第二十一話 祖父が先に知っていた
宗一郎は、七月二十八日に西棟で名前が消えたことを知っていた。
その三日後、颯真の葬儀で懐中時計を開いた。
二つの事実が黒瀬家の廊下へ並ぶ。誰も間へ言い訳を置けなかった。
午後一時十二分。
外の颯真が引き戸から消えた後も、現在の颯真は玄関へ立っていた。吊った左腕の包帯に、黒い線は出ていない。右拳だけが赤い。壁を殴ったせいだった。
「知ってたなら、俺を戻すなよ」
颯真は和室の敷居に座る宗一郎へ言った。
宗一郎の右手は腰のベルトへ固定されたまま、玄関の工具箱へ向かおうとしている。指が革へ食い込み、手首に赤い跡を作っていた。
「お前が死なない履歴へ移れば、西棟の欠落も起きない可能性があった」
「可能性で開けたのか」
「開けなければ、お前は死んだままだった」
「だから俺に聞けなかった?」
「死者には聞けない」
颯真が宗一郎の前まで歩いた。
「生きてる俺には、今聞ける。戻された後に、知らない誰かが消えるかもしれないって言われたら、俺が何て答えると思う」
宗一郎は目を上げない。
「答えるなよ」
颯真の声が低くなる。
「『死ぬ方を選ぶ』って言わせたいわけじゃない。そんな立派なこと、今の俺には言えねえ。生きてたい。あいつに家を取られたくない。湊の隣も譲りたくない」
湊は兄の背中を見る。
「でも、何も知らないまま生かされたくなかった」
宗一郎の右手が一度、ベルトを引いた。
「知れば、お前は自分を差し出す」
「勝手に決めんな!」
颯真の右足が敷居を蹴った。古い木が鳴る。宗一郎の身体は動かなかったが、顔だけが上がった。
「お前は前年の冬にも、そうした」
「何を」
「自分が消えれば湊が残ると思い、山へ一人で行った」
颯真の口が止まる。
湊が知っている兄なら、やるかもしれない。黎一を止めるため、自分の身体を投げ出しかけたこともある。宗一郎が恐れている自己犠牲は、兄の中に実際にある。
それでも、だから祖父が代わりに決めてよいとは思えなかった。
「祖父ちゃんも同じだよ」
湊が言った。
「自分が腕をなくせば済むと思って、誰にも言わなかった」
「私は支払う側だった」
「払う物を選べてない」
「結果として左腕を失ったのは私だ」
「名前が消えたのは祖父ちゃんじゃない人かもしれない」
宗一郎は黙った。
湊の掌が包帯の下で痛む。二人の澪を掴んだ傷。自分で選んだ傷でも、その結果が二人だけに収まったかは分からない。
「七月二十八日の紙を、どうして御厨家へ持っていったの」
「学校へ残せば、翌日には記録そのものがなくなると思った」
「誰に頼まれた?」
「沙夜子だ」
宗一郎は左耳へ顔を寄せるように、少し首を傾けた。
「西棟の安全点検簿で、生徒の氏名欄が消えた。まだ事故も接続も起きていない。沙夜子は、白い廊下側から先に接触が始まった可能性を考えた」
「白い廊下が誰かを消したの?」
「廊下に意思はない」
「じゃあ誰」
「分からない」
宗一郎は、そこで言葉を止めた。分からないことを新しい答えへ変えなかった。
「分からないまま、父さんはファイルを学校から持ち出した」
直哉の声が携帯電話から入る。御厨家との通話は切れていなかった。
「学校の許可は」
「当時の校長から口頭で得た」
「記録は」
「残っていない」
「また、証明できない話か」
「そうだ」
直哉は息を吐いた。
「今から高井さんと戻る。父さんはその場にいてくれ。任意で事情を聞かれる」
「工具箱は」
「触るな」
「触れない。手が触ろうとするだけだ」
「言い方で逃げるな」
通話が切れた。
午後一時二十七分。
佳乃が冷えた麦茶を持ってきた。宗一郎の右手は固定されているため、湊がストローを差す。祖父は口をつけなかった。
「飲んで」
「要らない」
「また弱ったら、手を止められない」
「弱れば動かなくなる」
「右手だけ勝手に動くって言ったの祖父ちゃんでしょ」
宗一郎はストローを噛んだ。二口だけ飲む。
颯真は居間へ戻らず、玄関の床へ座っている。外の自分が立っていた場所を塞ぐようだった。
湊は隣へ座った。
「来るな」
「兄ちゃんのそばにいるって決めた」
「今は、だろ」
「今も」
「外の俺が戻ったら、また戸へ張りつくくせに」
「張りつくよ」
