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時は復讐を忘れない  作者: 23
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第十五話 箱の中の兄

工具箱の内側から、三度叩く音が返った。


宗一郎の指も、椅子の背を三度叩いた。紐に擦れた手首から血がにじむ。本人は指を止めようと歯を食いしばっているのに、爪だけが木を探っていた。


「祖父ちゃん、聞こえてるの」


湊が訊くと、宗一郎は首を振った。


「音ではない。右手が、次を知っている」


「次って何だよ」


颯真が金属片を握った。焦げ跡の白さは端から文字へ近づいている。『次は、宗一郎を止めろ』の最後の一文字が、熱を持ったように浮いた。


工具箱の封印テープが、中央からゆっくり裂けた。


誰も触れていない。


直哉が湊と颯真を背中で押し下げた。


「玄関へ行け。母さん、警察に電話」


「父さんは」


「箱を見てる」


「一人で?」


直哉が振り向く。その一瞬に、工具箱の蓋が一ミリ浮いた。


カチリ。


宗一郎の右腕が紐を引きちぎった。古い荷造り紐が床へ落ち、椅子が倒れる。宗一郎は工具箱へ飛びつかなかった。反対に、自分の右手を食卓の脚へ叩きつけた。


鈍い音がした。


「祖父ちゃん!」


「手を、折れ」


宗一郎は息を切らした。


「今のうちに」


「できるわけないだろ!」


直哉が右腕を抱える。宗一郎は父親の胸へ額をぶつけ、工具箱から顔をそむけた。


「なら、名前を呼べ。私ではない名を」


湊は意味が分からなかった。颯真が先に工具箱を睨む。


「外の俺か」


宗一郎の右手が止まった。


箱の中で、何かが床を引っかいた。


湊は玄関へ走り、靴箱の上に置いたノートを取った。七月三十一日の葬儀から残した記録。兄が死んだ履歴と、生きている今が同じ紙に書かれている。ページを開き、工具箱の前へ置く。


「黒瀬颯真」


現在の兄が顔をしかめた。


「どっちだよ」


「分からない。だから二人とも呼ぶ」


湊は葬儀の日付へ指を置いた。


「ここで死んだ兄ちゃん。玄関の外から三回叩いた兄ちゃん。聞こえるなら、もう一回」


工具箱は沈黙した。


佳乃が通報を終え、玄関の戸を開けた。夏の湿った風が居間へ流れ込む。遠くで救急車の音がした。


颯真が鼻で笑う。


「都合よく返事するかよ」


その声に重なるように、一度、箱が鳴った。


間を置いて、二度。


三度。


現在の颯真から笑いが消えた。


「俺の声に返した?」


湊は工具箱へ近づこうとした。直哉が服の襟を掴む。


「離れてろ」


「声が届くなら、聞かないと」


「開けずに聞け」


「近くじゃないと聞こえない」


「さっき聞こえただろ」


言い争う間にも、蓋の隙間は広がっていた。黒い線が一本、工具箱の下から伸び、宗一郎の右手首へ巻きつく。もう一本は金属片へ向かう。


颯真は金属片を畳へ置いた。


線が進路を変えた。


今度は颯真の胸へ向かった。


「下がれ!」


直哉が叫ぶ。颯真は動かなかった。吊った左腕の先で、黒い線が二つに分かれた。一方は目の前の颯真へ、もう一方は工具箱へ潜る。


箱の内側で、同じ位置にいる誰かが線を引いている。


「俺だ」


颯真が呟いた。


「決めつけるなって言ったでしょ」


「俺なら分かる。あいつ、助けてじゃなくて、出せって叩いてる」


三度の音が強くなる。蓋が跳ねるたび、封印テープが裂けていく。


宗一郎が直哉の腕の中で叫んだ。


「金属片を遠ざけろ! 欠けた内蓋が揃えば、接続が始まる!」


湊は畳の金属片を拾った。掌の傷が開き、血が銀色の表面へ付く。白くなった焦げ跡がそこで止まった。


箱の中の音も止まる。


全員の息だけが居間に残った。


「血?」


佳乃が言った。


湊は金属片を見た。以前にも、血が付いた物だけが別の履歴から残った。だが説明を考えるより先に、工具箱の下の黒い線が湊の傷へ入り込んだ。


右腕が冷える。


指先の感覚が消えた。


金属片を落とそうとしても、手が開かない。


「湊!」


颯真が右手を掴む。兄の体温に触れた瞬間、湊の耳元で声がした。


『そいつを、箱から離せ』


颯真の声だった。


目の前の颯真も、同じ言葉を言った。


「それ、箱から離せ」


二つの声は最後の一音だけずれた。


湊は握ったまま玄関へ走った。直哉が戸を全開にする。外へ一歩出ると黒い線が腕から剥がれ、工具箱へ戻った。手が開く。金属片は玄関のたたきへ落ちた。


同時に工具箱の蓋も閉じた。


高井の車が門の前へ止まった。


午後六時五十一分。


警察官が居間へ入り、裂けた封印テープ、切れた紐、宗一郎の手首、玄関に落ちた金属片を順に確認する。高井は工具箱へ近づかず、湊へ訊いた。


「声は、何と言いましたか」


湊は目の前の颯真を見た。


兄は答えを急かさなかった。


「そいつを、箱から離せ」


「誰の声ですか」


「兄ちゃんです」


「ここにいる颯真君の?」


湊は首を振った。


「同じ声。でも、少し遅かった」


高井は現在の颯真にも確認した。


「あなたも同じ言葉を言った?」


「俺は言った。あっちは知らない」


「あっちとは」


颯真は工具箱を顎で示す。


「死んだ俺だよ」


その言葉を口にした途端、吊った左腕の包帯の下で何かが動いた。颯真が顔を歪める。直哉が袖をまくる。


左腕にあった黒い線が、手首まで伸びていた。


線の先は、玄関ではない。


工具箱を指していた。


箱の内側から、一度だけ音が返った。


高井はその音を聞いても、工具箱へ近づかなかった。


「全員、今いる位置から動かないでください」


若い警察官へ玄関と窓を確認させ、居間の見取りを手帳へ描く。箱は畳の南端。宗一郎は食卓の横。金属片は玄関のたたき。颯真と湊は箱から二メートルほど離れている。怪異の説明ではなく、何か起きた時に誰が触れたかを曖昧にしないためだった。


