第十七話 処分される救助
午前十時五分。
学校の会議室には、椅子が十二脚あった。
名札は十一枚しかなかった。
御厨澪と印刷された席は一つ。高く髪を結んだ澪が名札を持ち上げ、机の中央へ置く。低く結んだ澪が隣へ座った。
「どちらの席でもありません」
校長は眼鏡を外し、名札を裏返した。
「学校として、二人いることは確認しています」
「名簿は一人です」
「その修正を相談するための会議です」
教育委員会の男、児童相談所の職員、高井、佐伯先生、直哉、佳乃、湊、颯真が席につく。宗一郎は手首を痛め、自宅で警察官の見守りを受けていた。
黎一だけが来ていない。
会議室の窓から、閉鎖された西棟の一部が見えた。割れた教室扉には合板が打ちつけられ、廊下の警報灯は消えている。消防が回収した火災報知器の代わりに、赤い空洞だけが壁へ残っていた。
校門の外には保護者が十人ほど集まっている。昨夜から連絡網へ流れたのは、火災のない非常ベル、消防車二台、生徒の避難、校舎の一部閉鎖。同じ顔の生徒が二人いたという話まで、誰かが書き足していた。
「うちの子を危険な校舎へ戻すんですか」
廊下まで母親の声が届く。
「非常ベルを押した児童は、なぜ校内にいるんですか」
湊は椅子の上で背中を丸めた。あの時、澪の腕が薄くなった。押さなければ消えたかもしれない。それでも、外にいる親たちが階段の澪を見ていないことも分かる。彼らに残ったのは、火事がないのに子どもを校庭へ走らせた記録だった。
佐伯先生の机には、始末書が置かれている。校内で異常を追いながら管理職への報告が遅れたこと、夜間に生徒を西棟へ立ち入らせたこと。先生も処分の対象だった。
「先生も怒られるの」
湊が小声で訊く。
「怒られる、で終わらないかもしれません」
佐伯先生は書類を隠さなかった。
「でも湊君のせいだけではありません。私が決めたことは、私の責任です」
「僕が来たいって言った」
「止める権限がありました」
「止められなかった」
「止めなかった時もあります」
先生は自分を善意だけの側へ置かなかった。湊はそれ以上、庇えなかった。
湊は右掌を膝へ隠した。非常ベルを押した行為について、校長から処分を告げられると聞いていた。
「まず、黒瀬湊君」
校長が書類を開く。
「火災がない状態で非常ベルを作動させた。全校生徒の避難、消防出動、授業中断が発生しました」
「はい」
「危険な行為です」
「はい」
「一週間の登校停止とします」
佳乃が息を呑んだ。直哉は何も言わない。事前に聞いていた顔だった。
湊は校長を見た。
「澪は戻りました」
「そのことは否定しません」
「じゃあ、また消えそうになったら」
「非常ベルを押してよいとは言えません」
「何をすればいいんですか」
校長の答えが遅れた。
「教職員へ知らせる」
「先生が僕を見えなくなったら?」
「その時は――」
教育委員会の男が口を挟む。
「仮定を重ねても手順は作れません」
湊は男の胸元の名札を見た。昨日、西棟で二人の澪を見ていた。それでも机の名札は一枚だけだ。
「手順がないから押した」
「結果が良ければ規則違反がなくなるわけではありません」
「結果が悪かったら、澪が一人いなくなってた」
「湊」
直哉が止めた。
湊は口を閉じた。納得はしていない。処分を受ければ正しく反省したことになるとも思えなかった。
直哉が処分通知を自分の前へ引いた。
「保護者として異議申立てはできますか」
校長が頷く。
「できます。ただし、処分の効力は手続き中も続きます」
「申し立てます」
「父さん、別にいい」
「お前がよくても、救助の可能性を記録から外した処分は受け入れない」
「でもベルは押した」
「押した責任と、なぜ押したかは両方残す」
「僕を正しかったことにするの?」
「しない」
直哉の返事は早かった。
「お前が次も同じことをするなら止める。だが、学校が都合の悪い理由を消すなら、それも止める」
湊の味方をすることと、湊の行動を正しいと認めることを、父は一つにしなかった。
高く髪を結んだ澪が手を挙げる。
「私からも発言していいですか」
校長が頷く。
「湊君が非常ベルを押さなければ私が残れなかった、とは断定できません。ですが、押した後に私を見た人が増え、輪郭が戻ったのは事実です。その結果を含めて処分記録へ書いてください」
「記載します」
「学校を救ったとは書かなくていいです。私を救った可能性を消さないでください」
校長は、処分通知の余白へ自分で書き足した。
