第三十九話 八月十五日の朝
八月十五日、午前六時。
湊は、自分の行き先を学校と書いた。
黒瀬家の食卓には、家族全員分の配置表がない。湊の前にあるのは、自分の条件だけを書いた一枚だった。
――学校へ行く。
――西棟へ入らない。
――外の颯真が助けを求めても、時計を開けない。
――一人を選べという命令には従わない。
最後の余白へ、湊は一行を足す。
――現在の兄が学校へ来たら、自分が離れる。
「本当に学校でいいのか」
直哉が訊いた。
「外の兄ちゃんが出るかもしれないから」
「それが、学校を避ける理由にはならないのか」
「なる」
湊は紙を二つ折りにした。
「でも、外の兄ちゃんのことを誰も見ない場所にはしたくない」
「助けに入らないのに?」
「見捨てるのと、今は入らないのを同じにしたくない」
直哉はそれ以上止めなかった。
佳乃が台所から封筒を持ってくる。中には、入学式の家族写真が一枚だけ入っていた。裏に現れた命令は警察が回収したため、これは同じ場面を佳乃の携帯電話で撮った別の写真だ。
「持っていく?」
湊は首を振った。
「学校には、追悼の原稿が残ってる。家族写真まで集めない」
「じゃあ、これは私が持つ」
「父さんと一緒に持たないで」
佳乃は少し傷ついた顔をした。
「お母さんたちを離したいの?」
「写真の保管場所を離したいだけ」
「同じことに聞こえる時もあるわ」
「それでも、今日は分けたい」
佳乃は封筒を自分の鞄へ入れた。直哉は別の写真を警察署へ届ける。
現在の颯真は、居間の隅で左腕の吊り具を締め直していた。
「学校には行かない」
湊へではなく、高井へ送る確認文を読み上げる。
「黒瀬家で工具箱を見る。蓋が動いたら、玄関から出る。押さえねえ。開けねえ。外の俺が出ても、湊に学校へ残れとは命令しねえ」
「最後の、昨日はなかった」
湊が言う。
「今決めた」
「俺が勝手に帰ってきたら」
「殴る」
「腕、治ってないよ」
「右手がある」
颯真は乱暴に言い、吊り具を外さなかった。
医師から止められた行動を、格好をつけるために破らない。それも、今の颯真が選んだことだった。
午前六時二十分。
病院では、青の澪が点滴の管を見ながら、学校へ行かないと決めた。
熱は三十七度四分。傷の腫れは少し引いたが、抗菌薬を止める理由にはならない。
「昨日までは、学校を選んでいました」
高井から派遣された女性警察官へ、青の澪が言う。
「変更していいと聞きました」
「変更できます」
「病院に残ります」
「黒瀬宗一郎さんも、同じ病院にいます」
「知っています」
宗一郎は別棟の個室にいる。渡り廊下は施錠され、医療職と警察官がつく。
「同じ建物に集まる危険を、どう考えますか」
「移動する危険より、治療を止める危険を選びません」
青の澪は自分で言い直した。
「治療を続ける方を選びます」
危険を選ばないのではない。二つの危険を比べ、自分の身体について決めた。
警察官はその言葉を一字ずつ記録した。
「宗一郎さんへ、あなたの場所を知らせますか」
「同じ病院にいることだけ。病室は知らせないでください」
「面会は」
「しません」
青の澪は窓の外を見る。
「でも、昨日渡したラベルを持っているかだけ、看護師さんに確認してほしいです」
宗一郎は、採血ラベルを病室の卓上へ置いていた。
――私を助けるなら、私が同意した治療を続けてください。
何度も開いて読んだため、折り目が白くなっている。
午前六時四十分。
白の澪は一時保護先の洗面所で、自分の髪を切った。
長さを揃えるためではない。
耳の下で一房だけ、職員に鋏を入れてもらう。青の澪と見分けるためではなく、昨日から切りたいと思っていた場所だった。
「今日でなくてもいいのよ」
職員が念を押す。
「今日だから切るわけではありません」
白の澪は鏡の中の自分を見る。
「十五日が終わったあとに切ると、残れたから変えたように見える気がします。今、切りたいです」
切った髪は証拠袋へ入れなかった。本人の希望で、紙に包んでごみ箱へ捨てた。
血や髪を残さなければ存在を証明できない方法にはしない。
白の澪が選んだ行き先は、御厨家だった。