「箱は、先ほどから移動しましたか」


「俺が蹴った」


颯真が答える。


「最初の音の後、畳の端まで。親父が戻して、その後は動かしていない」


直哉が補う。高井は裂けた封印テープへ顔を近づけた。触れずに懐中電灯を斜めから当てる。


「切れたのではありません。粘着面が、内側から押された形です」


「箱は施錠してある」


直哉が言う。


「鍵も警察が持っています」


「承知しています。だから、開けません」


高井は明言した。


湊は玄関の金属片を見る。外の颯真へ繋がるかもしれない物を、昨夜は父へ渡したくなかった。今も、警察に持っていかれるのは嫌だった。


「それも預かります」


高井が言った。


湊は先に拾おうと足を出した。


颯真の右手が胸を押し戻す。


「今ここにいる俺を見ろって言っただろ」


「見てるよ」


「じゃあ、俺の腕から線が出た物を取りに行くな」


「外の兄ちゃんが、箱から離せって教えた」


「あいつが自分を出すために嘘をついてるかもしれない」


「兄ちゃんだって、あいつを消したいからそう言ってるかもしれない」


颯真の手が離れた。


湊は言った後で、兄の顔を見た。左腕の痛みより、そこを突かれた方が効いていた。


「そうだよ」


颯真は低く答えた。


「俺はあいつが邪魔だ。家の外で声も出せないまま消えればいいって、まだ思ってる」


佳乃が名前を呼ぶ。


「颯真」


「今、綺麗なこと言わせるなよ。二人とも息子だって言われるたび、俺が半分になる」


颯真は湊から目を逸らさない。


「だから、あいつの言うことを信じるな。俺の言うことも信じるな。箱から離れて、大人に取らせろ」


高井が若い警察官へ合図する。厚手の革手袋を着け、長い火ばさみで金属片を拾わせた。金属片は透明な保存容器へ入り、蓋が閉じられる。湊の血は銀色の表面に残ったままだった。


容器が工具箱から遠ざかるほど、颯真の左腕の黒い線は薄くなった。完全には消えない。高井は時刻と距離を書いたが、因果とは記さなかった。


「今夜は箱のある部屋を空けます」


「家を出ろってことですか」


佳乃が訊く。


「全員を同じ場所へ移す方が安全かは分かりません。黒瀬さん夫妻とお子さん二人は二階。宗一郎さんは、本人の同意を得て居間から離れた部屋へ。警察官を玄関と廊下へ一人ずつ置きます」


宗一郎が首を振る。


「私は箱の音を聞く」


「止められない手でですか」


高井の言葉は厳しかった。


「あなたが聞かなければ判断できない情報は、今ありますか」


宗一郎は答えなかった。


「分からない物から離れるのも、判断です」


「離れた先で、右手だけが戻るかもしれん」


「その時は身体を押さえます。箱の前で試す必要はありません」


高井は宗一郎を説明役にしなかった。直哉と若い警察官が椅子ごと廊下へ運ぶ。宗一郎は抵抗しなかったが、右手の指だけは工具箱へ向いていた。


箱から三メートル離れたところで、指が止まる。


四メートルで、また三度動いた。


一度。


二度。


三度。


工具箱は返さなかった。


宗一郎の顔に安堵ではなく恐怖が浮かぶ。


「向こうが聞こえなくなった」


「外の兄ちゃんが?」


湊は訊いた。


「誰かは分からん。だが、私の手は返事を待っている」


午後七時二十六分。


市立病院から高井の携帯へ連絡が入った。二人の澪は同じ病室におり、一人の左掌は三針縫合された。二人とも離して事情を聞くことを拒み、翌朝までは女性職員が付き添う。


高井は電話を湊へ渡さなかった。ただし二人が安全であることは、その場で全員へ伝えた。


「声を聞きたい」


「今は治療後です。家族でもありません」


「でも、二人が箱のことを知ってるかもしれない」


「それは君が声を聞きたい理由とは別ですね」


湊は黙った。


心配している。謝りたい。二人の澪なら、この箱が誰を呼んでいるか考えられるかもしれない。全部が混ざっていた。


「明日の朝、本人たちが望めば話せます」


高井は拒絶だけで終わらせなかった。


「それまで、君は何をしますか」


湊は工具箱を見る。すぐに答えれば、また正しいことを言うだけになる。


「兄ちゃんのそばにいる」


「どっちのだよ」


颯真が刺すように訊く。


湊は一度、工具箱へ目を向けた。それから、目の前で左腕を吊っている兄の隣へ座る。


「今は、ここにいる兄ちゃん」


颯真は満足しなかった。


「今は、って付けるな」


「ずっとって言ったら嘘になる」


「分かってるよ」


兄は右肩で湊を小さく押した。追い払うほど強くはなかった。


夜九時十三分。


工具箱は鳴らなかった。


代わりに、警察官の持つ保存容器の中で金属片が三度震えた。颯真の左腕の黒い線が、箱ではなく玄関へ向きを変える。


湊は立ち上がらなかった。


現在の颯真の右手を掴んだまま、高井を呼んだ。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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