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時は復讐を忘れない  作者: 23
17/40

第十七話 処分される救助

午前十時五分。


学校の会議室には、椅子が十二脚あった。


名札は十一枚しかなかった。


御厨澪と印刷された席は一つ。高く髪を結んだ澪が名札を持ち上げ、机の中央へ置く。低く結んだ澪が隣へ座った。


「どちらの席でもありません」


校長は眼鏡を外し、名札を裏返した。


「学校として、二人いることは確認しています」


「名簿は一人です」


「その修正を相談するための会議です」


教育委員会の男、児童相談所の職員、高井、佐伯先生、直哉、佳乃、湊、颯真が席につく。宗一郎は手首を痛め、自宅で警察官の見守りを受けていた。


黎一だけが来ていない。


会議室の窓から、閉鎖された西棟の一部が見えた。割れた教室扉には合板が打ちつけられ、廊下の警報灯は消えている。消防が回収した火災報知器の代わりに、赤い空洞だけが壁へ残っていた。


校門の外には保護者が十人ほど集まっている。昨夜から連絡網へ流れたのは、火災のない非常ベル、消防車二台、生徒の避難、校舎の一部閉鎖。同じ顔の生徒が二人いたという話まで、誰かが書き足していた。


「うちの子を危険な校舎へ戻すんですか」


廊下まで母親の声が届く。


「非常ベルを押した児童は、なぜ校内にいるんですか」


湊は椅子の上で背中を丸めた。あの時、澪の腕が薄くなった。押さなければ消えたかもしれない。それでも、外にいる親たちが階段の澪を見ていないことも分かる。彼らに残ったのは、火事がないのに子どもを校庭へ走らせた記録だった。


佐伯先生の机には、始末書が置かれている。校内で異常を追いながら管理職への報告が遅れたこと、夜間に生徒を西棟へ立ち入らせたこと。先生も処分の対象だった。


「先生も怒られるの」


湊が小声で訊く。


「怒られる、で終わらないかもしれません」


佐伯先生は書類を隠さなかった。


「でも湊君のせいだけではありません。私が決めたことは、私の責任です」


「僕が来たいって言った」


「止める権限がありました」


「止められなかった」


「止めなかった時もあります」


先生は自分を善意だけの側へ置かなかった。湊はそれ以上、庇えなかった。


湊は右掌を膝へ隠した。非常ベルを押した行為について、校長から処分を告げられると聞いていた。


「まず、黒瀬湊君」


校長が書類を開く。


「火災がない状態で非常ベルを作動させた。全校生徒の避難、消防出動、授業中断が発生しました」


「はい」


「危険な行為です」


「はい」


「一週間の登校停止とします」


佳乃が息を呑んだ。直哉は何も言わない。事前に聞いていた顔だった。


湊は校長を見た。


「澪は戻りました」


「そのことは否定しません」


「じゃあ、また消えそうになったら」


「非常ベルを押してよいとは言えません」


「何をすればいいんですか」


校長の答えが遅れた。


「教職員へ知らせる」


「先生が僕を見えなくなったら?」


「その時は――」


教育委員会の男が口を挟む。


「仮定を重ねても手順は作れません」


湊は男の胸元の名札を見た。昨日、西棟で二人の澪を見ていた。それでも机の名札は一枚だけだ。


「手順がないから押した」


「結果が良ければ規則違反がなくなるわけではありません」


「結果が悪かったら、澪が一人いなくなってた」


「湊」


直哉が止めた。


湊は口を閉じた。納得はしていない。処分を受ければ正しく反省したことになるとも思えなかった。


直哉が処分通知を自分の前へ引いた。


「保護者として異議申立てはできますか」


校長が頷く。


「できます。ただし、処分の効力は手続き中も続きます」


「申し立てます」


「父さん、別にいい」


「お前がよくても、救助の可能性を記録から外した処分は受け入れない」


「でもベルは押した」


「押した責任と、なぜ押したかは両方残す」


「僕を正しかったことにするの?」


「しない」


直哉の返事は早かった。


「お前が次も同じことをするなら止める。だが、学校が都合の悪い理由を消すなら、それも止める」


湊の味方をすることと、湊の行動を正しいと認めることを、父は一つにしなかった。


高く髪を結んだ澪が手を挙げる。


「私からも発言していいですか」


校長が頷く。


「湊君が非常ベルを押さなければ私が残れなかった、とは断定できません。ですが、押した後に私を見た人が増え、輪郭が戻ったのは事実です。その結果を含めて処分記録へ書いてください」


