第十五話 箱の中の兄
工具箱の内側から、三度叩く音が返った。
宗一郎の指も、椅子の背を三度叩いた。紐に擦れた手首から血がにじむ。本人は指を止めようと歯を食いしばっているのに、爪だけが木を探っていた。
「祖父ちゃん、聞こえてるの」
湊が訊くと、宗一郎は首を振った。
「音ではない。右手が、次を知っている」
「次って何だよ」
颯真が金属片を握った。焦げ跡の白さは端から文字へ近づいている。『次は、宗一郎を止めろ』の最後の一文字が、熱を持ったように浮いた。
工具箱の封印テープが、中央からゆっくり裂けた。
誰も触れていない。
直哉が湊と颯真を背中で押し下げた。
「玄関へ行け。母さん、警察に電話」
「父さんは」
「箱を見てる」
「一人で?」
直哉が振り向く。その一瞬に、工具箱の蓋が一ミリ浮いた。
カチリ。
宗一郎の右腕が紐を引きちぎった。古い荷造り紐が床へ落ち、椅子が倒れる。宗一郎は工具箱へ飛びつかなかった。反対に、自分の右手を食卓の脚へ叩きつけた。
鈍い音がした。
「祖父ちゃん!」
「手を、折れ」
宗一郎は息を切らした。
「今のうちに」
「できるわけないだろ!」
直哉が右腕を抱える。宗一郎は父親の胸へ額をぶつけ、工具箱から顔をそむけた。
「なら、名前を呼べ。私ではない名を」
湊は意味が分からなかった。颯真が先に工具箱を睨む。
「外の俺か」
宗一郎の右手が止まった。
箱の中で、何かが床を引っかいた。
湊は玄関へ走り、靴箱の上に置いたノートを取った。七月三十一日の葬儀から残した記録。兄が死んだ履歴と、生きている今が同じ紙に書かれている。ページを開き、工具箱の前へ置く。
「黒瀬颯真」
現在の兄が顔をしかめた。
「どっちだよ」
「分からない。だから二人とも呼ぶ」
湊は葬儀の日付へ指を置いた。
「ここで死んだ兄ちゃん。玄関の外から三回叩いた兄ちゃん。聞こえるなら、もう一回」
工具箱は沈黙した。
佳乃が通報を終え、玄関の戸を開けた。夏の湿った風が居間へ流れ込む。遠くで救急車の音がした。
颯真が鼻で笑う。
「都合よく返事するかよ」
その声に重なるように、一度、箱が鳴った。
間を置いて、二度。
三度。
現在の颯真から笑いが消えた。
「俺の声に返した?」
湊は工具箱へ近づこうとした。直哉が服の襟を掴む。
「離れてろ」
「声が届くなら、聞かないと」
「開けずに聞け」
「近くじゃないと聞こえない」
「さっき聞こえただろ」
言い争う間にも、蓋の隙間は広がっていた。黒い線が一本、工具箱の下から伸び、宗一郎の右手首へ巻きつく。もう一本は金属片へ向かう。
颯真は金属片を畳へ置いた。
線が進路を変えた。
今度は颯真の胸へ向かった。
「下がれ!」
直哉が叫ぶ。颯真は動かなかった。吊った左腕の先で、黒い線が二つに分かれた。一方は目の前の颯真へ、もう一方は工具箱へ潜る。
箱の内側で、同じ位置にいる誰かが線を引いている。
「俺だ」
颯真が呟いた。
「決めつけるなって言ったでしょ」
「俺なら分かる。あいつ、助けてじゃなくて、出せって叩いてる」
三度の音が強くなる。蓋が跳ねるたび、封印テープが裂けていく。
宗一郎が直哉の腕の中で叫んだ。
「金属片を遠ざけろ! 欠けた内蓋が揃えば、接続が始まる!」
湊は畳の金属片を拾った。掌の傷が開き、血が銀色の表面へ付く。白くなった焦げ跡がそこで止まった。
箱の中の音も止まる。
全員の息だけが居間に残った。
「血?」
佳乃が言った。
湊は金属片を見た。以前にも、血が付いた物だけが別の履歴から残った。だが説明を考えるより先に、工具箱の下の黒い線が湊の傷へ入り込んだ。
右腕が冷える。
指先の感覚が消えた。
金属片を落とそうとしても、手が開かない。
「湊!」
颯真が右手を掴む。兄の体温に触れた瞬間、湊の耳元で声がした。
『そいつを、箱から離せ』
颯真の声だった。
目の前の颯真も、同じ言葉を言った。
「それ、箱から離せ」
二つの声は最後の一音だけずれた。
湊は握ったまま玄関へ走った。直哉が戸を全開にする。外へ一歩出ると黒い線が腕から剥がれ、工具箱へ戻った。手が開く。金属片は玄関のたたきへ落ちた。
同時に工具箱の蓋も閉じた。
高井の車が門の前へ止まった。
午後六時五十一分。
警察官が居間へ入り、裂けた封印テープ、切れた紐、宗一郎の手首、玄関に落ちた金属片を順に確認する。高井は工具箱へ近づかず、湊へ訊いた。
「声は、何と言いましたか」
湊は目の前の颯真を見た。
兄は答えを急かさなかった。
「そいつを、箱から離せ」
「誰の声ですか」
「兄ちゃんです」
「ここにいる颯真君の?」
湊は首を振った。
「同じ声。でも、少し遅かった」
高井は現在の颯真にも確認した。
「あなたも同じ言葉を言った?」
「俺は言った。あっちは知らない」
「あっちとは」
颯真は工具箱を顎で示す。
「死んだ俺だよ」
その言葉を口にした途端、吊った左腕の包帯の下で何かが動いた。颯真が顔を歪める。直哉が袖をまくる。
左腕にあった黒い線が、手首まで伸びていた。
線の先は、玄関ではない。
工具箱を指していた。
箱の内側から、一度だけ音が返った。
高井はその音を聞いても、工具箱へ近づかなかった。
