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時は復讐を忘れない  作者: 23
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第三十話 祖父が忘れた顔

写真の中で、宗一郎の右手だけが薄くなっていた。


八月九日、午後四時五十分。


市立病院から戻った宗一郎は、居間へ入る前に家族写真を見せられた。


直哉、佳乃、颯真、湊。椅子に座る宗一郎。空の左袖。右手は膝へ置かれているはずなのに、畳の模様が指の輪郭から透けている。


「いつ撮った写真だ」


宗一郎が訊く。


「去年の正月」


直哉が答える。


「右手は、その時あった」


「今もある」


宗一郎は痺れの残る指を動かした。


高井が写真を透明な袋へ入れる。表面に擦れや薬品はない。画像データの元ファイルでは、右手が正常に写っていた。印刷物だけが変わっている。


「箱から離れた後に変わったのか」


宗一郎は自分へ訊くように言った。


「分かりません」


高井は答える。


「発見は昨夜です。最後に正常だった時刻を確認できていません」


「なら、私を家へ戻した時刻を記録しろ」


「記録します。ただし、戻したことで変化したとは書きません」


宗一郎は不満を示さなかった。自分が以前なら言わなかった区別だった。


工具箱のある居間へ入る条件は、前日の安全会議で決めている。高井と直哉が右手の継続動作を確認。家族外の立会人として高井がいる。工具箱へ近づく前に名を呼ぶ。


「黒瀬宗一郎さん」


高井が呼ぶ。


宗一郎は返事をした。


「聞こえている」


右手は工具箱へ向かわない。


封印テープも変化なし。宗一郎は居間の入口から二メートル離れた椅子へ座った。ベルトは外しているが、直哉が右側に立つ。


湊は、食器棚の上から古い写真立てを下ろした。


「祖父ちゃん。これ、見て」


直哉が息を止める。


写真には若い宗一郎と、隣に立つ女性が写っている。直哉の母。宗一郎の妻。沙夜子ではない。


女性の顔は消えていない。


少し眩しそうに目を細め、口元だけ笑っている。直哉には母の顔だ。湊には、幼い頃に一度だけ別の写真で見た曽祖母の顔。


宗一郎は写真を受け取らなかった。


「知らない人だ」


「妻だよ」


湊が言う。


「知識では分かる」


「顔を見ても?」


「この女性と暮らした感覚がない」


「父さん」


直哉の声が低くなる。


「母さんの写真を、知らない人と言わないでくれ」


「嘘をつけというのか」


「言い方の話だ」


「私にとっては、知らない顔だ」


「俺にとっては母さんだ!」


直哉が写真立てを取った。指が強く縁へ食い込む。


宗一郎は息子を見る。


「すまない」


「謝る相手が違う」


「本人へ謝っても、何を失ったか分からない」


「だから俺に謝るのか」


直哉は写真を食卓へ伏せた。


颯真が玄関から入ってくる。左腕の診察を終えたばかりで、吊り具の位置が変わっていた。


「何してんの」


「祖父ちゃんに、妻の顔を見せた」


湊が答える。


「思い出した?」


「いや」


宗一郎が言う。


颯真は伏せられた写真を返す。女性の顔を見て、宗一郎を見る。


「俺を生かした代償だっけ」


出生直後、呼吸が止まり死亡した履歴から、生きた履歴への接続。宗一郎の二回目。代償は妻の顔の記憶。


「そうだ」


「俺が生まれた時?」


「正確には、死んだ後だ」


佳乃が颯真の肩へ触れる。颯真は振り払わなかったが、写真から目を離さない。


「婆さんは、知ってたの」


「時計を開くことは知らなかった」


「戻った後、爺さんが顔を忘れたって分かった?」


「私が名前を呼べても顔を見分けられないことに、本人が最初に気づいた」


「何て言った」


宗一郎の喉が動く。


「颯真が生きているなら、それでいいと」


「本当に?」


「そう言った」


「どういう顔で」


宗一郎は答えられない。


颯真が笑った。怒りでも皮肉でもない、息が漏れただけの音だった。


「便利だな。許した人の顔を覚えてない」


「颯真」


佳乃が止める。


「母さんは黙ってて」


「あなたのせいではない」


「分かってるよ」


颯真の声が強くなる。


「分かってるから、どこへ怒ればいいか分かんねえんだよ。俺は赤ん坊で、死んでた。爺さんが勝手に開けた。婆さんが許した。誰も俺に選ばせてないのに、俺が生きてるたび顔を一つ食ったみたいになる」


