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時は復讐を忘れない  作者: 23
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第十九話 原本の裏側

御厨家の玄関には、靴が二足分しかなかった。


黎一の黒い革靴と、澪の白い運動靴。同じ運動靴がもう一足必要になった今も、下駄箱の幅は増えていない。


午前十一時五十八分。


高井、若い警察官、児童相談所の職員、直哉、二人の澪が家へ入った。玄関の外には教育委員会の男も来ていたが、学校資料ではないため立ち入りを断られた。制度の人間が全員同じ権限を持つわけではなかった。


黎一は二人の澪へスリッパを出そうとして、一足しかないことに気づいた。


「私は要りません」


低く髪を結んだ澪が言う。


高く結んだ澪も靴下のまま上がる。


「私も」


「二人とも履け」


「一足しかありません」


「交代で――」


黎一はそこで言葉を切った。帰宅のたびに交代する生活などできない。何も言わず、客用の古いスリッパを二足出した。色も形も違ったが、二人は自分で選んだ。一人は擦り切れた紺色、もう一人は花柄。


帳面は、仏間の押し入れにあるという。


黎一が襖へ手をかける前に、高井が止めた。


「開けるところから記録します」


若い警察官が動画を回す。押し入れの上段には、木箱が三つ並んでいた。どれも蓋へ紙札が貼られている。


事故以前。


事故以後。


黒瀬。


三つ目だけ、家の名が書かれていた。


直哉の顎が強張る。


「父が付けた札ですか」


「姉だ」


黎一が答える。


「宗一郎は、黒瀬という箱を作らせなかった。人を家で分ければ原因を見誤ると言っていた」


「それでも分けた」


「姉が生きている履歴へ移った後、私が」


黎一は黒瀬の箱を下ろす。木の底が畳へ触れた時、中で紙がずれた。


高く結んだ澪が訊く。


「叔父さまは、この箱を何回読みましたか」


「数えていない」


「読むたび、黒瀬家を憎みましたか」


「最初からだ」


「では、確かめたことにはなりません」


黎一は返さなかった。


高井が箱を開ける。中には大学ノートが六冊、病院の古い封筒、寺の過去帳を撮った写真、学校名簿の複写が入っていた。どれにも欠けた箇所がある。氏名だけ白い紙。人数が合わない集合写真。宛名のない封筒。


「全部、持ち出しますか」


黎一が訊く。


「まず原本と撮影した頁を確認します。任意提出の範囲は、その後に決めます」


高井は箱ごと奪わなかった。


写真に写っていた帳面は、下から二冊目にあった。紺色の表紙。背には『接続前後・現代』と宗一郎の字で書かれている。


直哉が筆跡を確認した。


「父です」


黎一が頁を開く。四回の日付が、写真と同じ順で並んでいた。紙の氏名欄は白い。消しゴムで擦った跡ではない。繊維そのものが新しい紙に置き換わったように、筆圧も残っていなかった。


