第三十話 祖父が忘れた顔
写真の中で、宗一郎の右手だけが薄くなっていた。
八月九日、午後四時五十分。
市立病院から戻った宗一郎は、居間へ入る前に家族写真を見せられた。
直哉、佳乃、颯真、湊。椅子に座る宗一郎。空の左袖。右手は膝へ置かれているはずなのに、畳の模様が指の輪郭から透けている。
「いつ撮った写真だ」
宗一郎が訊く。
「去年の正月」
直哉が答える。
「右手は、その時あった」
「今もある」
宗一郎は痺れの残る指を動かした。
高井が写真を透明な袋へ入れる。表面に擦れや薬品はない。画像データの元ファイルでは、右手が正常に写っていた。印刷物だけが変わっている。
「箱から離れた後に変わったのか」
宗一郎は自分へ訊くように言った。
「分かりません」
高井は答える。
「発見は昨夜です。最後に正常だった時刻を確認できていません」
「なら、私を家へ戻した時刻を記録しろ」
「記録します。ただし、戻したことで変化したとは書きません」
宗一郎は不満を示さなかった。自分が以前なら言わなかった区別だった。
工具箱のある居間へ入る条件は、前日の安全会議で決めている。高井と直哉が右手の継続動作を確認。家族外の立会人として高井がいる。工具箱へ近づく前に名を呼ぶ。
「黒瀬宗一郎さん」
高井が呼ぶ。
宗一郎は返事をした。
「聞こえている」
右手は工具箱へ向かわない。
封印テープも変化なし。宗一郎は居間の入口から二メートル離れた椅子へ座った。ベルトは外しているが、直哉が右側に立つ。
湊は、食器棚の上から古い写真立てを下ろした。
「祖父ちゃん。これ、見て」
直哉が息を止める。
写真には若い宗一郎と、隣に立つ女性が写っている。直哉の母。宗一郎の妻。沙夜子ではない。
女性の顔は消えていない。
少し眩しそうに目を細め、口元だけ笑っている。直哉には母の顔だ。湊には、幼い頃に一度だけ別の写真で見た曽祖母の顔。
宗一郎は写真を受け取らなかった。
「知らない人だ」
「妻だよ」
湊が言う。
「知識では分かる」
「顔を見ても?」
「この女性と暮らした感覚がない」
「父さん」
直哉の声が低くなる。
「母さんの写真を、知らない人と言わないでくれ」
「嘘をつけというのか」
「言い方の話だ」
「私にとっては、知らない顔だ」
「俺にとっては母さんだ!」
直哉が写真立てを取った。指が強く縁へ食い込む。
宗一郎は息子を見る。
「すまない」
「謝る相手が違う」
「本人へ謝っても、何を失ったか分からない」
「だから俺に謝るのか」
直哉は写真を食卓へ伏せた。
颯真が玄関から入ってくる。左腕の診察を終えたばかりで、吊り具の位置が変わっていた。
「何してんの」
「祖父ちゃんに、妻の顔を見せた」
湊が答える。
「思い出した?」
「いや」
宗一郎が言う。
颯真は伏せられた写真を返す。女性の顔を見て、宗一郎を見る。
「俺を生かした代償だっけ」
出生直後、呼吸が止まり死亡した履歴から、生きた履歴への接続。宗一郎の二回目。代償は妻の顔の記憶。
「そうだ」
「俺が生まれた時?」
「正確には、死んだ後だ」
佳乃が颯真の肩へ触れる。颯真は振り払わなかったが、写真から目を離さない。
「婆さんは、知ってたの」
「時計を開くことは知らなかった」
「戻った後、爺さんが顔を忘れたって分かった?」
「私が名前を呼べても顔を見分けられないことに、本人が最初に気づいた」
「何て言った」
宗一郎の喉が動く。
「颯真が生きているなら、それでいいと」
「本当に?」
「そう言った」
「どういう顔で」
宗一郎は答えられない。
颯真が笑った。怒りでも皮肉でもない、息が漏れただけの音だった。
「便利だな。許した人の顔を覚えてない」
「颯真」
佳乃が止める。
「母さんは黙ってて」
「あなたのせいではない」
「分かってるよ」
颯真の声が強くなる。
「分かってるから、どこへ怒ればいいか分かんねえんだよ。俺は赤ん坊で、死んでた。爺さんが勝手に開けた。婆さんが許した。誰も俺に選ばせてないのに、俺が生きてるたび顔を一つ食ったみたいになる」
宗一郎が立とうとした。
右手が工具箱の方へ動く。
高井が名前を呼ぶ。