宗一郎が立とうとした。


右手が工具箱の方へ動く。


高井が名前を呼ぶ。


「黒瀬宗一郎さん」


宗一郎は手を止めた。


二名で固定する段階までは進まない。


「今、開こうとした?」


湊が訊く。


「颯真から、この記憶を外せる履歴があるかもしれないと思った」


「また!」


颯真が写真立てを食卓へ叩く。ガラスが割れた。


佳乃が手を伸ばす。颯真は右手を切らなかった。写真の女性の頬へ、亀裂が一本走る。


「俺が嫌な顔しただけで開くな!」


「開いていない」


「開こうとした!」


「止まった」


「高井さんに呼ばれたからだろ!」


高井は割れた写真立てを回収しようとする。直哉が先に写真だけを抜き、ガラス片から離した。


「これは警察へ渡さない」


「変化した可能性のある資料です」


「家族写真です」


「複写と撮影で足りるか確認します」


高井は所有権を押し切らなかった。写真をその場で両面撮影し、割れたガラスだけを物証として預かる。原本は直哉が新しい封筒へ入れた。


湊は宗一郎を見る。


「五回目で、妻の顔を戻したい?」


「湊」


直哉が止める。


「聞かないと、また隠す」


宗一郎は写真を見ない。


「四回目に見た別の家で」


ゆっくり言う。


「私は、その女性を知っていた」


直哉の指が封筒を握る。


「湊が家族から外れ始めた履歴で?」


「そうだ」


「母さんの顔を思い出していた?」


「写真を見て、妻だと分かった。声も、台所で包丁を置く音も思い出せた」


「湊の代わりに?」


「交換とは言えない」


「でも、そう見えた」


「ああ」


宗一郎は右手を自分の膝へ押しつけた。


「私は、湊を救うため五回目を開くと言った。それだけではない」


居間の全員が聞いている。


「もう一度、妻の顔を思い出せる履歴を見た。だから、開けば湊を戻せるという考えに、その欲が混じっている」


颯真が吐き捨てる。


「最悪だな」


「そうだ」


「否定しろよ」


「できない」


宗一郎は、救済だけを動機にしなかった。自分が失った物を取り戻したい。そのために、湊の危機を理由として使う可能性がある。


湊の腹の底が冷える。


祖父が嘘をやめたことに少し安心した。その安心まで、自分が祖父を許し始めたようで嫌だった。


「妻の顔を思い出したいのは、悪いこと?」


湊は訊いた。


直哉が顔を上げる。


宗一郎は答える。


「思うだけなら、悪くない」


「時計を開いたら?」


「他人へ払わせる」


「じゃあ、思ってることを隠さないで」


「聞けば、お前たちは私を監視する」


「するよ」


湊は言い切った。


「家族だから信じるんじゃない。祖父ちゃんが開けるって知ってるから見る」


宗一郎は怒らなかった。


「分かった」


「すぐ分かったふりしないで」


「では、何と言えばいい」


「嫌だけど聞いた、って言って」


宗一郎は少し間を置く。


「嫌だが、聞いた」


颯真が鼻で笑った。


「小学生に喋り方教わんな」


湊は兄を睨む。


「兄ちゃんも、嫌な時は黙るでしょ」


「俺は蹴る」


「もっと悪い」


食卓の空気が一瞬だけ緩む。


写真の女性は、亀裂のない紙の中で笑っている。宗一郎には知らない顔のままだった。


午後六時二十二分。


直哉は、妻の写真を家の金庫へ入れた。宗一郎に隠すためではなく、工具箱と同じ部屋へ置かないためだった。保管場所は直哉と佳乃だけが知る。湊と颯真には教えない。


「家族で情報を分けるのか」


宗一郎が言う。


「父さんが始めた方法です」


直哉は金庫を閉じる。


「違うのは、隠していることを伝えたことです」


宗一郎は反論しなかった。


午後六時四十二分。


引き戸に外の颯真は現れなかった。


現在の颯真は、昨日の約束どおり玄関へ座っていた。残り二枚の位置記録を受け取る準備もしていた。


三度叩いても返事はない。


颯真は七時まで待った。


「来られたら、って湊が言ったからな」


誰に説明するでもなく呟く。


湊は隣へ座らなかった。兄が一人で待ちたい顔をしていた。


代わりに、居間で宗一郎を見ていた。


守る相手と、止める相手が家族の中で分かれた。


どちらか一方だけを選んだわけではない。


今夜、湊は自分で立つ場所を決めた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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