「記載します」


「学校を救ったとは書かなくていいです。私を救った可能性を消さないでください」


校長は、処分通知の余白へ自分で書き足した。


低く髪を結んだ澪も手を挙げた。縫合した左手は上げず、右手だった。


「私からは、湊君を処分しないでほしいとは言いません」


湊は彼女を見る。


「私を助けた可能性を理由に、次の危険な行動まで許されると困ります」


「そんなことしない」


「昨日も、考える前にガラスへ手を入れました」


湊の右掌が包帯の中で疼く。


「でも、私を後から掴みました」


「ごめん」


「今は謝罪を求めていません」


澪は校長へ向き直る。


「助かった結果と、危険だった行為を、別々に書いてください」


「分かりました」


校長はもう一行を書いた。会議のために用意された処分通知が、余白の追記で予定と違う文書になっていく。


湊は嬉しくなかった。澪に庇わせたからだ。


「次に、二人の在籍についてです」


教育委員会の男が端末を回した。画面には御厨澪の学籍番号が一つ表示されている。


「現行の台帳では同一番号を二名へ付与できません。仮の校内管理番号を一つ発行し、正式な身元確認まで――」


「どちらへ正式な番号を残しますか」


低く結んだ澪が訊く。


男は言葉を選んだ。


「現在の原簿と一致する方です」


「どうやって一致させますか」


「指紋、歯科記録、家族関係、生活記憶」


「全部同じだったら」


「医学的な確認を待ちます」


「傷がある方を新しい番号にしますか」


傷のある低い髪の澪が、包帯を机へ置いた。


「そういう意味ではありません」


「でも、違いは使うのでしょう」


児童相談所の職員が、病院で使った白紙二枚を机へ置いた。二人が別々に希望した行き先が書かれている。


「少なくとも、同じ希望を持つ一人としては扱いません。一人は学校へ戻りたい。一人は御厨家へ戻りたくない。答えが違います」


教育委員会の男が紙を読む。


「正式な本人確認ではありません」


「本人確認の代わりではなく、今日の希望です」


「記録体系が違う」


「だから別添にします」


職員は引かなかった。制度同士が同じ答えを出すわけではない。教育委員会は学籍を決め、児童相談所は安全と希望を記録する。それぞれの欄が噛み合わないため、二人の澪は間に落ちる。だが、その不一致自体が二人の答えを残していた。


会議室の戸が開いた。


黎一が入ってきた。


高井が立ち上がる。


「学校へ来ないよう伝えたはずです」


「呼ばれた」


黎一は封筒を掲げた。差出人は教育委員会。保護者として会議へ出席を求める通知だった。


男の顔色が変わる。


「一名分の保護者欄に登録されていたため、自動送信が」


「手順は作れないのではなかったか」


黎一が空いた席へ座る。二人の澪は叔父を見たが、立たなかった。


「叔父さま」


高く結んだ澪が、病院の退院書類を差し出した。


「御厨家へ戻すと言ったのは、どちらですか」


「二人ともだ」


答えは早かった。


低く結んだ澪が事故報告の写しを出す。


「では、この空白を訂正してください」


「できない」


「なぜ」


「同じ名を二つ書けば、紙が一つを消す」


「叔父さまが一つを選んだからでは?」


黎一は黙った。


高井が訊く。


「以前にも同じことがあったんですね」


黎一は教育委員会の男ではなく、湊を見た。


「黒瀬家が颯真を戻した冬、御厨の戸籍から子どもが一人消えた」


「誰」


「澪の兄だ」


二人の澪が同時に息を止めた。


湊は初めて聞く名のない兄を、黎一の顔に探した。


「名前は」


黎一の指が封筒を潰す。


「残っていない」


「覚えてないの?」


「私だけは覚えている」


「じゃあ言って」


黎一は口を開いた。


声が出ない。


喉を押さえ、もう一度試す。息だけが漏れた。二人の澪が立つ。


叔父の手首から黒い線が伸び、会議室の名札へ刺さった。


裏返された一枚の名札に、薄い文字が浮かんだ。


御厨――。


姓の後ろは、濡れたように滲んで読めない。


黎一は名札を掴んだ。文字は指の下から消えた。


「これが支払いだ」


掠れた声が戻る。


「黒瀬が一人を残すたび、御厨から一人いなくなる」


湊は名札を奪い返した。


「証拠じゃない」


「お前の兄が箱を叩いた夜に、また御厨の名が消える」


「誰が」


黎一は二人の澪を見た。


今度は「どちらも」と言わなかった。


「今夜までに、片方の退院記録が消える」


低く髪を結んだ澪が、名前のある退院書類を破いた。


高く結んだ澪も、空白の紙を重ねて破る。


二枚の紙片が同じ机へ落ちた。


「消える前に、私たちが捨てました」


黎一の顔が初めて崩れた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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