颯真が睨む。
「でも兄ちゃんをどかさない」
「二人分の場所なんかない」
「玄関は狭いけど、詰めれば座れる」
「そういう話じゃねえ」
湊は分かっていた。だから、兄の吊った左腕へ触れない側に座る。右肩だけが少し当たった。
「祖父ちゃんを許す?」
「今聞くな」
「ごめん」
「謝るくらいなら黙ってろ」
二人で黙った。
午後二時三分、高井たちが戻った。直哉、二人の澪、児童相談所の職員も一緒だった。高く髪を結んだ澪は御厨家へ残ると言っていたが、帳面を警察へ提出した後、希望を変えた。叔父と二人きりにならないよう、黎一も同行している。
居間へ全員は入らなかった。学校で人を集めた後に澪の輪郭が戻ったことはあるが、多数が安全を作る一般法則ではない。高井は警察官と宗一郎、直哉だけを和室へ入れ、他の者を戸の開いた廊下と居間へ分けた。
二人の澪は同じ場所へ座らない。一人は廊下の壁際。もう一人は居間の食卓。互いが見える距離を自分たちで選んだ。
高井が録音を始める。
「七月二十八日、西棟安全点検ファイルを学校から御厨家へ移したことを認めますか」
「認める」
「該当頁がファイルから外れた時期は」
「分からない。御厨家へ入れた時には綴じられていた」
「誰が頁を外した可能性がありますか」
「私、沙夜子、黎一。御厨家へ出入りした者なら他にもいる」
「特定できますか」
「できない」
黎一が廊下から言う。
「私は外していない」
高井は振り返らない。
「後で別に聞きます」
「私の家の資料だ」
「だから、あなたの供述と宗一郎さんの供述を混ぜません」
黎一は黙った。
高井が続ける。
「氏名欄の欠落が四回目の接続前に始まったと認識しながら、七月三十一日に時計を使用した」
「そうだ」
「接続によって欠落を止められると判断した根拠は」
宗一郎は目を閉じた。
「前年冬、颯真が死んだ履歴へ近づくほど、学校と黒瀬家で名前の欠落が増えた。生存履歴へ接続した後、一部が戻った」
「何が戻った」
「直哉の母の写真。顔ではなく、写真そのものだ。使用前は額から消えていた」
直哉が息を止める。
「俺は聞いていない」
「言わなかった」
「なぜ」
「妻の顔を思い出せない私が、写真を根拠にしたと知られたくなかった」
宗一郎は初めて、理論ではなく恥を口にした。
「写真が戻った。だから、颯真を生存履歴へ接続すれば、七月二十八日の欠落も戻る可能性があると思った」
高井が確認する。
「写真一枚の変化を、学校全体の現象へ当てはめた」
「そうだ」
「誰かと検討しましたか」
「していない」
「沙夜子さんには」
「連絡がつかなかった」
「黎一さんには」
「知らせれば止める」
黎一が廊下で笑った。乾いた短い音だった。
「止めていた」
「だから知らせなかった」
二人の憎しみは、因果の解釈だけでなく、相談されなかった時間にも根を持っている。
低く髪を結んだ澪が、廊下から訊く。
「四回目で、七月二十八日に消えた名前は戻りましたか」
「確認できなかった」
「では失敗です」
宗一郎は頷かなかった。
「颯真は生きている」
現在の颯真が玄関から立ち上がる。
「俺を成功って呼ぶな」
誰も間へ入らなかった。
「俺は生きてる。嬉しい奴もいる。それは消すな。でも、他が分からないまま俺だけ指して成功って言うな」
宗一郎は孫を見る。
「なら、何と呼ぶ」
「俺だよ」
颯真は右手で自分の胸を叩いた。
「結果じゃない。俺の名前で呼べ」
宗一郎の口が動く。
「颯真」
「もう一回」
「颯真」
玄関の外から返事はない。今ここにいる一人だけが、祖父に呼ばれた。
それでも工具箱の内側で、金属が一度鳴った。
カチリ。
宗一郎の右手がベルトを強く引く。
高井と直哉が同時に身体を押さえた。湊は箱へ走らず、二人の澪を見る。一人は立ち上がり、もう一人は座ったまま工具箱を見ている。反応が違う。どちらも消えていない。
黎一だけが、音ではなく宗一郎の顔を見ていた。
「五回目を開けば、何が戻ると思っている」
宗一郎は答えなかった。
その沈黙で、全員に分かった。
祖父はまだ、開けば救える何かを隠している。
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