第十八話 並んだ日付
黎一が会議室へ持ち込んだ封筒には、紙が四枚入っていた。
どれも古い帳面を撮影した写真だった。左側に日付。右側には住所、続柄、病院名らしい欄が並ぶ。肝心の氏名だけが、紙を切り取ったように白い。
一枚目の日付は、宗一郎が沙夜子の事故後に時計を開いた日。
二枚目は、颯真が生まれた日。
三枚目は、前年の冬。
四枚目は、七月三十一日。
宗一郎が時計を使った四回と同じだった。
「黒瀬が一人を残した日、別の家から一人分の名前が落ちた」
黎一は四枚を机へ並べた。
「偶然が四回続いたと思うか」
颯真が最初に手を伸ばした。直哉が止めるより早く、一番新しい写真を取る。七月三十一日の欄には、白く抜けた氏名の横へ『同居者一名減』と手書きされていた。
「これで誰が消えたか分かるのか」
「原本には分かる者がいた」
「お前は」
「今は、関係だけ覚えている」
「誰の何だよ」
黎一は答えなかった。
颯真が写真を机へ叩き戻す。
「俺が生きた日の横に空白がある。それで俺を殺していいことにはならねえ」
「殺すとは言っていない」
「余分な履歴を減らすんだろ。同じだ」
高井が二人の間へ透明な証拠袋を置いた。
「写真へ触れないでください。御厨さん、これは原本をいつ、誰が撮影したものですか」
黎一は高井を見る。
「昨夜、御厨家で私が撮った」
「使用した機器は」
「私の携帯電話だ」
「画像データを確認します。原本は今も自宅にありますか」
「ある」
「帳面の作成者は」
「姉と宗一郎だ」
会議室の空気が動いた。
「祖父ちゃんも?」
湊が訊く。
「共同研究の記録ですか」
佐伯先生が続ける。
「研究だけではない」
黎一は、二人の澪を見た。
「姉は事故の後、黒瀬家の時計が開いた日と、その前後に記録から消えた人物を集めていた。学校の名簿、病院の受付簿、寺の過去帳、自治会の世帯表。公的な原本ではない。見た内容を御厨家で書き直した控えだ」
「それなら、作成者の解釈が入っています」
教育委員会の男が言う。
黎一の目が細くなる。
「学校の原簿が名前を消した時、控えまで捨てるのか」
「資料価値がないとは言っていません。発生した事実と、原因を分ける必要があります」
「分けている間に、澪の名が消えた」
高く髪を結んだ澪が、写真を裏側から覗いた。
「叔父さま。この帳面を、いつから見ていたんですか」
「姉の事故の後からだ」
「私が二人になる前から、黒瀬家のせいだと思っていた?」
「日付が残っていた」
「日付以外は」
「四回、並んだ」
「同じ答えです」
澪は写真ではなく叔父の顔を見た。
「叔父さまは、黒瀬家が何をしたか調べるために帳面を読んだのではありません。黒瀬家がしたと決めるために読んだんですか」
黎一の手首に黒い線が浮かんだ。教室へ向かう線と、会議室にいる二人の澪へ向かう線が皮膚の上で分かれる。
低く髪を結んだ澪が、包帯を巻いた左手を机へ置く。
「答えてください」
「最初は、原因を探した」
黎一の声は低かった。
「原因が黒瀬でなければ、姉が何のために失ったのか分からなくなる」
「沙夜子さんは生きているんじゃないの」
湊が口を挟む。
宗一郎が一回目に時計を使ったのは、沙夜子が生存している履歴へ接続するためだった。黎一は姉を失ったと言う。生きているのか、いないのか。湊の中で二つが噛み合わない。
黎一は湊へ顔を向けた。
「生きている姉が、私の知っていた姉と同じ場所にいるとは限らない」
「会えてないの?」
「お前には関係ない」
「姉を取り戻したのに会えなかったから、祖父ちゃんを憎んでるの」
「湊」
直哉が止めた。
遅かった。黎一の右手が机を打った。写真が跳ねる。
「取り戻したと言うな。姉が生きた履歴へ黒瀬が移っただけだ。私が共にいた時間は、白い廊下へ捨てられた」
湊は息を止めた。
黎一の復讐は、死者を戻してもらえなかった恨みだけではない。戻った本人がいても、自分との生活が戻らなかった。その空白を、四枚の紙へ押し込めている。
「だから、二人の私を一人にするんですか」
高く結んだ澪が訊く。