「黒瀬宗一郎さん」
宗一郎は手を止めた。
二名で固定する段階までは進まない。
「今、開こうとした?」
湊が訊く。
「颯真から、この記憶を外せる履歴があるかもしれないと思った」
「また!」
颯真が写真立てを食卓へ叩く。ガラスが割れた。
佳乃が手を伸ばす。颯真は右手を切らなかった。写真の女性の頬へ、亀裂が一本走る。
「俺が嫌な顔しただけで開くな!」
「開いていない」
「開こうとした!」
「止まった」
「高井さんに呼ばれたからだろ!」
高井は割れた写真立てを回収しようとする。直哉が先に写真だけを抜き、ガラス片から離した。
「これは警察へ渡さない」
「変化した可能性のある資料です」
「家族写真です」
「複写と撮影で足りるか確認します」
高井は所有権を押し切らなかった。写真をその場で両面撮影し、割れたガラスだけを物証として預かる。原本は直哉が新しい封筒へ入れた。
湊は宗一郎を見る。
「五回目で、妻の顔を戻したい?」
「湊」
直哉が止める。
「聞かないと、また隠す」
宗一郎は写真を見ない。
「四回目に見た別の家で」
ゆっくり言う。
「私は、その女性を知っていた」
直哉の指が封筒を握る。
「湊が家族から外れ始めた履歴で?」
「そうだ」
「母さんの顔を思い出していた?」
「写真を見て、妻だと分かった。声も、台所で包丁を置く音も思い出せた」
「湊の代わりに?」
「交換とは言えない」
「でも、そう見えた」
「ああ」
宗一郎は右手を自分の膝へ押しつけた。
「私は、湊を救うため五回目を開くと言った。それだけではない」
居間の全員が聞いている。
「もう一度、妻の顔を思い出せる履歴を見た。だから、開けば湊を戻せるという考えに、その欲が混じっている」
颯真が吐き捨てる。
「最悪だな」
「そうだ」
「否定しろよ」
「できない」
宗一郎は、救済だけを動機にしなかった。自分が失った物を取り戻したい。そのために、湊の危機を理由として使う可能性がある。
湊の腹の底が冷える。
祖父が嘘をやめたことに少し安心した。その安心まで、自分が祖父を許し始めたようで嫌だった。
「妻の顔を思い出したいのは、悪いこと?」
湊は訊いた。
直哉が顔を上げる。
宗一郎は答える。
「思うだけなら、悪くない」
「時計を開いたら?」
「他人へ払わせる」
「じゃあ、思ってることを隠さないで」
「聞けば、お前たちは私を監視する」
「するよ」
湊は言い切った。
「家族だから信じるんじゃない。祖父ちゃんが開けるって知ってるから見る」
宗一郎は怒らなかった。
「分かった」
「すぐ分かったふりしないで」
「では、何と言えばいい」
「嫌だけど聞いた、って言って」
宗一郎は少し間を置く。
「嫌だが、聞いた」
颯真が鼻で笑った。
「小学生に喋り方教わんな」
湊は兄を睨む。
「兄ちゃんも、嫌な時は黙るでしょ」
「俺は蹴る」
「もっと悪い」
食卓の空気が一瞬だけ緩む。
写真の女性は、亀裂のない紙の中で笑っている。宗一郎には知らない顔のままだった。
午後六時二十二分。
直哉は、妻の写真を家の金庫へ入れた。宗一郎に隠すためではなく、工具箱と同じ部屋へ置かないためだった。保管場所は直哉と佳乃だけが知る。湊と颯真には教えない。
「家族で情報を分けるのか」
宗一郎が言う。
「父さんが始めた方法です」
直哉は金庫を閉じる。
「違うのは、隠していることを伝えたことです」
宗一郎は反論しなかった。
午後六時四十二分。
引き戸に外の颯真は現れなかった。
現在の颯真は、昨日の約束どおり玄関へ座っていた。残り二枚の位置記録を受け取る準備もしていた。
三度叩いても返事はない。
颯真は七時まで待った。
「来られたら、って湊が言ったからな」
誰に説明するでもなく呟く。
湊は隣へ座らなかった。兄が一人で待ちたい顔をしていた。
代わりに、居間で宗一郎を見ていた。
守る相手と、止める相手が家族の中で分かれた。
どちらか一方だけを選んだわけではない。
今夜、湊は自分で立つ場所を決めた。
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