第二十話 外の兄が見た紙
黒瀬家の引き戸の向こうに、外の颯真が立っていた。
午後零時五十二分。
湊は玄関から二歩離れ、現在の颯真はその前へ立つ。玄関に残っていた警察官が、誰も戸へ触れていないことを確かめながら直哉との通話を聞いている。
曇りガラスの外は、昼ではなかった。
線香の煙と濡れた土の匂い。八月十五日午後九時十三分から動かない、葬儀の夜に近い場所。外の颯真が胸へ押し当てた紙には、七月二十八日と書かれている。
「どこで手に入れた」
現在の颯真が訊く。
外の声は戸越しには聞こえない。携帯電話にも繋がらない。外の颯真は紙を裏返し、鉛筆で大きく書いた。
学校。
「いつ」
八月十五日。
「誰から」
分からない。
「分からない奴から受け取った紙を信じてんのか」
外の颯真の口が動く。
お前に言われたくない。
声がなくても、現在の颯真には読めたらしい。顔が同じだからではない。同じ悪口を、同じ口の形で言うからだった。
「返事を書こう」
湊がノートを取りに行こうとすると、颯真が肩を掴む。
「ここで書け」
「鉛筆が居間」
「俺が取る。お前は戸を見てろ」
「兄ちゃんが一人で書くの?」
「書いたら一緒に読む」
引き戸の下から紙を差し込んだ夜、外の颯真が残した言葉――場所を書かせろ。返事を、一人で読むな。現在の颯真は命令されたことを嫌いながら、その手順だけは使った。
警察官が直哉へ確認する。
『戸を開けず、紙をガラスへ見せるだけなら続けます。危険が生じたら中止します』
『お願いします。宗一郎を戸へ近づけないでください』
通話の向こうでは、御厨家の仏間からも三度の音がしている。二人の澪が「事故以前」と書かれた木箱を押さえ、黎一一人には開けさせていない。
現在の颯真がノートと鉛筆を持って戻った。左腕を吊っているため、右手だけで紙を破る。切り口が斜めになった。
『その紙を、誰が持っていた』
二人で文を読み、戸へ向ける。
外の颯真は答えを書かない。代わりに紙の上端を指す。小さな穴が二つ開いていた。学校の二穴ファイルへ綴じた跡。
次に、右下を見せる。丸い印影の半分だけが残っている。
佐伯。
現在の佐伯先生の印ではない。古い学校印の一部に見えた。
『西棟の記録か』
外の颯真が頷く。
『誰がいた』
外の颯真の鉛筆が止まる。
『湊』
「僕?」
外の颯真は首を横へ振り、その下へ書き足す。
『俺のいた場所の湊』
現在の颯真が舌打ちする。
「あいつの湊みたいに言うな」
外の颯真は続けた。
『八月十五日、湊の場所が消える前に、学校のファイルから落ちた。湊が拾った』
『湊は読んだのか』
『読めなかった。俺が読んだ』
『一人で?』
外の颯真の手が止まった。
現在の颯真が笑う。
「失敗したって言ってた手順、そのままじゃねえか」
外の颯真は紙を握り潰しかけ、やめた。
『俺だけ読めた。湊には白紙だった』
湊は御厨家の原本を思う。見た目は白紙で、斜めから光を当てて初めて筆圧が見えた。同じ紙でも、人によって違う文章を読ませる現象はすでに起きている。
「兄ちゃんには何て見えたの」
現在の颯真が湊の質問を書く。
外の颯真は、紙を戸へ貼りつけた。
七月二十八日。
学校、西棟。
氏名欄欠落を先に確認。
接続未実施。
御厨家で見つけた原本と同じだった。
ただし、下に一行多い。
八月十五日に同じ場所へ集めるな。
「誰が書いた」
外の颯真は紙の裏を見せる。裏面には、濃さの違う鉛筆の溝が無数に走っている。最後の一行だけ、後から加わった可能性がある。
「未来からの命令じゃない」
湊は言った。
「その紙を読んだ誰かが書いた」
「向こうの湊かもしれねえ」
現在の颯真が返す。
「でも兄ちゃんは、湊には白紙だったって」
「その後に読めるようになったかもしれない」
「分からない」
二人は答えを決めなかった。
御厨家の通話から、高井の声が入る。
『こちらで事故以前の箱を開けます。全員、箱から離れた位置を確認しました』
黎一が鍵を持つ。二人の澪は箱の左右。高井と若い警察官が正面。直哉が少し後ろ。児童相談所の職員は仏間の入口にいる。
『開ける』
木の蓋が擦れる音。
黒瀬家の引き戸の外で、外の颯真が振り返った。彼の背後にも、何かが開いたらしい。白い廊下の光が一瞬だけ差す。
御厨家の箱から出たのは、古い学校ファイルだった。
表紙に西棟安全点検と書かれている。二穴の金具。右下に丸い学校印。黎一が頁をめくり、七月二十八日の位置で止まる。
紙はない。
綴じ具の間に、破られた切れ端だけが残っている。
『外の颯真が持っている紙と一致する可能性があります』
高井が言う。
