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時は復讐を忘れない  作者: 23
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第四十二話 現在の兄が負ける時

外の颯真が時計を壊したのは、午後一時十三分だった。


体育館の入口から白い線が伸び、校庭へ出ようとしていた。


湊は線を踏まないよう、校門側へ下がる。佐伯先生と警察官も別々の方向へ距離を取った。


外の颯真は扉の内側にいる。


針のない時計を拾い、白い線へ投げた。


線は時計を避けず、文字盤の下を通る。


体育館の床に立っていた外の颯真の輪郭が、一瞬だけ濃くなった。


声が戻る。


『湊、校門から出ろ』


「兄ちゃんは」


『俺の場所は書かれてねえ。お前の条件に俺を足すな』


「置いていけない」


『昼に置いてくって言っただろ。今さら格好つけんな』


白い線が湊の靴先へ近づく。


線の向こう側だけ、校庭の地面が白い廊下へ変わっていく。砂も雑草も消え、光源のない床になる。


湊は校門へ向かって走った。


三歩目で振り返る。


外の颯真が時計を踏んだ。


一度では割れない。二度、三度と踵を落とす。文字盤へひびが入り、三つの針穴から黒い粉が噴いた。


『見るな!』


湊は走った。


校門の外へ出ると、背後でガラスの割れる音がした。


学校を覆っていた暗さが、体育館へ向かって縮む。


白い線は校門の手前で止まった。


午後一時十五分。


体育館の扉は閉じている。


外の颯真も、針のない時計も見えない。


「外の颯真君が時計を壊したことで、現象が止まったとは断定できません」


高井は校外の連絡車で映像を確認した。


「時刻が変わったためか、湊君が校外へ出たためか、複数の条件が考えられます」


「でも、あいつは俺を逃がした」


湊が言う。


「その行動は記録されています」


現在の颯真へ伝えるべきか、湊は迷った。


各地点へ全情報を集めない条件がある。外の颯真が時計を壊したことは、黒瀬家の工具箱への対応に直接必要とは限らない。


それでも湊は、自分で電話をかけた。


「学校で危ないことがあった。俺は校門の外にいる」


『怪我は』


颯真の声がすぐ返る。


「ない。佐伯先生たちも無事」


『外の俺は』


「見えなくなった」


『何があった』


「白い線が来て、あいつが時計を壊した。俺に逃げろって言った」


電話の向こうで、颯真が黙る。


『そいつが壊したせいで危なくなったかもしれねえ』


「そうかもしれない」


『最初から仕組んでたかも』


「それも分からない。でも、俺に逃げろって言った」


『同じこと何回言うんだよ』


「兄ちゃんが、聞かなかったことにしようとしてるから」


『してねえ』


颯真の声が大きくなる。


『あいつはお前を消した側の俺だぞ。全員の位置を集めて、お前を選んで、それでも消した』


「今の兄ちゃんは、何も失敗してないの」


『何の話だ』


「俺が学校へ来たの、止められなかった。箱を家へ置いたままにした。祖父ちゃんが四回開ける前も、何も知らなかった」


『俺のせいじゃねえ』


「外の兄ちゃんも、全部あいつのせいじゃない」


颯真は返事をしない。


湊は言った。


「今、俺を助けたのは、外の兄ちゃんだった」


通話が切れた。


黒瀬家では、工具箱の蓋が二ミリまで開いていた。


現在の颯真は家の外から、その隙間を見ている。


箱の中は暗くない。


細い隙間の向こうに、黒瀬家の居間が見えた。


同じ卓、同じ柱の傷、同じ食器棚。


ただし、工具箱の前に座っているのは外の颯真だった。


左腕に吊り具はない。


直哉と佳乃が、その颯真へ食事を出している。湊も隣に座り、何かを笑っている。


「閉めろ」


颯真が警察官へ言った。


「決めた条件では、箱へ触れません」


「向こうが見える」


「私には暗い隙間しか見えません」


「あいつが家にいる」


颯真は玄関へ一歩進んだ。


「俺が閉める」


警察官二人が前へ出る。


「近づかないでください」


「外の俺が戻ってる!」


「湊君は学校の外で確認されています」


「分かってる!」


颯真は怒鳴った。


分かっていても、隙間の向こうの湊は本物に見える。


もし成立済みの履歴なら、そこには家族と暮らす外の颯真がいる。自分が帰ってきたために押し出された兄ではなく、最初から家に残った兄。


現在の颯真は、その履歴で自分がどこにいるかを知らない。


死んだままかもしれない。


白い場所にいるのが自分かもしれない。


「俺が邪魔なんだろ」


工具箱へ向かって言った。


隙間の向こうの外の颯真が、こちらを見た。


聞こえたはずがないのに立ち上がる。


口が動いた。


――お前が邪魔だ。


現在の颯真は笑った。


同じ答えだった。


「俺もだよ」


右手を箱へ伸ばす。


