第三十三話 復讐の置き場所
黎一が学校へ入った時刻は、午後九時四分だった。
正門の防犯記録に、灰色の車が残っていた。校舎へ入る姿はない。閉鎖中の西棟に近い通用門は、七月の事故から録画装置が外されたままだった。
傷のある澪から連絡を受けた高井は、職員玄関の前で全員を止めた。
「入るのは私と警察だけです」
「俺も行く」
現在の颯真が言う。
「昨日、外のあなたが現れた場所です。二人を同時に近づける危険は増やせません」
「黎一が何するか分かってんのか」
「分からないから、人数を絞ります」
湊は車の後部座席で、傷のある澪の隣に座っていた。直哉が運転席、佳乃が助手席。傷のない澪は黒瀬家に残り、宗一郎の検査帰りを待っている。
分かれていることを崩さない。
それが、二人の澪が出した条件だった。
「叔父さまは、紙を持って出ました」
傷のある澪が窓を少し開ける。
「学校の西棟と、沙夜子さんの観測席と書いてありました」
高井の顔色が変わる。
「観測席という呼び方を、どこで」
「叔父さまの字です」
「記録にその名称はありません。ただ、研究班が西棟を観測場所として使った時期はあります」
「どの部屋だ」
直哉が訊く。
「旧放送室です。事故後の改修で閉鎖されました」
颯真が職員玄関の取っ手へ手をかけた。
警報は鳴らなかった。
代わりに、湊の携帯電話が震える。
表示された番号は、現在の颯真のものだった。だが颯真は車の外にいて、自分の携帯電話を左手に持っている。
着信は一度切れ、短い文章が届いた。
――黎一を観測席へ入れるな。紙を燃やす。
「外の兄ちゃんだ」
湊が画面を見せる。
颯真は自分の携帯を確かめた。送信履歴はない。
「何で、あいつが俺の番号を使える」
「同じ番号が、向こうの履歴にも残っているのかもしれません」
高井は推測を記録せず、文章だけを撮影した。
「紙とは何です」
湊が返信する。
答えはすぐに来た。
――八月十五日の配置じゃない。沙夜子が残した失敗の一覧だ。
二通目。
――あれを消したら、宗一郎だけが悪かったことにできる。
傷のある澪が車の扉を開けた。
「私が行きます」
「駄目だ」
黎一ではなく、湊が止めた。
澪は降りずに湊を見る。
「叔父さまは、私をここへ置いていかないと言いました」
「だからって危ない所に」
「連れ戻すためではありません。私は、叔父さまが私を理由に何をするのか知りたいです」
湊は言葉を探した。昨日、何もしないと決めた時の重さが戻ってくる。
守ると言えば、また相手の選択を取り上げる。
「高井さん」
湊は車外へ顔を向けた。
「澪を連れていく条件を決めてください」
高井は即答しなかった。
警察官二人と相談し、旧放送室の手前まで、湊と颯真も同行、澪には防刃の上着を着せる、黎一が危険物を持っていれば接触させない、と決めた。
西棟へ続く渡り廊下は、昨日より暗かった。
天井灯の半分が外され、床へ黄と黒のテープが貼られている。学校側の事故調査で置かれたものだ。白い廊下との境目ではない。
旧放送室の前に、焦げた匂いが漂っていた。
高井が手を上げる。
扉の下から、細い煙が出ている。
警察官が消火器を構え、もう一人が鍵を開けた。
室内には、放送卓と古い吸音材が残っていた。黎一は窓際に立ち、金属製のごみ箱へ紙を落としている。底で小さな炎が揺れていた。
消火剤が白く噴き、炎を覆った。
「何をする」
黎一が警察官へ詰め寄る。
「建造物内での火気使用を止めています。手を見せてください」
「俺の家から持ってきた、俺の姉の記録だ」
「所有権と火災の危険は別です」
高井が焼け残った紙へ近づく。文字の大半は煤と消火剤に隠れていた。
旧放送室の奥には、壁へ固定された細長い机がある。表面へ日時と数字が鉛筆で刻まれていた。
七月二十八日、十八時四十二分。
八月十五日、二十一時十三分。
間に三つの日付があり、それぞれの横へ丸と斜線が混じっている。
「これが観測席か」
颯真が訊く。
高井は机へ触れなかった。
「研究班が使った設備であることは確認できます。刻んだ人物は分かりません」
「姉だ」
黎一が言った。
「筆圧の癖も、数字の七をこう書くのも姉だ」
「なら、なぜ焼くんです」
傷のある澪が戸口から訊いた。
黎一の顔が強張る。