『断定はしません。穴の間隔、紙質、印影を確認する必要があります』
外の颯真は、通話を聞いているように紙と黒瀬家の中を見比べた。
「紙を渡して」
湊が戸へ手を伸ばす。
現在の颯真が手首を掴んだ。
「開けない」
「下からなら前も入った」
「前に入ったから今も安全とは限らない」
「調べれば、原本か分かる」
「あいつが持ってるから、俺たちは今話せてるかもしれない」
外の颯真も、紙を渡さない。二人の兄は互いを信用していないのに、紙を動かさない判断だけが同じだった。
高井が通話越しに指示する。
『受け渡しはしないでください。両側で寸法を測ります』
御厨家ではファイルの穴の間隔と印影の位置を測る。黒瀬家では、外の颯真が定規を持っていない。現在の颯真が自分の指をガラスへ当て、外の颯真も同じ位置へ紙を合わせた。正確ではない。それでも、二つの穴はファイルの金具とほぼ同じ幅だった。
『紙の上端に破れはありますか』
高井が訊く。
外の颯真は上端を見せる。繊維が毛羽立っている。ファイル側の切れ端も、同じ向きに裂けていた。
二人の澪が別々に写真を撮った。一人はファイル全体と空いた位置。一人は切れ端と印影。誰かが一枚だけ残すことを避けるため、違う構図にした。
「このファイルを御厨家へ持ってきたのは誰ですか」
高く結んだ澪が訊く。
黎一は表紙の内側を見る。受領日と、持出者の署名がある。
黒瀬宗一郎。
日付は七月二十八日。
「祖父ちゃんが、学校から持ち出した」
湊が呟く。
直哉は通話の向こうで黙っていた。
宗一郎は今、黒瀬家の居間から離れた和室にいる。右手を腰へ固定し、別の警察官が見守っている。直哉が帰るまで、工具箱へ近づけないことになっていた。
現在の颯真が、和室の方へ声を張る。
「爺さん! 七月二十八日に学校から何を持ってきた!」
返事はない。
「聞こえてるだろ!」
宗一郎の右耳は聞こえない。だが左耳は届く距離だった。
湊は玄関を離れなかった。外の颯真が消えるかもしれない。現在の兄も、祖父へ走れば戸を閉めるかもしれない。
「祖父ちゃんを、ここへ連れてきて」
警察官へ頼む。
「箱や戸へ近づけないという指示です」
「廊下の途中でいい。顔が見えるところ」
警察官が直哉へ確認し、宗一郎を和室の敷居まで連れてきた。腰へ固定した右手が、玄関へ向こうとしてベルトを張る。
湊は外の紙を指した。
「七月二十八日、学校で名前が消えてるのを知ってた?」
宗一郎は紙を見た。
顔色が変わる。
「それは、こちらにあるはずがない」
「御厨家の箱にファイルがあった。紙だけ外の兄ちゃんが持ってる」
「誰が渡した」
「分からない。祖父ちゃんが学校から持ち出したの?」
宗一郎は答えない。
「兄ちゃんが死ぬ前だよ」
湊は一歩、廊下へ出た。
「学校で境界が開いてるって知ってたのに、七月三十一日に時計を開けた?」
宗一郎の右手が激しくベルトを引いた。
外の颯真の背後で白い廊下が明るくなる。
「答えて」
「知っていた」
宗一郎は、湊ではなく外の紙へ言った。
「氏名欄が消えたのは、四回目の前だ」
現在の颯真が壁を殴る。
「だったら、俺を戻せば誰か消えるって分かってたんじゃねえか」
「逆だ」
宗一郎の声が震えた。
「すでに消え始めていた。だから私は、颯真が死ぬ履歴から離れれば、連鎖も避けられると思った」
「確かめたの?」
湊が訊く。
宗一郎は答えなかった。
「また一人で決めたんだ」
外の颯真が、紙の下へ新しい言葉を書いた。
向こうからは読めない。現在の颯真が鏡文字を追う。
「『祖父ちゃんを止めた時、俺も同じことをした』」
外の颯真は続ける。
「『失敗を避けるため、湊の場所を全員に書かせた』」
現在の颯真の声が低くなる。
「『正しい手順だと思った。結果、湊が消えた』」
宗一郎の膝が崩れた。
警察官が支える。右手はなお玄関へ向かっている。
湊は祖父へ近づかなかった。
先に外の颯真の紙を、現在の颯真と一緒に最後まで読んだ。
一人で救う方法を決めた二人が、別々の履歴で同じ失敗をした。
引き戸の向こうで、外の颯真が紙を下ろす。
白い廊下の光が弱くなった。
消える前に、口だけで言う。
声は届かなかった。
現在の颯真が、その口の形を読んだ。
「『今度は、全員で間違えろ』」
引き戸の外から人影が消えた。
紙は向こう側に残った。
午後一時九分。
同じ時刻、御厨家の古い学校ファイルから、七月二十八日の切れ端だけが床へ落ちた。
裏面には、宗一郎の字で一行あった。
颯真には知らせず、接続先を探す。
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