第十九話 原本の裏側
御厨家の玄関には、靴が二足分しかなかった。
黎一の黒い革靴と、澪の白い運動靴。同じ運動靴がもう一足必要になった今も、下駄箱の幅は増えていない。
午前十一時五十八分。
高井、若い警察官、児童相談所の職員、直哉、二人の澪が家へ入った。玄関の外には教育委員会の男も来ていたが、学校資料ではないため立ち入りを断られた。制度の人間が全員同じ権限を持つわけではなかった。
黎一は二人の澪へスリッパを出そうとして、一足しかないことに気づいた。
「私は要りません」
低く髪を結んだ澪が言う。
高く結んだ澪も靴下のまま上がる。
「私も」
「二人とも履け」
「一足しかありません」
「交代で――」
黎一はそこで言葉を切った。帰宅のたびに交代する生活などできない。何も言わず、客用の古いスリッパを二足出した。色も形も違ったが、二人は自分で選んだ。一人は擦り切れた紺色、もう一人は花柄。
帳面は、仏間の押し入れにあるという。
黎一が襖へ手をかける前に、高井が止めた。
「開けるところから記録します」
若い警察官が動画を回す。押し入れの上段には、木箱が三つ並んでいた。どれも蓋へ紙札が貼られている。
事故以前。
事故以後。
黒瀬。
三つ目だけ、家の名が書かれていた。
直哉の顎が強張る。
「父が付けた札ですか」
「姉だ」
黎一が答える。
「宗一郎は、黒瀬という箱を作らせなかった。人を家で分ければ原因を見誤ると言っていた」
「それでも分けた」
「姉が生きている履歴へ移った後、私が」
黎一は黒瀬の箱を下ろす。木の底が畳へ触れた時、中で紙がずれた。
高く結んだ澪が訊く。
「叔父さまは、この箱を何回読みましたか」
「数えていない」
「読むたび、黒瀬家を憎みましたか」
「最初からだ」
「では、確かめたことにはなりません」
黎一は返さなかった。
高井が箱を開ける。中には大学ノートが六冊、病院の古い封筒、寺の過去帳を撮った写真、学校名簿の複写が入っていた。どれにも欠けた箇所がある。氏名だけ白い紙。人数が合わない集合写真。宛名のない封筒。
「全部、持ち出しますか」
黎一が訊く。
「まず原本と撮影した頁を確認します。任意提出の範囲は、その後に決めます」
高井は箱ごと奪わなかった。
写真に写っていた帳面は、下から二冊目にあった。紺色の表紙。背には『接続前後・現代』と宗一郎の字で書かれている。
直哉が筆跡を確認した。
「父です」
黎一が頁を開く。四回の日付が、写真と同じ順で並んでいた。紙の氏名欄は白い。消しゴムで擦った跡ではない。繊維そのものが新しい紙に置き換わったように、筆圧も残っていなかった。
「次の頁」
高井が言う。
黎一の指が動かない。
「白紙だ」
「確認します」
「姉の物だ」
「だから破りません。光を当てるだけです」
二人の澪が、叔父の両側へ座った。
「開いてください」
高く結んだ澪。
「私たちを守るための帳面なら、私たちにも見せてください」
低く結んだ澪。
黎一は頁をめくった。
見た目には白紙だった。高井が斜光を当てると、前後二枚から移った鉛筆の溝が浮く。若い警察官が角度を変えて撮影する。
七月二十八日。
時刻不明。
学校、西棟。
氏名欄欠落を先に確認。
『先に』の二文字だけ、沙夜子の筆跡だった。
その下へ、宗一郎の字で短く書かれている。
接続未実施。
直哉が息を吸った。
「七月三十一日の前だ」
「今年の記録とは限らない」
黎一が言う。
「年が書かれていない」
「前後の頁を見ます」
高井が前頁へ戻る。七月二十七日の欄に、市立病院から宗一郎へ送られた封筒の受領番号がある。封筒は箱の中に残っていた。今年の消印だった。
七月二十八日も今年。
颯真の葬儀より三日前。
宗一郎が四回目の時計を開く前に、西棟で氏名の欠落が始まっていた。
「黒瀬が颯真さんを戻したから、ここが消えたのではありません」
高く結んだ澪が言う。
「この一件は」
黎一は限定した。
「四回のうち一つだ」
「一つ崩れました」
「残り三つは並んでいる」
「並んでいるだけです」
「姉はそう思わなかった」
「沙夜子さんは『先に』と書いています」