「来るなと言ったはずだ」
「何も言わずに出ました」
「帰れ」
「嫌です」
澪は室内へ一歩だけ入った。警察官の腕より先へは進まない。
「何が書いてあったんですか」
黎一は答えない。
高井が焼け残った束の端を指す。透明な保護袋へ入れる前に、見える範囲だけを読む。
「接続を止めるために試した方法と、その結果です。人を離す。時計を止める。観測者を変える。位置を書かない……」
湊は息を詰めた。
自分たちが今試していることが、すでに並んでいる。
「成功した方法は」
「この状態では分かりません」
「全部、失敗だ」
黎一が吐き捨てる。
「姉は宗一郎を止めると言いながら、何度も観測を続けた。危険だと知っていて、記録を取り、次の方法を試した。その結果、死んだ」
「宗一郎だけを憎めなくなるから、燃やしたんですか」
澪の問いに、黎一の肩が動いた。
「姉さんを責めたいのか」
「責めていません」
「なら、黙っていろ」
「叔父さまが、沙夜子さんを失敗しない人に変えようとしていると言っています」
黎一が澪へ向かう。
警察官が間へ入った。黎一は止まったが、握った右手は開かない。
「姉は、あいつに殺された」
「そのことと、沙夜子さんが何を選んだかは、同じではありません」
「お前に何が分かる」
「分かりません」
澪は震える声で答えた。
「私も、もう一人の私に、失敗しない私でいてほしくなるからです。あの子が違うことを選ぶと、怖くなります。でも、それを消したら、私はあの子を残したことになりません」
黎一の拳から、折り畳んだ紙が落ちた。
燃やされなかった最後の一枚だった。
高井が拾う前に、床へ開く。
沙夜子の筆跡だと黎一が言った字で、短い注意が残されていた。
――結果が悪くても、観測者の選択を記録から消さないこと。
その下は水に滲み、読めない。
宗一郎の名も、黎一への言葉もなかった。
黎一は膝をついた。泣かなかった。焼け残った紙を拾おうともせず、煤で黒くなった指を見ている。
「俺は、姉のためにやっている」
誰へ向けた言葉か分からなかった。
澪は答えた。
「それを決められるのは、もう叔父さまだけです」
「なら、俺が決めて何が悪い」
「私たちを使わないでください」
黎一が顔を上げる。
「宗一郎さんに同じ痛みを返すために、私たちが消えるかもしれない方法を残さないでください。叔父さまが復讐するなら、叔父さまのものを使ってください」
しばらくして、黎一は上着の内側からもう一枚の紙を出した。
八月十五日の配置を、四人分だけ書き写した紙だった。湊、二人の澪、宗一郎。空欄だった湊の位置には、学校と書き足されている。
湊は書いていない。
「これを一か所へ置けば、宗一郎は必ず来る」
黎一が言う。
「あいつが時計へ手を伸ばす瞬間を見届けるつもりだった。止めるかは、その時に決めるつもりだった」
「それが叔父さんの復讐か」
湊が訊く。
「そうだ」
「俺たちが消えても?」
黎一は返事をしなかった。
その沈黙だけで十分だった。
傷のある澪は、黎一へ手を伸ばさない。
「私は今夜、御厨家へ戻りません」
黎一の顔から血の気が引く。
「待て」
「叔父さまが私を閉じ込めなかったように、私も行く場所を決めます」
「どこへ行く」
「もう一人の私とは別の場所です。あなたにも知らせません」
黎一は初めて、焼けた記録ではなく澪を見た。
「やめる」
「何をですか」
「その紙を使う計画をやめる。高井さんへ渡す」
「復讐をですか」
黎一の唇が歪んだ。
「そこまで綺麗にはなれない」
高井へ配置紙を差し出す。高井は受け取る前に、警察官へ撮影させた。
「宗一郎を許す気はない。姉が死んだことを、事故という言葉で終わらせる気もない」
「では、何をやめるんです」
「姉のためだと言って、お前たちの選択を燃やすことだ」
黎一は傷のある澪へ頭を下げなかった。謝罪もしなかった。
ただ、差し出した紙から手を離した。
その瞬間、旧放送室の内窓に、外の颯真が現れた。
白い廊下を背にして、こちらを見ている。
外の颯真は焼け残った観測記録を指し、それから自分の胸を指した。
唇が、一度だけ動く。
――俺の方には、続きがある。
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