第二十四話 叔父が閉じた箱
八月七日、朝。
二人の澪は児童相談所の面談室で顔を合わせた。
御厨家で夜を越した澪は、左掌の包帯を少し黒く汚している。一時保護所から来た澪は、昨日預けられた携帯電話を持っていた。
「眠れましたか」
包帯のない澪が訊いた。
「三時間くらい。そちらは?」
「廊下にいました」
「怖かった?」
「はい」
「私もです」
同じ答えが出た後、二人とも少し嫌な顔をした。
机には二冊のノートがある。
昨夜、別々の場所で書いたものだった。
包帯のある澪が先に結論を言う。
「今日は交換しません」
「昨日は読むと言いました」
「読みました。だから、今日は読まない」
もう一人はノートへ手を伸ばさず、理由を待った。
「あなたの魚の皮を残した記憶が、朝起きた時に自分のことみたいに浮かびました」
「私は、そちらが皿を落としたところを想像しました」
「想像ですか」
「分かりません」
二人の間に沈黙が落ちる。
相手を知ることが怖い。
知らなくなることも怖い。
職員が話をまとめようとしたが、包帯のある澪が止めた。
「まだ決めていません。今日は、叔父さまの箱を見に行きます」
午前九時四十分。
御厨家の仏間に、古い木箱が三つ並んでいた。
黎一は『事故以前』『黒瀬』『事故以後』と書かれた箱の前に座っている。
高井と女性職員も立ち会った。
「事故以後を開けます」
澪が言う。
「俺が開ける」
黎一の手が蓋へ伸びる。
包帯のない澪が手首を掴んだ。
「先に取らないでください」
「姉の物だ」
「だからです」
黎一が力を入れる前に、包帯のある澪が蓋を持ち上げた。
中には大学ノート、古い封筒、小型のカセットテープが入っている。
一番上のノートの表紙。
『交換仮説・反証』
黎一の顔が変わった。
今度は誰より早くノートを取る。
包帯のある澪が、その上から手を置いた。
「離せ」
「嫌です」
「傷が開く」
「開いたら病院へ行きます」
「澪」
「私の名前を、止めるためだけに呼ばないで」
黎一の手が止まった。
高井がノートを開く。
最初の数頁には、時計が開いた日と、記録から名が落ちた日の対応が並んでいる。
その下に、赤い線で何度も消そうとした文章。
――喪失確認が接続より先行した可能性あり。
インクが違う。
「これは沙夜子さんの字ではありませんね」
高井が言う。
二人の澪は黎一を見る。
「叔父さま?」
黎一は否定しなかった。
「姉がいなくなった後だ」
「なぜ消したんです」
「可能性にすぎない」
包帯のある澪が即座に返す。
「黒瀬家のせいだというのも、可能性でした」
もう一人は別の頁を見る。
『一対一の交換と断定できない。欠落は先行する場合も、遅れる場合もある』
「こっちも赤線があります」
黎一の手がまた動く。
澪はノートを閉じなかった。
「叔父さまが消したかった記録を、私たちは読まされないまま一人にされかけたんですね」
「俺は、姉が間違っていたと思った」
「それなら、消さずに間違いだと書けばよかった」
黎一は答えない。
四冊目のノートには、八月十五日午後九時十三分。
学校。
山ノ宮神社。
黒瀬家。
人物名はない。
沙夜子の字で一文だけある。
――同じ場所へ集める案を採用しない。
「宗一郎さんの図と逆ですね」
包帯のない澪が言う。
黎一はその頁を初めて見るような顔をした。
「知らなかった」
「箱を閉じていたからですか」
「全部読めると思うな」
声は怒っていた。
けれど、澪には別のものに聞こえた。
「怖かったんですね」
「何が」
「読んだら、沙夜子さんと叔父さまが同じ答えじゃなくなることが」
黎一が立ち上がる。
仏間の襖へ向かう途中で、箱の隅にあるカセットが目に入った。
ラベルには『八月十五日・黎一へ』。
足が止まった。
「聞いたことは?」
高井が訊く。
「ない」
「どうして」
黎一は棚の古いラジカセを見た。
「壊れている」
包帯のある澪が電源コードを持ち上げる。
「試していませんね」
黎一はカセットを取ろうとした。
今度は二人の澪が同時には止めなかった。
包帯のある澪が先に言う。
「聞きます」
包帯のない澪は黎一へ訊く。
「叔父さまは、聞きたいですか」
「……分からない」
「では、分からないまま一人で捨てないでください」
カセットは警察で複製し、黎一が立ち会って確認することになった。
箱を閉じる時、黎一は自分で蓋へ手を置いた。
包帯のある澪がその手を見ている。
「また閉じるんですか」
「今日は閉じる」
「隠すため?」
「誰でも触れる状態にしないためだ」
「鍵は?」
黎一は鍵を澪へ差し出した。
「俺が持つと、また開けないかもしれない」
澪は受け取らない。
もう一人を見る。
「どうします?」
包帯のない澪は少し考える。
「高井さんへ預けます。私たちのどちらか一人にも持たせません」
二人の答えは同じではなかった。
それでも、鍵は黎一の手から離れた。
仏間を出る時、黎一だけがカセットを振り返った。
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