第四十話 昼に始まる夜
『湊は、どこにいる』
午前九時十三分。
主電源を落とした校内放送から、一度だけ声がした。
学校にいるのは湊、佐伯先生、警察官二人。高井は校外の連絡車にいる。
「返事しないで」
佐伯先生が言う。
二度目の声は、体育館の閉じた扉の向こうから聞こえた。
スピーカーではない。
誰かが中で同じ言葉を言ったような近さだった。
警察官が外周から無人を確認する。扉は開けない。
しばらくして、隙間から一枚の紙が滑り出した。
昨日の説明会で提出された追悼文だった。
表にはクラスメートの文章。
裏には、貼った覚えのない写真。
体育館で二人の颯真が並び、その間に湊がいる。
背景の時計は午後九時十四分。
「これ、欲しい」
湊が言った。
佐伯先生は否定しなかった。
「二人の兄がいるから?」
「うん」
紙の写真では、現在の颯真も外の颯真も笑っている。
「でも、俺がこの写真の中に行ったら、澪とか父さんたちがどうなってるか分かんない」
湊は追悼文を折らなかった。
透明袋へ入れ、体育館の扉から離れる。
午前九時三十分。
黒瀬家。
工具箱の前には誰もいない。
現在の颯真と警察官二人は庭にいる。
玄関の曇りガラスへ、内側から小さな手が触れた。
「兄ちゃん」
声は聞こえない。
ガラスの向こうに湊がいる。
学校にいるはずの弟。
幼い頃と同じ右頬の傷まで見える。
颯真が一歩、玄関へ寄る。
警察官が止める。
「黒瀬君」
「湊がいる」
「学校側へ身体確認を依頼します」
「今ここに見えてんだよ」
ガラスの湊が口を動かす。
開けて。
颯真の右手が引き戸へ伸びる。
途中で止まった。
「今の湊が本当に中にいるなら、俺が開けなくても中にいる」
警察官が学校へ確認する。
返事。
――湊君の身体を校庭で確認。移動なし。
颯真は玄関から下がった。
「外の俺なら、開けたかな」
誰も答えない。
颯真は自分で舌打ちした。
「開けたな。俺なら」
ガラスの中の湊は、しばらくそこにいた。
誰も戸を開けない。
やがて消えた。
午前十時。
病院。
佳乃は宗一郎へ、妻と並んで写る写真を一枚持ってきた。
「ここに置くか、別の場所へ持っていくか、自分で決めて」
宗一郎は写真を受け取る。
写っている女性の顔を知らない。
それでも、自分の妻だと教えられている。
佳乃が帰ったあと、病室の照明が落ちた。
明るい窓が鏡のようになり、女の顔を映す。
写真とは違う顔。
宗一郎の喉が鳴った。
忘れていた妻の顔だった。
右の眉が先に上がる。
笑う直前、唇を一度噛む。
記憶が戻る。
窓の女が洗面台の鏡を指した。
布をかけていた鏡の下から、白い光が漏れる。
宗一郎は立ち上がる。
「黒瀬さん」
看護師が入る。
「妻がいる」
「私には見えません」
「だから何だ」
宗一郎の右手が鏡へ向く。
看護師は触らず、名を呼ぶ。
「黒瀬宗一郎さん。事前に決めた手順では、見えている物へ近づかないことになっています」
宗一郎は一歩進む。
鏡の向こうで妻が手を伸ばす。
右手が震える。
ベッド脇には、青の澪から渡された採血ラベルがある。
――私を助けるなら、私が同意した治療を続けてください。
妻がもう一度、唇を動かす。
開けて。
宗一郎は床へ座った。
「鏡を覆ってくれ」
看護師が布を直す。
顔は消えた。
宗一郎は目を閉じる。
右の眉。
唇。
まだ覚えている。
写真の裏へ、その二つだけを書く。
妻の名前は書かなかった。
午前十一時十三分。
青の澪の点滴機械へ、御厨澪の氏名が二つ表示された。
看護師は片方を消さない。
薬剤、腕、同意書を確認し、手動で点滴を続けた。
「表示、直さないんですか」
青の澪が訊く。
「今ここにいる患者さんを先に見ます。記録の修正はあとです」
御厨家では、白の澪が自分のノートを開いていた。
前日まで別々だった相談記録の複写。
青と白の欄が、どちらも消えている。
氏名は一つ。
御厨澪。
その下に、病院の住所が薄く浮かんでいた。
命令文はない。
それでも、行けと言われているように見えた。
白の澪は立たなかった。
自分の頁に書く。
――青の人が心配。
――病院へ行きたい。
――今は行かない。
紙を閉じる。
「電話しなくていいんですか」
職員が訊く。
「したいです」
「では」
「したいから、今はしません。昨日決めた連絡まで待ちます」
正午。
学校の校庭だけが暗くなった。
太陽は出ている。
校門の外は昼。
体育館の内側だけが、夜へ続いている。
扉が開く。
外の颯真が立っていた。
左手には、工具箱の時計と同じ形の時計。
ただし、文字盤に針がなかった。
湊は校門の外から見た。
今度は、誰の携帯電話も鳴らなかった。
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