第四十一話 沙夜子が中止した実験
外の颯真が持つ時計は、針がなかった。
正午。
夜のように暗くなった校庭から、湊は体育館の入口を見ている。
外の颯真は扉の内側に立ち、右手を伸ばしていた。左手の時計は、文字盤だけが白い。長針も短針も秒針も外され、中央に三つの穴が空いている。
「それ、向こうの工具箱に入ってた時計?」
湊は距離を保ったまま訊いた。
外の颯真の唇が動く。
声は聞こえない。
現在の颯真と同じ顔が、苛立って歪んだ。時計を床へ置き、両手で工具箱の形を作る。それから、蓋を開く動作。
首を横に振る。
「開けてない?」
外の颯真は頷いた。
時計を指し、学校の床を指す。
「ここで見つけたの」
もう一度、頷く。
高井は校外の連絡車から、学校担当の警察官を通じて指示した。
「体育館へ入りません。外の颯真君へ、時計を入口から離すよう伝えてください」
湊が手で床を指し、奥へ押し戻す仕草をする。
外の颯真は従わなかった。
代わりに、上着の内側から紙を三枚出す。内窓越しに見せた、沙夜子の観測記録の続きだった。
一枚目を時計の下へ置く。
二枚目を体育館の中央へ投げる。
三枚目を胸に当てる。
「どれか選べって?」
湊が訊く。
外の颯真は首を横に振った。
三枚を順番に指し、最後に自分を指す。
「順番?」
頷く。
一枚目は、時計と一緒に見つけた。
二枚目は、体育館にあった。
三枚目は、自分が持っていた。
湊はそう解釈したが、ノートには断定せず、見た動作だけを書いた。
「紙をこっちへ滑らせて」
外の颯真は三枚目を持ったまま、最初の一枚を足で押した。
紙は体育館の敷居まで来て止まる。
警察官が長い証拠採取具を伸ばした。扉の内側へ身体を入れず、紙の端を挟む。
紙が境目を越えた瞬間、校庭の暗さが濃くなった。
採取具を持つ警察官の手袋へ、黒い線が一本走る。
「離して!」
湊が叫ぶ。
警察官は具を落とした。
紙は境目のこちら側。採取具の先だけが体育館側へ残る。
手袋を外すと、皮膚に傷はない。黒い線も手袋の表面だけだった。
「接触なし。痛みなし」
警察官が自分で報告する。
「紙には触らないで」
高井の声が無線から届く。
「その場で撮影し、拡大してください」
紙は半分焼けていた。
上部に日付。七月二十八日、十八時四十二分。
沙夜子の筆跡とされる文字で、観測条件が並んでいる。
同一地点。
同一物品。
関係者二名以上。
対象者の位置記録。
最後の行へ、強い筆圧で二本線が引かれていた。
余白に追記がある。
――位置記録を中止。観測者が対象者の行動を決め始めたため。
「成功した方法じゃない」
湊が言う。
佐伯先生は少し離れた場所から紙を読む。
「実験をやめた理由ね」
「対象者って、誰」
名前の部分は焼けている。
「分かりません」
高井が答える。
「沙夜子さん自身か、宗一郎さんか、ほかの研究協力者か。観測者が誰かも、この紙だけでは決められません」
「でも、場所を書いたら危ないって意味じゃない」
「場所を記録する行為そのものではなく、記録を使って本人の行動を決めたことを問題にしたように読めます」
外の颯真が床を踏み鳴らす。
早く二枚目を取れと急かしている。
湊は動かなかった。
「一枚ずつ確認する」
声が聞こえなくても伝わるよう、指を一本立てる。
外の颯真は中指を立てた。
現在の颯真と同じ仕草だった。
「怒っても順番は変えない」
二枚目は体育館の中央にある。採取具では届かない。
外の颯真へ、入口まで持ってくるよう身振りで伝える。
颯真は紙へ近づき、途中で止まった。
体育館の床に、白い線が現れている。
追悼の時間に並べた椅子の位置を囲むような長方形。外の颯真が一歩進むたび、線が濃くなる。
彼は二枚目へ届く前で引き返した。
両腕で罰印を作る。
「入れない?」
頷く。
「じゃあ、紙は置く」
外の颯真は激しく首を横に振った。
自分の胸に残した三枚目を掲げる。
大きく書かれた数字だけが見えた。
二十一時十三分。
その下に、湊の名がある。
「俺の記録?」
外の颯真は紙を胸へ押しつけた。
唇が動く。
今度は、声が聞こえた。
『俺が書いた』
雑音に混じった低い声だった。