「叔父さまには、まだ伝えないでください」
「御厨さんは、山ノ宮神社へ行く予定です」
「知っています。いない家へ行きたいんです」
沙夜子の部屋を使った青の澪とは違い、白の澪はまだ御厨家で自分だけの場所を作っていない。
「家へ入る許可はありますか」
「叔父さまから、いつでも帰ってよいと言われました」
「帰るんですか」
白の澪は考えた。
「今日は、行きます。帰るかどうかは、夜を越えてから決めます」
職員は「御厨家へ帰宅」と書きかけ、線を引いた。
――本人の希望により、御厨家へ移動。
そう記し直した。
午前七時。
黎一は山ノ宮神社の石段にいた。
持っているのは、沙夜子の焼け残った観測記録の写し一枚。原本は警察が保管している。
神社の井戸を塞ぐ工事はしなかった。
この場所が時計の入口だという証拠はなく、石で蓋をすれば安全になる根拠もない。代わりに、境内へ立入禁止の柵を置き、警察官と二人で見張る。
「姉さんのために来たんですか」
同行した警察官が訊いた。
「自分のためだ」
黎一は答えた。
「姉のためだと言えば、また何をしても許される」
「宗一郎さんが来たら」
「止める」
「危害を加えますか」
黎一は井戸を見た。
「殴りたい」
警察官の手が腰の装備へ近づく。
「だが、殴るためにここへ呼ばない。来た時は、あなたが先に止めろ」
午前八時十四分。
黒瀬家の工具箱が鳴った。
前日と同じ、予定にない時刻。
颯真、直哉、佳乃の三人が聞いた。
蓋は動いていない。
「離れるぞ」
直哉が言う。
三人は決めていた出口へ向かった。
颯真は玄関。直哉は勝手口。佳乃は庭へ面した窓。
誰も箱を押さえない。
三人が家の外へ出ると、工具箱の中で二度目の音がした。
颯真は振り返らない。
「見なくていいの?」
佳乃が庭から訊く。
「見たら戻る」
「開いたかもしれない」
「開いたなら、警察を呼ぶ。俺が閉めに行かねえ」
直哉が別の電話から高井へ連絡する。
警察官が到着するまで、三人はそれぞれの出口の外にいた。
午前八時二十六分。
防護具を着けた警察官が窓越しに確認した。
工具箱の蓋は閉じている。
箱の中の時計だけが動いていた。
昨日まで九時十三分で止まっていた長針が、逆向きに進んでいる。
八時二十六分の時点で、時計は八時ちょうどを指していた。
「夜九時十三分までの残り時間ではない」
高井が電話越しに言う。
「逆に進む速度も、一分に一分ではありません。意味はまだ分かりません」
「朝から開こうとしてるんじゃないのか」
颯真が訊く。
「時計に意思があるとは判断しません」
「じゃあ、誰が動かしてる」
「それも不明です」
工具箱は黒瀬家から移さない。
危険だからと運べば、移動先を新たな重なりへ変える可能性がある。家の周囲を立入禁止にし、直哉と佳乃は別々の避難先へ移ることになった。
颯真だけが残ると言った。
「条件では、三人とも離れることになっています」
高井が止める。
「離れた。今は選び直す」
「一人で箱を監視するのは認められません」
「じゃあ警察を一人置け。家族は残すな」
「理由は」
「湊が学校にいる。外の俺も学校にいる。祖父ちゃんは病院。澪たちは別々だ」
颯真は閉じた雨戸を見る。
「ここまで空にしたら、黒瀬家だけ誰も選ばなかった場所になる。俺はそれが嫌だ」
安全の根拠にはならない。
それでも高井は、警察官二人を残す条件で認めた。颯真の位置は、他の地点へ一斉送信しない。
午前九時十三分。
湊は学校の校門をくぐった。
青の澪は病院で点滴を受けている。
白の澪は御厨家の玄関を、自分の鍵で開けた。
黎一は神社の井戸から三歩離れた。
現在の颯真は、工具箱のある家の外に座った。
宗一郎は病室で採血ラベルを読んでいた。
誰も、ほかの全員の位置を知らない。
黒瀬家の時計は逆向きに進み、七時三十六分を指した。
学校の西棟で、校内放送が入る。
雑音のあと、子どもの声が一人分だけ聞こえた。
『湊は、どこにいる』
湊は答えなかった。
自分の位置を書いた紙を折り、ポケットの奥へ入れた。
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