低く髪を結んだ澪も手を挙げた。縫合した左手は上げず、右手だった。
「私からは、湊君を処分しないでほしいとは言いません」
湊は彼女を見る。
「私を助けた可能性を理由に、次の危険な行動まで許されると困ります」
「そんなことしない」
「昨日も、考える前にガラスへ手を入れました」
湊の右掌が包帯の中で疼く。
「でも、私を後から掴みました」
「ごめん」
「今は謝罪を求めていません」
澪は校長へ向き直る。
「助かった結果と、危険だった行為を、別々に書いてください」
「分かりました」
校長はもう一行を書いた。会議のために用意された処分通知が、余白の追記で予定と違う文書になっていく。
湊は嬉しくなかった。澪に庇わせたからだ。
「次に、二人の在籍についてです」
教育委員会の男が端末を回した。画面には御厨澪の学籍番号が一つ表示されている。
「現行の台帳では同一番号を二名へ付与できません。仮の校内管理番号を一つ発行し、正式な身元確認まで――」
「どちらへ正式な番号を残しますか」
低く結んだ澪が訊く。
男は言葉を選んだ。
「現在の原簿と一致する方です」
「どうやって一致させますか」
「指紋、歯科記録、家族関係、生活記憶」
「全部同じだったら」
「医学的な確認を待ちます」
「傷がある方を新しい番号にしますか」
傷のある低い髪の澪が、包帯を机へ置いた。
「そういう意味ではありません」
「でも、違いは使うのでしょう」
児童相談所の職員が、病院で使った白紙二枚を机へ置いた。二人が別々に希望した行き先が書かれている。
「少なくとも、同じ希望を持つ一人としては扱いません。一人は学校へ戻りたい。一人は御厨家へ戻りたくない。答えが違います」
教育委員会の男が紙を読む。
「正式な本人確認ではありません」
「本人確認の代わりではなく、今日の希望です」
「記録体系が違う」
「だから別添にします」
職員は引かなかった。制度同士が同じ答えを出すわけではない。教育委員会は学籍を決め、児童相談所は安全と希望を記録する。それぞれの欄が噛み合わないため、二人の澪は間に落ちる。だが、その不一致自体が二人の答えを残していた。
会議室の戸が開いた。
黎一が入ってきた。
高井が立ち上がる。
「学校へ来ないよう伝えたはずです」
「呼ばれた」
黎一は封筒を掲げた。差出人は教育委員会。保護者として会議へ出席を求める通知だった。
男の顔色が変わる。
「一名分の保護者欄に登録されていたため、自動送信が」
「手順は作れないのではなかったか」
黎一が空いた席へ座る。二人の澪は叔父を見たが、立たなかった。
「叔父さま」
高く結んだ澪が、病院の退院書類を差し出した。
「御厨家へ戻すと言ったのは、どちらですか」
「二人ともだ」
答えは早かった。
低く結んだ澪が事故報告の写しを出す。
「では、この空白を訂正してください」
「できない」
「なぜ」
「同じ名を二つ書けば、紙が一つを消す」
「叔父さまが一つを選んだからでは?」
黎一は黙った。
高井が訊く。
「以前にも同じことがあったんですね」
黎一は教育委員会の男ではなく、湊を見た。
「黒瀬家が颯真を戻した冬、御厨の戸籍から子どもが一人消えた」
「誰」
「澪の兄だ」
二人の澪が同時に息を止めた。
湊は初めて聞く名のない兄を、黎一の顔に探した。
「名前は」
黎一の指が封筒を潰す。
「残っていない」
「覚えてないの?」
「私だけは覚えている」
「じゃあ言って」
黎一は口を開いた。
声が出ない。
喉を押さえ、もう一度試す。息だけが漏れた。二人の澪が立つ。
叔父の手首から黒い線が伸び、会議室の名札へ刺さった。
裏返された一枚の名札に、薄い文字が浮かんだ。
御厨――。
姓の後ろは、濡れたように滲んで読めない。
黎一は名札を掴んだ。文字は指の下から消えた。
「これが支払いだ」
掠れた声が戻る。
「黒瀬が一人を残すたび、御厨から一人いなくなる」
湊は名札を奪い返した。
「証拠じゃない」
「お前の兄が箱を叩いた夜に、また御厨の名が消える」
「誰が」
黎一は二人の澪を見た。
今度は「どちらも」と言わなかった。
「今夜までに、片方の退院記録が消える」
低く髪を結んだ澪が、名前のある退院書類を破いた。
高く結んだ澪も、空白の紙を重ねて破る。
二枚の紙片が同じ机へ落ちた。
「消える前に、私たちが捨てました」
黎一の顔が初めて崩れた。
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