第三十一話 外の兄が学校にいる
外の颯真は、黒瀬家の引き戸へ戻らなかった。
八月十日、午後六時二十分。
現在の颯真は学校の職員玄関にいる。左腕の吊り具、外から受け取った最初の紙、書き写した三枚の位置記録。佐伯先生、高井、若い警察官が立ち会う。
湊は黒瀬家。
登校停止が終わるまで、学校へ来ない条件を守った。代わりに、佐伯先生の携帯電話が音声だけを繋いでいる。映像は使わない。職員玄関のガラスへ湊の顔まで重ねないためだった。
『本当に西棟じゃなくていいの』
湊の声が携帯から聞こえる。
「西棟は閉鎖中です」
佐伯先生が答える。
「それに、最初から危険な場所へ入る必要はありません」
颯真がガラス扉を見た。
「あいつが学校にいるって決まったわけじゃない」
『七月二十八日の紙を持ってた』
「学校の紙を持ってたから、学校にいるとは限らねえ」
『じゃあ、何で来たの』
「俺が決めた」
『理由は』
「お前に全部言う必要ない」
颯真は携帯へ背を向ける。
黒瀬家で待っても来なかった。外の自分が約束を破ったのか、来られなかったのか、消えたのか。どれも確かめられないまま家の玄関へ座り続けるのが嫌だった。
「外の颯真君が現れた場合、戸は開けません」
高井が確認事項を読む。
「紙の受け渡しもしない。六時五十分で中止。異変がなくても延長しません」
「分かってる」
「現在の時刻、立会人、持込物を確認します」
若い警察官が、颯真の紙を透明袋越しに撮影する。七月二十八日の原紙ではない。外の颯真から受け取った注意書きだけだ。
「湊君は、今どこにいますか」
高井が携帯へ訊く。
『黒瀬家の居間。父さんと母さんがいます。祖父ちゃんは病院へ検査に行ってます』
工具箱は同じ居間の隅。湊は箱から三メートル離れ、直哉が間へ座っている。
『兄ちゃんは職員玄関。佐伯先生と高井さんと、若い警察の人』
「名前は書かないでください」
『書いてない』
位置を声へ出すこと自体が危険かは分からない。それでも音声は録音せず、通話記録の時刻だけを残すことにしていた。
午後六時四十二分。
職員玄関のガラスに変化はない。
颯真は右手を戸へ近づけない。外の暗さを見ている。校庭にはまだ夕日が残り、部活動の声が遠く聞こえる。
一分。
二分。
『いない?』
湊が訊く。
「黙って待て」
三分目に、西棟の警報装置が鳴った。
火災報知器ではない。閉鎖区画の扉が動いた時に警備室へ届く電子音。
佐伯先生が顔を上げる。
「西棟二階です」
高井は若い警察官へ無線で警備室の確認を求める。監視映像には誰も映っていない。合板で塞いだ教室扉も、画面上は動いていない。
颯真が西棟へ歩き出す。
「待ってください」
「あいつがいる」
「確認できていません」
もう一度、電子音。
三回、間を置いて鳴る。
外の颯真が玄関を叩いた時と同じ間隔だった。
颯真は走ろうとした。左腕が揺れ、痛みに足が止まる。
『兄ちゃん』
携帯から湊の声。
「来るなって言うな」
『一人で行かないで』
「先生も警察もいる」
『じゃあ、一緒に行って』
颯真が高井を見る。
高井は西棟へ入る許可を警備責任者と校長へ確認する。消防による構造確認は終わっているが、二階の教室前は現場保存中。全員が入ることはできない。
「私と颯真君、佐伯先生まで。若い警察官は職員玄関を維持。湊君との通話もここへ残します」
「何で」
「二つの入口を同時に無人へしないためです」
颯真は不満でも従った。
午後六時四十六分。
三人で西棟へ入る。廊下の照明は半分だけ点いている。割れた教室扉の前へ警察テープ。合板は外れていない。
ただし、扉の縦長のガラスを塞いだ板と木枠の間に、白い光が見える。
颯真が立ち止まる。
「いる」
板の向こうから、人の影が動いた。
高井が位置と時刻を無線へ伝え、佐伯先生を廊下の角へ下げる。自分も扉へ触れない。
「声は」
「聞こえない」
颯真は板の隙間へ顔を寄せず、教室脇の小窓へ移る。校庭側の窓ではない。廊下と準備室を隔てる、四角いガラス。
そこに外の颯真がいた。
黒い制服。右頬のえくぼ。背後は教室ではなく、白い廊下。手には折り目だらけの位置記録が二枚ある。
「何でここにいる」
声は届かない。
外の颯真は、自分の背後を指した。
白い廊下の壁へ、学校の掲示物が半分だけ重なっている。『西棟』『八月』『立入禁止』。現実の学校から剥がれた物が、向こう側へ残ったように見える。