蓋を閉めれば、向こうの兄を家から追い出せるような気がした。


あと二歩。


左腕に痛みが走る。吊り具の中で、骨折した場所が熱を持つ。


颯真は足を止めた。


外の自分は、今、湊を逃がした。


自分は、外の自分を消すために箱へ触れようとしている。


兄として負けた。


そう思った瞬間、腹の底が焼けるほど悔しかった。


「戻る」


颯真は警察官へ言った。


「どこへです」


「決めた位置まで下がる」


一歩ずつ、箱から離れる。


隙間の向こうの居間は消えない。


外の颯真が湊の頭を小突く。湊が怒る。直哉が止め、佳乃が笑う。


欲しくない光景ではなかった。


自分がいないことだけが、許せなかった。


「あいつを家族だって認めるんですか」


警察官の一人が訊いた。


「認めたくねえ」


「では、なぜ戻るんです」


「認めたくねえことと、あいつが湊を助けたことは別だからだ」


颯真は最初の位置まで下がった。


工具箱の蓋が、三ミリ開く。


隙間は広がったが、颯真は戻らない。


午後一時四十二分。


湊の携帯電話へ、外の颯真から文章が届いた。


――時計は壊れてない。


続けて、割れた文字盤の写真。


ひびの下で、失われていた秒針だけが動いている。


――壊したら針が一本戻った。


三通目は、質問だった。


――今、俺とあいつのどっちを残したい。


湊はすぐに答えなかった。


一人を選べという命令には従わない。それは、選びたい相手がいないふりをすることではない。


佐伯先生へ画面を見せる。


「答えたら、選択を利用されるかもしれない」


「答えなくても、外の颯真君は自分が選ばれなかったと思うかもしれない」


「先生なら、どうする」


「私の答えを、君のものにしないで」


佐伯先生は逃げずに言った。


湊は自分のノートを開く。


外の颯真は、自分を選び、失った。


現在の颯真は、目の前で喧嘩し、怪我をし、工具箱から離れた。


二人とも兄だ。


それでも、同じではない。


湊は返信した。


――今ここで一人を先にするなら、現在の兄ちゃん。


送信する前に、もう一行足す。


――でも、その答えで兄ちゃんを消させない。


既読の表示はつかなかった。


体育館の扉も開かない。


五分後、割れた時計の秒針が止まった写真だけが届く。


文章はない。


「怒ったかな」


「怒る権利はあります」


佐伯先生が答えた。


「それで協力をやめるかは、外の颯真君が決めることです」


午後一時五十分。


体育館の扉が十センチだけ開いた。


外の颯真は姿を見せず、床へ一枚の紙を滑らせる。警察官が望遠で文字を読む。


――分かった。むかつく。


その下に、小さく続いている。


――九時十三分までは手を組む。


湊は扉へ近づかなかった。


「ありがとう」とも言わない。選ばれなかった兄へ礼を言えば、譲ってもらったように聞こえる。


代わりに、自分の条件書を地面へ置いた。外へ渡すためではない。外の颯真から見える距離で開く。


――外の颯真が助けを求めても、時計を開けない。


その下へ、新しく書く。


――外の颯真が怒っても、兄でなくなったことにしない。


扉の隙間から、丸めた紙が飛んできた。湊の足元まで届かず、白い線の手前で止まる。


――勝手に兄にすんな。


外の颯真の字だった。


さらに裏面。


――弟じゃないとも言ってねえ。


湊は笑わなかった。笑えば、話をきれいに終わらせる気がした。


紙は取りに行かず、警察官の望遠写真だけを残した。


湊は現在の颯真へ、その情報を送らなかった。


箱へ触れる判断に必要ではない。外の時計を壊せば針が戻るという現象を、こちらの時計で試させないためでもある。


代わりに一行だけ送る。


――外の兄ちゃんを、兄ちゃんとして記録した。


今度は、現在の颯真から電話が来た。


『俺とあいつ、どっちを選んだ』


湊は驚いた。


「何で分かったの」


『お前の文が、言い訳してる時の文だからだ』


「今の兄ちゃんって答えた」


『当たり前だ』


「外の兄ちゃんは、むかつくって」


『それも当たり前だ』


「それでも手を組むって」


颯真はしばらく黙った。


『俺は今、あいつに負けてる』


「何で」


『お前を逃がしたのは、あいつだからだ』


「勝ち負けにしなくていい」


『俺が決めることだ』


颯真は吐き捨てるように言った。


『だから、次は俺が勝つ。箱を開けないでな』


通話が切れた。


午後二時十三分。


工具箱の隙間の向こうから、家族のいる居間が消えた。


蓋は三ミリ開いたまま。


現在の颯真は、最後まで閉めに行かなかった。


自分だけが兄であることには負けた。


それでも、自分の場所から消えてはいなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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