第二十二話 登校停止の教室
八月六日、午前八時。
湊のランドセルは、玄関に置いたままだった。
一週間の登校停止。学校から出された課題は、算数のプリント六枚と反省文。反省文の題は『非常ベルを押したことについて』だった。
湊は一行目に、火はありませんでした、と書いた。
二行目が続かない。
澪が消えそうだった。大勢が見た後に輪郭は戻った。ただし、因果は分からない。次も押すかと訊かれれば、押さないとは言えない。それを小学生の反省文の枠へ入れると、どの言葉も嘘になった。
「『もうしません』でいいだろ」
颯真が食卓の向かいから言う。
左腕を吊ったまま、右手で湊の算数プリントを解いている。
「兄ちゃんの宿題じゃない」
「暇なんだよ」
「中学生のやれば」
「学校に置いてある」
西棟の閉鎖が長引き、今日、警察と消防の立会いで私物を回収することになっていた。児童本人は入れず、保護者か教員が取る。だが二人の澪は、教室に自分の物が二人分あるか確かめたいと希望した。児童相談所と学校が相談し、二人とも校舎入口までは同行する。
颯真も、自分の鞄を取りに行く。
湊だけは行けない。
「父さんの車に隠れれば入れる」
湊が言う。
「反省文に書くこと増やすのか」
「学校の中に行かなければいい。門の外」
「登校停止ってのは、そういう抜け道を探す遊びじゃねえ」
「兄ちゃんに言われたくない」
「俺は停学じゃない」
「怪我人」
「うるせえ」
颯真は鉛筆を置いた。湊が反省文を裏返す。
「七月二十八日の紙が学校から出た。西棟に、まだ祖父ちゃんの物があるかもしれない」
「俺が見る」
「兄ちゃんは、すぐ怒って見落とす」
「お前は、すぐ掴んで壊す」
湊は言い返せなかった。割れた火災報知器、教室扉のガラス、自分と澪の掌。手を出したから残せた物もある。手を出したから壊した物もある。
「電話を繋いで」
「学校が許したらな」
「切らないで」
「俺が危ないと思ったら切る」
「父さんみたいなこと言う」
「最悪だ」
颯真は顔をしかめた。
午前九時十二分。
直哉の車が出る。助手席に颯真。後部座席に二人の澪と児童相談所の職員。二人の髪は、今日はどちらも結ばれていなかった。一人は耳へかけ、もう一人はそのまま下ろしている。遠目にはほとんど同じでも、本人たちは今朝の違いを知っていた。
湊は門まで見送った。
「私たちが見ます」
髪を耳へかけた澪が言う。
「何を?」
「湊君が見たがっている物を」
「僕が言った物だけじゃなくて、自分たちのも見て」
「言われなくても」
髪を下ろした澪が答える。
「私たちは、湊君の目の代わりに行くのではありません」
車が角を曲がる。
湊は玄関へ戻りかけ、工具箱のある居間を見る。宗一郎は昨夜から市立病院にいる。右手首の傷と、長時間固定した指の痺れを診てもらい、そのまま一泊した。警察官が付き添っている。
佳乃は病院へ着替えを届けに行った。家には湊と、玄関に立つ警察官だけが残る。
工具箱には新しい封印テープが貼られた。鍵は警察。金属片も別の場所へ保管されている。それでも箱の中身は、湊の近くにある。
午前九時三十九分、颯真から映像通話が入った。
『学校が許した。録画はするなって』
画面には職員玄関。高井、消防署員、校長、佐伯先生がいる。二人の澪は画面の左右へ分かれて立っていた。
『湊君は、現場の指示へ口を出さないでください』
佐伯先生が先に条件を言う。
「見てるだけ?」
『質問は颯真さんか私を通してください』
「分かりました」
颯真が画面へ顔を寄せる。
『絶対分かってない顔だ』
「兄ちゃん、カメラ近い」
『うるせえ』
西棟へ入る。廊下は消火器の粉とガラス清掃剤の匂いが混ざっていた。教室扉の穴は合板で塞がれ、床に貼られた警察の印だけが血痕の位置を示している。血そのものは採取済みだった。
髪を下ろした澪が、印の一つで足を止める。
『私の血です』
耳へ髪をかけた澪が隣へ立つ。
『湊君の血かもしれません』
『位置が違います。私が倒れた場所です』
二人は言い争わなかった。だが同じ印を二人の記憶へ戻すこともしなかった。
佐伯先生が扉を開ける。床の長さは普通に戻っている。机は一人分しかない。教室に残されていた澪の鞄が椅子へ掛かり、廊下へ出られた澪の鞄は職員室で保管されていた。
『一つずつですね』
髪を下ろした澪が言う。
『元から一つずつでした』