颯真は用意した紙を出す。
『黒瀬家に来なかった理由』
外の颯真が答える。
『行けなかった』
『いつから学校』
『紙を見せた後』
『紙が学校の物だから?』
『分からない』
外の颯真は、完成した法則を返さない。
『残りを見せろ』
外の颯真が一枚目をガラスへ向ける。
颯真、玄関。
その下に、別の鉛筆で書き足されている。
八月十五日午後九時十三分以後、西棟。
現在の颯真の場所ではない。外の颯真自身が、湊を失った後に移った場所だった。
二枚目。
湊、玄関。
文字の上から何度も書き直されている。
湊、階段。
湊、二階。
湊、手の中。
最後の一行だけ、紙が破れそうな筆圧だった。
湊、いない。
現在の颯真が息を止める。
「最後まで掴んでたんじゃないのか」
外の颯真は声を聞けない。それでも問いを読んだように、右手を見せた。
掌に、爪で抉ったような傷が四本ある。
『湊を傷つけた?』
外の颯真が首を横へ振る。
自分の手を傷つけた。
『重さを忘れないため』
現在の颯真の右手が握られる。
自分ならやると思った。弟が消えた後、掴んでいた感覚まで失うのが怖くて、自分の掌へ痕を残す。
高井が六時四十九分を告げる。
「あと一分です」
「紙を写せない」
「前回の三枚と、今日の目視内容があります」
「湊の紙は一枚もない」
「一枚へ集めないと決めました」
「あいつの紙を持つって意味じゃねえ」
外の颯真が、二枚目をガラスの下へ滑らせる。こちらへ渡そうとしている。
板の隙間から、紙の端が現実側へ出た。
高井が止める。
「触らないでください」
「あいつが渡すって決めた」
「接触が切れる可能性があります」
「前はそれで止めた」
颯真は紙へ手を伸ばし、途中で止めた。
外の自分を見る。
『渡したら、お前は』
外の颯真が書く。
『学校に残る』
『根拠は』
『ここから出られない』
『それでも渡す?』
外の颯真は、紙をさらに押した。
湊の位置記録を手放す。自分が最後に弟を持っていた紙。家へ戻る接点かもしれない物。
現在の颯真は、高井を見た。
「受け取る」
「理由は」
「あいつが決めた。俺が欲しい。それから、一枚にまとめない。これ単体で預ける」
「受け取った直後に異変が起きた場合、手を離せますか」
「離す」
「湊君へ持ち帰ろうとしない?」
颯真の顎が動く。
「しない」
嘘をつきたくなる顔だった。それでも答えた。
高井は長い鑷子を使い、紙の端を掴む。颯真の手ではない。透明な保存袋を開き、紙を直接誰にも持たせず収める。
紙が完全に現実側へ入った。
外の颯真の輪郭が薄くなる。
「おい」
現在の颯真がガラスへ近づく。
外の颯真は消えない。壁が制服の向こうへ透けるが、立っている。
口元だけで言う。
持っていけ。
「湊に見せる」
外の颯真が首を振る。
「何で」
紙の最後を指す。
湊、いない。
「見せるかどうかも、あいつに決めさせる」
外の颯真は、今度は頷いた。
午後六時五十分。
高井が終了を告げる。
三人は扉から離れる。外の颯真は薄いまま、白い廊下に残った。
「消えてない」
颯真が言う。
「今は見えています」
高井は言い直さなかった。
西棟を出るまで、電子音は鳴らなかった。
職員玄関へ戻ると、佐伯先生の携帯から湊が呼ぶ。
『兄ちゃん』
「いる」
『外の兄ちゃんは』
「学校にいる」
『帰れないの』
「分からない」
『紙は』
颯真は保存袋を見る。
「一枚だけ受け取った。お前の場所が書いてある」
『見せて』
すぐに言った。
颯真は、外の自分が首を振ったことを思い出す。
「今は見せない」
『どうして』
「見たら、お前が自分の消え方を覚える」
『僕の紙でしょ』
「だから、高井さんと父さんと母さんがいる時に決める」
『兄ちゃんが決めてる』
「今はな」
湊が黙る。
颯真は、弟へ全部渡さない選択をした。守るためと言えば、宗一郎と同じになる。
「俺が見せたくない」
理由を自分のものとして言い直す。
「怖いからだ。お前が『いない』って書かれた紙を見るのが」
通話の向こうで、湊の息が聞こえた。
『分かった。今は待つ』
許したわけではない。
現在の颯真は、紙を高井へ預けた。
外の颯真は、西棟の白い廊下に残った。
黒瀬家の玄関だけを守ればよいという計画は、その夜、使えなくなった。
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