第二十五話 沙夜子の声を聞く
沙夜子の声は、黎一の名前から始まった。
警察署の小さな確認室。
壁際に黎一。二人の澪は離れた椅子へ座っている。高井と児童相談所の職員が後ろにいた。
複製した音源が再生される。
『黎一へ』
その一言だけで、黎一は出口を見た。
『あなたがこれを聞く時、私は、あなたの知っている私と同じ時間を持っていないかもしれない』
テープの向こうで沙夜子が一度咳をする。
『宗一郎が接続したあと、私は事故を覚えていました。でも、あなたが病院で私の手を握っていた三日間を覚えていなかった。あなたは覚えていた』
黎一が再生機へ歩いた。
「止めろ」
音が止まる。
「帰る」
包帯のある澪が立つ。
「残ってください」
「命令するな」
「叔父さまは、沙夜子さんの記録を使って私たちを一人にしました。最後まで聞いてください」
もう一人の澪は立たない。
「帰ってもいいです」
「何?」
「でも、聞かなかった続きを『沙夜子さんの答え』にはしないでください」
黎一は二人を交互に見た。
一人は残れと言う。
一人は出ることを止めない。
結局、黎一は壁際へ戻った。
「続けろ」
沙夜子の声が戻る。
『宗一郎が私を救った日、別の名が記録から落ちた。あなたは、一人を戻した代わりに一人が消えたと言った』
黎一の腕が組まれる。
『私も疑いました。でも、順序が合わない例がある。接続より前に欠けた名前。数日遅れて消えた住所。接続しても戻らない物』
包帯のある澪が息を吐く。
『一対一の交換なら説明できません』
黎一の目が閉じた。
『時計が無関係だとは言いません。接続が欠落を広げた可能性もある。でも、原因と結果を、いつも同じ順番へ並べることはできなかった』
そこで一度、長い無音が入る。
『黎一。あなたが失ったのは、私の命だけではない。私と過ごした時間です』
黎一の拳がほどけた。
『だから、今いる誰かへ、失った人の続きをやらせないで』
二人の澪が互いを見る。
『同じ名前、同じ顔、同じ記憶を持つ人が重なっても、どちらかを消して一人へ戻せば、失った時間まで戻るわけではありません。残った人へ、選ばれなかった人の生活まで背負わせるだけです』
黎一が低く言う。
「姉は、二人の澪を知っていたのか」
高井は答えない。
録音時期はまだ確定していない。
沙夜子の声が続く。
『八月十五日午後九時十三分。学校、山ノ宮神社、黒瀬家で重なりが増える可能性があります。全員を一か所へ集める案には反対します』
包帯のない澪が小さく首を振った。
「だから離せば安全、ではない」
テープの中の沙夜子が、まるで聞いていたように続ける。
『離せば安全とも言えません。場所だけを正解にしないでください』
黎一は苦い顔で笑った。
「死んだ後まで、答えを濁す」
包帯のある澪が言う。
「分からないものを、分かったことにしていないだけです」
「お前たちは姉を正しいと思うのか」
「一対一交換を否定する記録として使います」
包帯のある澪は即答した。
もう一人は、少し考えてから言う。
「私は、沙夜子さんも間違える人として残します」
「同じ孫が、別の答えを言うんだな」
「昨日からは、同じ日を生きていません」
最後に、沙夜子の声が黎一へ向く。
『私の声を、黒瀬を許す理由にしなくていい』
黎一が顔を上げた。
『許さなくていい。復讐を忘れなくてもいい。ただ、あなたが失った人を、今いる誰かの名前で埋めないで』
無音。
『あなたの姉でいられなかったことを、私は忘れていません』
テープが止まった。
黎一は泣かなかった。
「姉は、私を捨てた」
包帯のない澪が何か言いかける。
包帯のある澪が先に止めた。
「今日は、それでいいです」
「訂正しないのか」
「今、叔父さまがそう聞いたんでしょう」
「お前は違うと思うのか」
「思います。でも、今ここで私が正しい意味を決めても、叔父さまと同じことをします」
もう一人の澪が、初めて少し驚いた顔をした。
黎一は椅子へ座った。
再生機へ手を伸ばす。
「もう一度、一人で聞きたい」
高井が所有と保管の条件を説明しようとしたが、黎一が遮った。
「今じゃない。家へ戻ってからでもない。聞ける日を自分で決める」
二人の澪は、それを許可しなかった。
止めもしなかった。
帰り際、黎一はカセットの複製を持たなかった。
手ぶらで警察署を出た。
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