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時は復讐を忘れない  作者: 23
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第十六話 同じ病室の違う朝

八月五日、午前六時十二分。


病室の洗面台には、同じ歯ブラシが二本あった。


看護師が気を利かせて色を分けた。青と桃色。左掌を縫った澪は青を取り、傷のない澪は桃色を取った。どちらも色に好みはなかった。ただ、同時に同じ物へ手を伸ばすのが嫌だった。


「替えますか」


傷のない澪が訊く。


「もう使いました」


「そうではなく、色を」


「どちらでも同じです」


「では、青で」


「はい」


会話は終わった。鏡の中で、同じ顔が並んで歯を磨く。一人の左手には厚い包帯があり、もう一人にはない。違いはそれだけだった。


傷のある澪が水を止める。


「髪を切ります」


もう一人の歯ブラシが止まった。


「傷で見分けられたくないからですか」


「傷が治ったら、また同じになります」


「私が切ります」


「なぜ」


「先に外へいたのは私です。変わるなら私が」


「そうやって、また先を取るんですか」


桃色の歯ブラシを持つ手が下がった。


怒ったのは、傷のある澪だった。教室の中に残され、最後に掴まれた方。怒りを見せると、もう一人の澪はいつも引いた。それが余計に腹立たしかった。


「譲られるのも、選ばれるのと同じです」


「では、どうすれば」


「私に訊かないでください」


病室の戸口で、佐伯先生が立ち止まった。二人の会話を聞いたらしい。手には学校から持ってきた紙袋がある。


「入ってもいい?」


二人が同時に頷き、同時に嫌な顔をした。


佐伯先生はベッドの間の椅子へ座った。紙袋から体操服、教科書、髪を結ぶゴムを二組出す。どちらにも名前は書かれていなかった。


「学校が勝手に分けるのはやめました」


傷のない澪が訊く。


「名簿は」


「まだ一人分。教育委員会と児童相談所が話してる」


「私たち抜きで?」


「今日は二人とも来てもらう。医師が許せば」


傷のある澪が包帯を見た。


「同じ学校へ二人は在籍できませんか」


佐伯先生は、すぐに大丈夫と言わなかった。


「今の制度では、同じ戸籍、同じ生年月日、同じ保護者の子を二人として入力できない」


「では、どちらかが学校へ行けない」


「そうならないために、今日話す」


「話せば欄が増えますか」


「増えない。だから別の手続きを探す」


二人とも黙った。制度は二人を憎んでいない。ただ欄が一つしかない。その方が、黎一のように悪意を見つけられる相手より扱いづらかった。


佐伯先生は髪ゴムを机へ置いた。青と桃色だった。


傷のない澪が青を取った。


「歯ブラシと逆ですね」


傷のある澪が言う。


「変えたくなりました」


「私もです」


傷のある澪は桃色を取った。二人は鏡の前へ戻る。一人は髪を高く結び、もう一人は首の後ろで低く結んだ。


佐伯先生が名前を付けたのではない。


本人たちが、今日の結び方を選んだ。


午前七時三分。


看護師が朝食を運んできた。トレーは一つだった。


「あら」


看護師は二人を見て、廊下の配膳表を確認した。


「御厨澪さん、一食で――」


言い終える前に顔色が変わる。


「ごめんなさい。すぐ持ってきます」


傷のない澪が一つのトレーを傷のある澪へ押した。


「先に食べてください」


「待ちます」


「薬があります」


「一緒に食べます」


二人目の朝食が届くまで、味噌汁から湯気が消えた。


傷のある澪は、冷めた味噌汁から先に口へ運んだ。傷のない澪は焼き魚の皮を残す。七月三十一日までは、どちらも皮まで食べていた。


「嫌いになったんですか」


傷のある澪が訊く。


「昨夜、消毒薬の匂いで吐きそうになりました。皮の匂いが似ています」


「私は平気です」


「知っています」


「なぜ」


「隣で食べているからです」


同じ記憶ではなく、今朝の観察から出た答えだった。


傷のある澪は、自分の魚の皮を箸で剥がして相手の皿へ移しかけ、途中で止めた。


「要りますか」


「要りません」


「そうですか」


皮は自分で食べた。譲る前に訊く。断られたら、相手の分まで決めない。昨日までなら必要のなかった手間が、一つ増えた。


午前七時四十一分、担当医と女性警察官、児童相談所の職員が病室へ入った。担当医は二人分の紙カルテを持っている。病院の端末上では患者番号を一つしか発行できず、二枚目には臨時番号が手書きされていた。