二人の澪の声が、同じ叔父へ別々に当たる。黎一は帳面を閉じようとした。低く結んだ澪が、包帯を巻いた左手ではなく右手で頁を押さえた。
「閉じないでください」
「これは、お前たちが読むための物ではない」
「では、私たちを一人にするために使わないでください」
黎一の手が止まる。
高井は、頁全体、前後、封筒の消印、箱の中での位置を順に撮影した。その後で任意提出を求める。黎一は帳面一冊と封筒だけを渡した。木箱の他の資料は拒んだ。
「拒否の理由は」
「今、全てを同じ場所へ運ぶべきではない」
直哉が黎一を見る。
「父と同じことを言うんですね」
「宗一郎が常に間違っているとは言っていない」
「憎んでいるのに」
「憎む相手から学べないほど、私は若くない」
それは和解ではなかった。敵の言葉でも必要なら使う。それだけだった。
午後零時四十九分。
居間で、二人の澪へ改めて行き先が訊かれた。一人は学校へ戻って教室を見たい。もう一人は御厨家に泊まりたくない。希望は変わっていない。
「私がここに残ります」
高く結んだ澪が言った。
児童相談所の職員が確認する。
「先ほどは学校へ戻りたいと」
「原本を見て変えました。叔父さまが箱の他の資料を捨てないように見ます」
「私も残ります」
低く結んだ澪が続ける。
「あなたは泊まりたくないと言いました」
「泊まりません。夕方までです」
同じ場所にいても、滞在の目的と終わりが違う。職員は二人の希望を一つへまとめず、それぞれ時刻付きで記録した。
直哉の携帯が鳴った。
湊からだった。
『父さん、家の戸が鳴ってる』
直哉が廊下へ出て通話をスピーカーにする。
「工具箱か」
『違う。玄関の引き戸。三回』
受話口の向こうで、木を叩く音がした。
一度。
二度。
三度。
第八話の夜、外の颯真が家へ来た時と同じだった。
現在の颯真の声が遠くで聞こえる。
『開けるな。父さんが戻るまで待て』
『でも外の兄ちゃんかもしれない』
『だから一人で開けるなって言ってる!』
直哉は二人へ告げた。
「戸から離れろ。警察官はいるか」
『玄関に一人。今、呼んだ』
「その人の指示を聞け」
通話を切らず、全員で音を聞く。
午後零時五十二分。
二度目の三回が鳴る。
御厨家の仏間でも、同時に音がした。
押し入れの中。事故以前と書かれた木箱からだった。
全員が仏間を見る。
黒瀬家の引き戸と、御厨家の木箱。違う場所で同じ間隔の音が続く。
黎一が箱へ手を伸ばす。二人の澪が左右から止めた。
「開けないでください」
「姉の資料だ」
「だから一人で開けないで」
直哉が携帯へ呼びかける。
「湊。そっちで何が見える」
『戸のガラスに、兄ちゃんがいる』
「現在の颯真は隣にいるか」
『いる』
『俺も見てる』
二人の声が続く。
『外の俺が、紙を持ってる』
「読めるか」
沈黙の後、湊が答えた。
『七月二十八日って書いてある』
御厨家の全員が、開いた帳面を見る。
外の颯真は、今確認した原本と同じ日付を持っている。
『下に、もう一行ある』
湊の息が受話口へ当たる。
『俺が来る前から、学校に扉があった』
現在の颯真が戸を蹴る音がした。
『俺のせいにするなって、あいつが言ってる』
黎一は事故以前の箱へ伸ばした手を下ろした。
原本の一行だけではない。
外の颯真が、自分の帰還より前に学校で境界が開いていたと知っている。
だが、どうやって知ったのかは、まだ聞けていなかった。
『紙を戸の下から入れて』
湊が言う。
外の颯真は首を振った。曇りガラス越しにも分かった。
代わりに、紙を自分の胸へ押し当てる。文字を渡せば、今いる場所との接点まで失うと思っているようだった。
現在の颯真も、戸へ近づかなかった。
『あいつを入れない。けど、閉めない』
譲ったのでも、信じたのでもない。
二人の兄が、互いを消さずに話すための距離を初めて守った。
引き戸と木箱の音が止まる。
電話の時刻表示だけが一度、午後六時四十二分へ変わり、現在へ戻った。
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