「全員、今いる位置から動かないでください」
若い警察官へ玄関と窓を確認させ、居間の見取りを手帳へ描く。箱は畳の南端。宗一郎は食卓の横。金属片は玄関のたたき。颯真と湊は箱から二メートルほど離れている。怪異の説明ではなく、何か起きた時に誰が触れたかを曖昧にしないためだった。
「箱は、先ほどから移動しましたか」
「俺が蹴った」
颯真が答える。
「最初の音の後、畳の端まで。親父が戻して、その後は動かしていない」
直哉が補う。高井は裂けた封印テープへ顔を近づけた。触れずに懐中電灯を斜めから当てる。
「切れたのではありません。粘着面が、内側から押された形です」
「箱は施錠してある」
直哉が言う。
「鍵も警察が持っています」
「承知しています。だから、開けません」
高井は明言した。
湊は玄関の金属片を見る。外の颯真へ繋がるかもしれない物を、昨夜は父へ渡したくなかった。今も、警察に持っていかれるのは嫌だった。
「それも預かります」
高井が言った。
湊は先に拾おうと足を出した。
颯真の右手が胸を押し戻す。
「今ここにいる俺を見ろって言っただろ」
「見てるよ」
「じゃあ、俺の腕から線が出た物を取りに行くな」
「外の兄ちゃんが、箱から離せって教えた」
「あいつが自分を出すために嘘をついてるかもしれない」
「兄ちゃんだって、あいつを消したいからそう言ってるかもしれない」
颯真の手が離れた。
湊は言った後で、兄の顔を見た。左腕の痛みより、そこを突かれた方が効いていた。
「そうだよ」
颯真は低く答えた。
「俺はあいつが邪魔だ。家の外で声も出せないまま消えればいいって、まだ思ってる」
佳乃が名前を呼ぶ。
「颯真」
「今、綺麗なこと言わせるなよ。二人とも息子だって言われるたび、俺が半分になる」
颯真は湊から目を逸らさない。
「だから、あいつの言うことを信じるな。俺の言うことも信じるな。箱から離れて、大人に取らせろ」
高井が若い警察官へ合図する。厚手の革手袋を着け、長い火ばさみで金属片を拾わせた。金属片は透明な保存容器へ入り、蓋が閉じられる。湊の血は銀色の表面に残ったままだった。
容器が工具箱から遠ざかるほど、颯真の左腕の黒い線は薄くなった。完全には消えない。高井は時刻と距離を書いたが、因果とは記さなかった。
「今夜は箱のある部屋を空けます」
「家を出ろってことですか」
佳乃が訊く。
「全員を同じ場所へ移す方が安全かは分かりません。黒瀬さん夫妻とお子さん二人は二階。宗一郎さんは、本人の同意を得て居間から離れた部屋へ。警察官を玄関と廊下へ一人ずつ置きます」
宗一郎が首を振る。
「私は箱の音を聞く」
「止められない手でですか」
高井の言葉は厳しかった。
「あなたが聞かなければ判断できない情報は、今ありますか」
宗一郎は答えなかった。
「分からない物から離れるのも、判断です」
「離れた先で、右手だけが戻るかもしれん」
「その時は身体を押さえます。箱の前で試す必要はありません」
高井は宗一郎を説明役にしなかった。直哉と若い警察官が椅子ごと廊下へ運ぶ。宗一郎は抵抗しなかったが、右手の指だけは工具箱へ向いていた。
箱から三メートル離れたところで、指が止まる。
四メートルで、また三度動いた。
一度。
二度。
三度。
工具箱は返さなかった。
宗一郎の顔に安堵ではなく恐怖が浮かぶ。
「向こうが聞こえなくなった」
「外の兄ちゃんが?」
湊は訊いた。
「誰かは分からん。だが、私の手は返事を待っている」
午後七時二十六分。
市立病院から高井の携帯へ連絡が入った。二人の澪は同じ病室におり、一人の左掌は三針縫合された。二人とも離して事情を聞くことを拒み、翌朝までは女性職員が付き添う。
高井は電話を湊へ渡さなかった。ただし二人が安全であることは、その場で全員へ伝えた。
「声を聞きたい」
「今は治療後です。家族でもありません」
「でも、二人が箱のことを知ってるかもしれない」
「それは君が声を聞きたい理由とは別ですね」
湊は黙った。
心配している。謝りたい。二人の澪なら、この箱が誰を呼んでいるか考えられるかもしれない。全部が混ざっていた。
「明日の朝、本人たちが望めば話せます」
高井は拒絶だけで終わらせなかった。
「それまで、君は何をしますか」
湊は工具箱を見る。すぐに答えれば、また正しいことを言うだけになる。
「兄ちゃんのそばにいる」
「どっちのだよ」
颯真が刺すように訊く。
湊は一度、工具箱へ目を向けた。それから、目の前で左腕を吊っている兄の隣へ座る。
「今は、ここにいる兄ちゃん」
颯真は満足しなかった。
「今は、って付けるな」
「ずっとって言ったら嘘になる」
「分かってるよ」
兄は右肩で湊を小さく押した。追い払うほど強くはなかった。
夜九時十三分。
工具箱は鳴らなかった。
代わりに、警察官の持つ保存容器の中で金属片が三度震えた。颯真の左腕の黒い線が、箱ではなく玄関へ向きを変える。
湊は立ち上がらなかった。
現在の颯真の右手を掴んだまま、高井を呼んだ。
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