「叔父さまが失った時間を、私たちにも選ばせる?」
「同じ場所へ戻さなければ、八月十五日にもっと大きく失う」
「それも、この帳面に書いてありますか」
「姉が日付を残した」
「起きることは」
「書けなかった」
「では、叔父さまも知りません」
黎一は否定しなかった。
高井が写真を一枚ずつ証拠袋へ入れる。四枚目を持ち上げた時、裏面に薄い数字が見えた。
「これは何ですか」
写真用紙の裏に、撮影日時とは別の数字が鉛筆で写り込んでいる。元の帳面の次頁に書かれた文字が、紙を通して見えていた。
高井は窓際へ運び、斜めから光を当てる。
八月十五日、午後九時十三分。
その下に、もう一つ日付がある。
七月二十八日。
七月三十一日の三日前だった。
「次頁も撮影しましたか」
高井が訊く。
「していない」
「なぜ」
「白紙だった」
「鉛筆の筆圧は残っています」
高井は証拠袋へ入れず、写真を机の中央へ戻した。
「七月二十八日に、何が記録されていましたか」
黎一の視線が動く。
「覚えていない」
「本当に?」
「白紙だった」
「白紙になった、ではなく?」
黎一の手首の線が濃くなる。
湊は七月三十一日の葬儀を思い出す。宗一郎が時計を開いたのは、その日だ。三日前に誰かの記録が消え始めていたなら、颯真を戻した結果とは言い切れない。
「先に消えてたの?」
湊の声が会議室へ落ちた。
黎一が写真を取ろうとする。高井が手首を押さえた。
「原本を確認します」
「御厨家の物だ」
「任意で見せてください。拒否するなら、写真だけを正式に預かり、必要な手続きを取ります」
「その間に原本が消える」
「だから今行きます。あなたも同行してください」
高井は即座に原本を奪おうとしなかった。所有と証拠保全の境界を崩さず、黎一自身を現場へ連れていく。
二人の澪が立ち上がった。
「私も行きます」
「事情聴取と現場確認です。未成年者を――」
「私たちの家です」
低く結んだ澪が言う。
「叔父さまが私たちを守る根拠にした帳面です。見せないまま、また私たちの場所を決めさせません」
高井は児童相談所の職員を見る。職員は二人へ、同行すれば御厨家へ戻ることを承諾した扱いにはしないと確認した。
「見た後、どこへ行くかは改めて聞きます」
「はい」
二人の返事が少しずれた。
湊も立とうとした。
直哉が肩を押さえる。
「お前は登校停止が決まったばかりだ」
「学校の外ならいいでしょ」
「そういう問題じゃない」
「祖父ちゃんが書いた帳面かもしれない」
「だからこそ、家族全員で押しかけるな」
直哉は高井へ連絡先を渡し、自分だけ同行を申し出た。宗一郎の筆跡や研究時期を確認できる者としてだった。
湊は置いていかれる。
何でも自分で見なければ誰かが消えると思っていた。だが、全員で同じ物を見れば安全になるという法則もない。
「写真を撮って」
湊は二人の澪へ言った。
「原本を?」
「違う。見た時の二人を」
高く結んだ澪が眉を寄せる。
「なぜ」
「どっちが先に読んだか、あとで一人にしないため」
低く結んだ澪が答えた。
「順番を決めるためではなく、違う場所から読んだことを残すためですね」
湊は頷いた。
会議室を出る直前、黎一が四枚の写真を振り返った。
「三日前の日付が何であっても、四回の一致は消えない」
颯真が椅子に座ったまま返す。
「一致が残っても、お前の答えは崩れる」
黎一は何も言わず、廊下へ出た。
午前十一時三十七分。
高井の車と児童相談所の車が、御厨家へ向かって学校を出る。二人の澪は別々の車へは乗らなかった。同じ後部座席に座り、それぞれ違う窓の外を見た。
湊は会議室の窓から車を見送った。
机に残った処分通知の余白で、『救助の可能性』という文字だけが、少しずつ薄くなっていた。
湊は鉛筆を取り、その横へ書く。
午前十一時三十七分。文字が薄くなった。
正しいとも、間違いとも書かなかった。
消えたことだけを残した。
鉛筆の溝は、紙から消えなかった。
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