


「どうやって」


宗一郎は答えなかった。


颯真が箸で豆腐を一つ持ち上げる。


「ほら、爺さん。あーん」


「やめろ」


「食わないと弱るぞ」


「お前に食わせてもらうくらいなら弱る」


「かわいくねえな」


颯真は豆腐を自分で食べた。


湊は少し笑った。


笑った直後、工具箱が鳴った。


カチリ。


壁時計を見る。


午後六時四十二分。


宗一郎の右手が跳ねた。緩められた紐へ指を差し込み、結び目を引こうとする。


直哉が肩を押さえた。


「鍵はもうない」


宗一郎は工具箱を見たまま答えた。


「鍵は、外蓋のための物だ」


湊の笑いが消えた。


「内蓋は?」


宗一郎の喉が動く。


「内側から開くなら、鍵は要らない」


「誰が開けるの」


「知らん」


「祖父ちゃんの手が知ってる?」


宗一郎は右手を見る。


指は工具箱へ向かい、空中を掻いていた。


「開け方は知っている」


「開けたら、また誰か消える?」


「分からない」


颯真が椅子の脚を蹴った。


「分からないしか言えねえなら、黙ってろ」


「お前が死ねば、私は開ける」


宗一郎が言った。


颯真の顔から怒りが消える。


「今、俺は死んでない」


「ああ」


「だったら開けるな」


「ああ」


宗一郎は返事をした。


それでも右手は止まらなかった。


湊のポケットが熱くなる。


金属片。


八月十五日午後九時十三分。


『次は、宗一郎を止めろ。』


湊が取り出すと、工具箱の中で何かが擦れた。


宗一郎の表情が変わる。


「近づけるな」


今まで、金属片を見せろと言い続けた祖父が、初めて拒んだ。


「どうして」


「それは、内蓋の欠けた部分かもしれん」


「戻したら?」


宗一郎の右手が激しく紐を引いた。


「開く」


直哉が湊の手から金属片を取ろうとする。


湊は反射的に引いた。


「渡せ」


「嫌だ」


「今度は何を一人で決める気だ」


「父さんに渡したら、警察へ持っていく」


「持っていく」


「外の兄ちゃんと話せなくなるかもしれない!」


言ってから、自分が何を優先したのか分かった。


工具箱より、宗一郎より、二人の澪より。


外にいる颯真とのつながりを残したいと思った。


現在の颯真が、湊の手首を掴んだ。


「俺がいるだろ」


「分かってる」


「分かってねえ顔してる」


「外の兄ちゃんが消えたら嫌なんだ」


「俺が消えるのも嫌だって言えよ」


「嫌だよ!」


「先に言え!」


颯真が金属片を奪った。


湊は取り返そうとして兄の吊った左腕へ触れた。颯真が痛みに顔を歪める。


二人の動きが止まった。


工具箱から、音がした。


カチリではなかった。


木を叩くような音。


一度。


間を置いて、二度。


もう一度、三度。


湊は玄関の引き戸を見た。


外の颯真が初めて現れた夜と同じだった。


「兄ちゃん」


現在の颯真は金属片を握ったまま、工具箱を見る。


「決めつけるな」


「でも」


「まだ声は聞こえてない」


三度目の音が止む。


静かになった箱へ、宗一郎の右手が三回、指を打ちつけた。


椅子の木が鳴る。


一度。


二度。


三度。


工具箱の内側から、同じ回数だけ音が返った。


宗一郎は、自分の右手を見ていた。


「今の、祖父ちゃんがやったの?」


「違う」


「動かしたでしょ」


「私が動かしたんじゃない」


紐の下で、宗一郎の指がもう一度持ち上がる。


今度は、自分で押さえようとしていた。


押さえる左手はなかった。


工具箱の中で、内蓋が鳴る。


カチリ。


湊は兄の手にある金属片を見た。


端の黒い焦げ跡が、白くなり始めていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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