耳へかけた澪が返す。
『どちらがどちらを持っていたかは』
『教室の物は、私が使います』
傷を負った方の澪が、左手を庇いながら鞄を取った。
『職員室の物は私が』
もう一人も自分で選ぶ。
同じ中身でも、どこに残ったかが違う。周囲が印を付ける前に、本人たちが持つ物を決めた。
颯真は自分の机から教科書と筆箱を鞄へ詰める。片手では教科書が滑り、床へ落ちた。
『兄ちゃん、無理しないで』
湊が言う。
『口出すなって言われただろ』
『それは現場の指示』
『俺の怪我も現場だ』
佐伯先生が教科書を拾った。棚の奥へ一冊入り込む。手を伸ばすと、背板の向こうで紙が鳴った。
『待ってください』
先生が全員を下がらせる。高井が棚の位置を撮影し、消防署員と二人で壁から動かした。
背板と壁の隙間から、細長い封筒が落ちた。
宛名はない。
封には、宗一郎が工具箱へ使ったのと同じ蝋が付いていた。ただし印は潰れ、模様は読めない。
『開けるな』
画面越しに湊が言った。
全員が携帯を見る。
『口を出さない条件です』
佐伯先生の声は厳しい。
「でも、祖父ちゃんが隠したなら――」
『湊』
颯真が止める。
『俺が見る』
「一人で読まないで」
『分かってる』
颯真は高井へ言った。
『開ける前に、外から分かることを全部残して』
湊が言おうとしていたことだった。兄は画面を見ず、自分の言葉として伝えた。
高井が封筒の寸法、位置、蝋、紙の変色を記録する。透過光を当てると、中に折った紙が三枚ある。金属は入っていない。
『学校の施設内で見つかったため、学校と警察で開封します。異議は』
校長、佐伯先生、直哉がないと答える。二人の澪は、封筒の所有者ではないため答えなかった。
高井が手袋を着け、封を切る。
一枚目は、西棟一階から二階の簡単な平面図。
二枚目は、山ノ宮神社から黒瀬家までの道。
三枚目は、黒瀬家の間取り。
三枚とも、同じ時刻が書かれていた。
八月十五日、午後九時十三分。
『三つの場所』
湊が呟く。
『同じ場所じゃねえ』
颯真が画面の向こうで言う。
「でも祖父ちゃんは、何で三枚とも学校に隠したの」
高井が紙を裏返す。学校の図の裏には、宗一郎の字で『澪』。神社の図には『黎一』。黒瀬家には『颯真』。
湊の名前はない。
『私たちを配置するつもりでしたか』
二人の澪が同時に訊いた。
佐伯先生は答えない。宗一郎本人へ確認する必要がある。
湊は画面を指で拡大した。学校の図の端に、小さな点が二つある。一つは教室。もう一つは廊下。
「澪は二人って書いてある」
『名前は一つです』
傷を負った澪が言う。
「点は二つ」
『点だけなら、私たちとは限りません』
もう一人がすぐに断定を止める。
颯真が黒瀬家の図を持ち上げる。
『俺の名前の横にも点が二つある』
一つは居間。
もう一つは玄関の外。
現在と外の颯真。
宗一郎は、外の颯真が声を届けるより前に、二人分の位置を描いていた可能性がある。
「兄ちゃん、その紙を持って帰って」
湊が言う。
『警察が預かる』
「写真を」
『あとで共有してもらう』
「今、画面で全部見せて」
『湊』
颯真の声が変わる。
『俺が見た。澪たちも見た。先生も父さんもいる。お前が今、全部覚えなくても紙は消えない』
「消えたら」
『その時は俺が言う』
「兄ちゃんが忘れたら」
『お前が俺を疑え』
湊は携帯を握った。
自分が見ていない間に名前が消えた。だから全部を自分の目へ入れたかった。だが、外の颯真が失敗したのも、一人で全員の場所を読んだからだった。
「分かった」
『本当に?』
「今は」
『また付けやがった』
颯真は笑わなかったが、映像を切らなかった。
午前十時四十八分。
回収作業が終わる。二人の澪は別々の鞄を持ち、颯真は片手で自分の鞄を引きずる。封筒と三枚の図は高井が証拠袋へ入れた。
学校から戻る車の中で、颯真は映像通話を続けた。
『反省文、書けたか』
「まだ」
『一行目は』
「火はありませんでした」
『二行目は』
湊は裏返していた紙を戻す。
「でも、危険はありました」
鉛筆で書いた。
それは反省にも正当化にも足りない文だった。
ただ、学校へ行けなかった間に兄たちが見つけた三枚の図を、湊一人の発見へはしなかった。
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