湊は一歩出かけ、止まった。
「聞こえた」
『俺が、湊の場所を書いた』
外の颯真の声は、現在の颯真より少し掠れている。
『全員に書かせた。俺が集めた。間違えたくなかった』
「それで俺が消えた?」
『消えた』
「紙に書いたから?」
『分からねえ』
外の颯真は叫んだ。
『分からねえから、全部持ってきた!』
白い線が濃くなり、体育館の床が奥から消える。木の床板の代わりに、白い廊下が伸びていた。
外の颯真は敷居へ走った。
湊へ右手を伸ばす。
『こっちへ来い』
「行かない」
『俺の紙を読め』
「そこから渡して」
『渡したら、お前はまた俺を置いていく』
湊は答えに詰まった。
外の颯真は助けを求めている。
同時に、自分を現在の颯真より先に選ばせようとしている。
どちらか片方だけを本心にはできない。
「置いていく」
湊は言った。
外の颯真の顔が固まる。
「今は、そっちへ行かない。夜九時十三分まで、兄ちゃんをそこへ置いていく」
『俺が消えてもか』
「消えないでって言う。でも、俺が行けば助かるって根拠はない」
『現在の俺なら行くくせに』
「行きたい」
湊は否定しなかった。
「今の兄ちゃんが同じ場所にいたら、俺はもっと近づく。でも、それが正しいとは言わない」
外の颯真は三枚目を握り潰した。
『俺だって、お前を選んだ』
「知ってる」
『それで失った』
「だから、今度は俺を選ぶなって言わない」
『何を言ってる』
「兄ちゃんが俺を先にしたことを、なかったことにしない。でも、その答えを時計に使わせない」
外の颯真は長い間、動かなかった。
やがて三枚目を開き直し、床へ置く。
自分の血で書いた部分を、靴底で踏んだ。
『俺は、今の俺が邪魔だ』
「今の兄ちゃんも、同じことを言った」
『俺が戻れるなら、追い出したい』
「それも聞いた」
『それでも、箱を開けるな』
外の颯真は、針のない時計を蹴った。
時計が敷居へ滑る。
境目を越えず、寸前で止まった。
『それは、こっちで箱が開いたあとに残ってた』
「向こうでは五回目を開けたの?」
『誰が開けたか見てねえ。湊を探して戻ったら、箱が開いてた。針だけなくなってた』
初めて得られた、外の履歴の開封後の情報だった。
時計を開けば湊が戻るという証拠にはならない。
外の履歴では、開いたあとも湊は戻らず、颯真は白い場所へ残されている。
「その時計は取らない」
湊が言う。
『持ってけ』
「こっちの時計と同じ場所へ集めない」
『調べねえのか』
「今は集めない。写真を撮る。兄ちゃんが持ってて」
外の颯真は笑った。
『盗られるのが怖いんだろ』
「兄ちゃんに任せるのも怖い」
『正直だな』
「二枚目は、夜を越えてから取る」
『残ってたらな』
午後零時十三分。
校庭の暗さが少し薄れた。
外の颯真の声はまた聞こえなくなり、体育館の床も木目へ戻る。
本人は扉の内側に残った。
針のない時計と、二枚の記録も向こう側にある。
こちらへ渡った一枚だけを、警察官が透明板ごと封入した。
沙夜子が最後に録音した言葉ではない。
誰へ向けた遺言でもない。
観測者が対象者の行動を決め始めたから、位置記録を中止した。
残ったのは、答えではなく、やめた理由だった。
高井は紙の全文を各地点へ送らなかった。
学校には原物を残し、病院へは「本人の行動を代わりに決めない」という中止理由だけを伝える。黒瀬家へは、外の履歴で箱が開いたあとも湊が戻らなかった事実だけを送る。神社の黎一には、沙夜子の筆跡確認を求めず、夜を越えてから原物を見るか選ばせた。
一枚の記録から、全員へ同じ命令を作らないためだった。
採取具についた黒い線は、手袋ごと別の袋へ封入された。人の皮膚へ移らなかったことも、痛みがなかったことも記録する。
黒い線が危険の印なのか、境界を越えた物へ付く痕跡なのかは、まだ決められない。
午後零時二十分。
黒瀬家の工具箱の蓋が、誰も触れていないのに一ミリ持ち上がった。
颯真と警察官は、決めたとおり家からさらに離れた。
箱を閉じる者はいなかった。
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