「次の頁」


高井が言う。


黎一の指が動かない。


「白紙だ」


「確認します」


「姉の物だ」


「だから破りません。光を当てるだけです」


二人の澪が、叔父の両側へ座った。


「開いてください」


高く結んだ澪。


「私たちを守るための帳面なら、私たちにも見せてください」


低く結んだ澪。


黎一は頁をめくった。


見た目には白紙だった。高井が斜光を当てると、前後二枚から移った鉛筆の溝が浮く。若い警察官が角度を変えて撮影する。


七月二十八日。


時刻不明。


学校、西棟。


氏名欄欠落を先に確認。


『先に』の二文字だけ、沙夜子の筆跡だった。


その下へ、宗一郎の字で短く書かれている。


接続未実施。


直哉が息を吸った。


「七月三十一日の前だ」


「今年の記録とは限らない」


黎一が言う。


「年が書かれていない」


「前後の頁を見ます」


高井が前頁へ戻る。七月二十七日の欄に、市立病院から宗一郎へ送られた封筒の受領番号がある。封筒は箱の中に残っていた。今年の消印だった。


七月二十八日も今年。


颯真の葬儀より三日前。


宗一郎が四回目の時計を開く前に、西棟で氏名の欠落が始まっていた。


「黒瀬が颯真さんを戻したから、ここが消えたのではありません」


高く結んだ澪が言う。


「この一件は」


黎一は限定した。


「四回のうち一つだ」


「一つ崩れました」


「残り三つは並んでいる」


「並んでいるだけです」


「姉はそう思わなかった」


「沙夜子さんは『先に』と書いています」


二人の澪の声が、同じ叔父へ別々に当たる。黎一は帳面を閉じようとした。低く結んだ澪が、包帯を巻いた左手ではなく右手で頁を押さえた。


「閉じないでください」


「これは、お前たちが読むための物ではない」


「では、私たちを一人にするために使わないでください」


黎一の手が止まる。


高井は、頁全体、前後、封筒の消印、箱の中での位置を順に撮影した。その後で任意提出を求める。黎一は帳面一冊と封筒だけを渡した。木箱の他の資料は拒んだ。


「拒否の理由は」


「今、全てを同じ場所へ運ぶべきではない」


直哉が黎一を見る。


「父と同じことを言うんですね」


「宗一郎が常に間違っているとは言っていない」


「憎んでいるのに」


「憎む相手から学べないほど、私は若くない」


それは和解ではなかった。敵の言葉でも必要なら使う。それだけだった。


午後零時四十九分。


居間で、二人の澪へ改めて行き先が訊かれた。一人は学校へ戻って教室を見たい。もう一人は御厨家に泊まりたくない。希望は変わっていない。


「私がここに残ります」


高く結んだ澪が言った。


児童相談所の職員が確認する。


「先ほどは学校へ戻りたいと」


「原本を見て変えました。叔父さまが箱の他の資料を捨てないように見ます」


「私も残ります」


低く結んだ澪が続ける。


「あなたは泊まりたくないと言いました」


「泊まりません。夕方までです」


同じ場所にいても、滞在の目的と終わりが違う。職員は二人の希望を一つへまとめず、それぞれ時刻付きで記録した。


直哉の携帯が鳴った。


湊からだった。


『父さん、家の戸が鳴ってる』


直哉が廊下へ出て通話をスピーカーにする。


「工具箱か」


『違う。玄関の引き戸。三回』


受話口の向こうで、木を叩く音がした。


一度。


二度。


三度。


第八話の夜、外の颯真が家へ来た時と同じだった。


現在の颯真の声が遠くで聞こえる。


『開けるな。父さんが戻るまで待て』


『でも外の兄ちゃんかもしれない』


『だから一人で開けるなって言ってる!』


直哉は二人へ告げた。


「戸から離れろ。警察官はいるか」


『玄関に一人。今、呼んだ』


「その人の指示を聞け」


通話を切らず、全員で音を聞く。


午後零時五十二分。


二度目の三回が鳴る。


御厨家の仏間でも、同時に音がした。


押し入れの中。事故以前と書かれた木箱からだった。


全員が仏間を見る。


黒瀬家の引き戸と、御厨家の木箱。違う場所で同じ間隔の音が続く。


黎一が箱へ手を伸ばす。二人の澪が左右から止めた。


「開けないでください」


「姉の資料だ」


「だから一人で開けないで」


直哉が携帯へ呼びかける。


「湊。そっちで何が見える」


『戸のガラスに、兄ちゃんがいる』


「現在の颯真は隣にいるか」


『いる』


『俺も見てる』


二人の声が続く。


『外の俺が、紙を持ってる』


「読めるか」


沈黙の後、湊が答えた。


『七月二十八日って書いてある』


御厨家の全員が、開いた帳面を見る。


外の颯真は、今確認した原本と同じ日付を持っている。


『下に、もう一行ある』


湊の息が受話口へ当たる。


『俺が来る前から、学校に扉があった』


現在の颯真が戸を蹴る音がした。


『俺のせいにするなって、あいつが言ってる』


黎一は事故以前の箱へ伸ばした手を下ろした。


原本の一行だけではない。


外の颯真が、自分の帰還より前に学校で境界が開いていたと知っている。


だが、どうやって知ったのかは、まだ聞けていなかった。


『紙を戸の下から入れて』


湊が言う。


外の颯真は首を振った。曇りガラス越しにも分かった。


代わりに、紙を自分の胸へ押し当てる。文字を渡せば、今いる場所との接点まで失うと思っているようだった。


現在の颯真も、戸へ近づかなかった。


『あいつを入れない。けど、閉めない』


譲ったのでも、信じたのでもない。


二人の兄が、互いを消さずに話すための距離を初めて守った。


引き戸と木箱の音が止まる。


電話の時刻表示だけが一度、午後六時四十二分へ変わり、現在へ戻った。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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