「傷を縫った方から診ます」


医師が言う。


傷のある澪は立たなかった。


「傷のない私には診察が不要ですか」


「昨夜、外傷がないことは確認しています。体温と血圧は二人とも測ります」


「では、そう言ってください」


「ごめんなさい」


医師は言い直した。


「二人とも診ます。先に、縫合した左手を確認させてください」


傷のある澪が左手を出す。包帯を外すと、掌を横切る縫合糸が三本見えた。ガラスを掴んだ時の傷。教室から出られた証拠に見える一方、最後まで教室に残された結果でもある。


傷のない澪は、傷を見ないように窓へ顔を向けた。


「気分が悪い?」


医師が訊く。


「いいえ」


傷のある澪が口を挟む。


「私の傷を見たくないんです」


「あなたが決めないでください」


傷のない澪の声が強くなった。


「では、自分で言ってください」


「私が外にいた間、この人が傷ついたことを考えたくありません」


「どうして」


「安心してしまうからです」


病室にいた大人が黙った。


「違いができた。これで私がどちらか分かってもらえる。そう思った自分が嫌です」


傷のある澪は掌を引かなかった。


「私は、傷が消えなければいいと思いました」


「なぜ」


「治ったら、またあなたと同じになるからです」


二人とも相手の傷を願ってはいない。それでも、違いが残ることには安堵している。綺麗に仲直りできる言葉はなかった。


医師は傷の状態だけを説明した。感染兆候はなく、抜糸まで一週間ほど。痛み止めは一人分ではなく、負傷した本人の名で処方する。ただし端末上の患者番号が重複するため、薬剤部へ電話で確認し、写真付きの仮票を添える。


児童相談所の職員が二人へ訊く。


「今日、別々に話を聞かせてもらえますか」


「同じことを二回答えさせるためですか」


高く結ぶ前の、傷のない澪が言う。


「同じ答えかどうかを決めるためではありません。それぞれ、どこへ行きたいかを聞きます」


「答えが違ったら?」


「別々の希望として記録します」


「一人分しか欄がないのに」


職員は手元の用紙を見た。確かに、対象児童氏名の欄は一つだった。すぐに大丈夫とは言わず、用紙を横へ置く。


「白紙を二枚使います。書式には後で私たちが困ります」


「私たちを困らせないためですか」


「違います。あなたたちが別々に答えたことを、先に残すためです」


傷のある澪が頷いた。


「では、先に私から」


傷のない澪が彼女を見る。


「また先にしますか」


「先に答えたいからです。あなたを後にしたいからではありません」


「分かりました」


二人は初めて、自分から順番を選んだ。


聞き取りは同じ病室の両端で行われた。完全に声を遮れば相手が消えるかもしれないという恐怖があり、カーテンは半分だけ閉める。女性警察官が中央に座り、二人がいることを見続けた。


傷のある澪は、学校へ戻りたいと答えた。自分を残した教室がまだ閉鎖されているから、誰かに片づけられる前に見たい。


傷のない澪は、御厨家へは戻りたくないと答えた。黎一が連れて帰ろうとした家で眠れば、自分が叔父の選んだ一人になった気がする。


答えは違った。


「二人とも黒瀬家へ、ではないんですね」


職員が確認する。


「黒瀬家は、私たちの家ではありません」


傷のない澪が言う。


「助けてもらったことと、住む場所を渡すことは別です」


傷のある澪も、カーテンの向こうから答えた。


「湊君たちの近くが安全だとは、まだ決まっていません」


二人は黒瀬家に感謝していた。それでも守られる側へ収まらなかった。


午前八時二十分、湊たちが病室へ来た。右掌の包帯を巻き直した湊は、髪型の違いに戸口で気づいた。


「髪、変えたんだ」


「私たちが決めました」


高く結んだ澪が言う。


「どっちがどっちか、聞いてもいい?」


低く結んだ澪が湊を見る。


「昨日のどちらか、という意味ですか」


湊は頷きかけて、止めた。


「今日、どう呼べばいいか」


二人は顔を見合わせた。


「澪で」


「私も、澪で」


颯真が後ろから言った。


「返事が二つ来るぞ」


「必要な方を見て呼んでください」


高く結んだ澪が言う。


「見てない時は?」


「二人とも返事をします」


「面倒だな」


「はい」


低く結んだ澪が初めて少し笑った。


湊は昨夜のことを話した。工具箱、宗一郎の右手、内側からの三度の音、外の颯真と同じ声。二人の澪は途中で質問を挟まなかった。


話し終えると、高く結んだ澪が颯真の左腕を見る。


「線はまだ箱へ向いていますか」


「今は消えてる」


「昨夜、箱の中へ誰かがいたと考えていますか」


「湊はな」


「兄ちゃんもでしょ」


「俺は、いるなら殴る相手が増えたと思ってるだけだ」


低く結んだ澪は窓の外を見た。


「叔父さまは、二人の颯真さんを選別しようとしていました」


「ああ」


「でも昨日は、二人の私を『どちらも』と言った」


「信用するの?」


湊が訊く。


「しません。ただ、叔父さまにも選べなかった。それは使えます」


「何に」


「私たちを一人として届けた記録を、叔父さま自身に訂正させます」


高く結んだ澪が顔を上げる。


「学校へ行きます」


低く結んだ澪も頷いた。


「二人で」


病院の事務員が入ってきた。退院書類を二枚持っている。一枚目には御厨澪の名前。二枚目の患者氏名欄は空白だった。


事務員は紙を見下ろし、困った顔で言った。


「どちらの方に、こちらへ署名をお願いすれば」


二人の澪は同時に手を出さなかった。


高く結んだ澪が、空白の紙を指す。


「叔父さまに訊きます」


低く結んだ澪が、名前のある紙を裏返した。


「一枚しか直さないなら、二人とも署名しません」


二人は同じ病室を、違う髪型で出た。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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