第六夜 八坂神社、越えられない鳥居
境界は、線ではない。気づいたときには、もう向こう側に立っていることもある。
「……今夜で、最後や」
俺は、静かにそう言った。部屋の空気は、張りつめていて、時計の音だけが、やけに大きく響いている。
ベッドの上の女は、変わらず目を閉じたままで、その顔色は、青白い。けれど、確かにそこにいる。俺は、ゆっくりと息を吐く。喉の奥が、熱く焼けるみたいに乾いている。次に続く言葉が重たすぎて、飲み込むことも、吐き出すこともできないみたいに喉が固まっている。
「鳥居いうのはな、境界や」
低い声で、ぽつりと続ける。
「こっちと、あっちの」
少しだけ間を置く。
「ほんでな、越えられへん鳥居っちゅうのがある」
*****
東山の麓に鎮座する朱塗りの楼門は、夜の帳が下りると、まるで異界への入り口のように口を開けて待っている。 境内を照らす奉納提灯の灯りが、風に揺れるたび、石段の上に落ちる影が生き物のように蠢く。
円山公園へと続く奥まった道は、街の灯りも届かぬほどに暗く、そこが「現世」と「隠世」の境界であることを、肌を刺すような冷気が教えていた。
そんな夜の八坂神社に、男が立っていた。見覚えのある場所だ。何度も来たことがある。何度も。そのはずなのに、思い出せない。目の前に鳥居がある。黒い影のように、闇の中に立っている。その向こうは暗くて、何も見えない。
男は、一歩近づく。
砂利を踏む小さな音が、やけに遠く聞こえた。地面を踏んでいるはずなのに、重さがうまく伝わってこない。まるで足の裏だけ、別の場所にあるみたいだ。もう一歩前に出ようとするが、どうしても鳥居の前で足が止まる。越えられない。理由はわからない。ただ、ここから先に行ったらダメだと、体が拒む。
風はなく、夜も静かなままだ。それでも、何かが、少しずつずれていく――
そのとき、背後で音がした。コツ。
足音だ。ゆっくりと、近づいてくる。もう、わかっている。振り返らなくても。
「……来たんやな」
男が静かに、ゆっくりと呟く。
「うん」
女の声が返ってくる。すぐ後ろ、逃げ場のない距離だ。
「ここで終わりなん?」
女が聞く。男は答えずに、目の前の鳥居を見る。越えられない境界。行くか、戻るか。そのどっちでもない場所。
「なあ」
女が、もう一度言う。
「今回は、どうするん?」
その言葉に、男はゆっくりと目を閉じる。
橋、夜、手を掴んでいた感触、濡れた指、重さ、滑る、離れる、落ちる、――思い出す。今度は、最後まで。逃げずに、全部。
男は、目を開け、そして振り返る。女が立っていた。
濡れた髪。あのときと同じ姿。けれど、その表情は、静かやった。責めてもいない、怒ってもいない。ただ、待っている。
「……なあ」
男が口を開く。声が少しかすれている。
「もし」
その言葉の先を、飲み込む。言葉にしたら、決まってしまう気がした。だから、言わない、言えない。その代わりに、女の方へ手を伸ばす。
あの夜と、同じ距離、同じ位置、同じ高さ。違うのは――今は、落ちていないことだけ。
女は、その手を見て少しだけ、首を傾げる。
「それ、どういう意味?」
静かな問いに、男は、答えない。ただ、手を伸ばしたまま、動かない。取るか、取らないか。その選択は、女に委ねられている。
長い、沈黙。
風も、音もない。時間だけが、そこにある。
やがて、女が、ゆっくりと手を上げる。指先が、近づく。触れるかどうかの、わずかな距離。その瞬間、鳥居の向こうから、風が吹いた。強い風。闇が揺れ、視界が白く歪み、音が消える。何もかもが、ほどけていく。手が、触れたのか、触れなかったのか。それは、もう――わからない。
*****
「……っていう話や」
俺は、静かに語り終えた。部屋には、再び時計の音が戻る。俺は、しばらく動かなかった。……いや、動けなかった。ベッドに横たわる女に向かって、
「なあ」
小さく呼びかけるが、返事はない。けれど、ほんのわずか指先が、動いたような気がした。俺は目を細める。
「……どっちやったんやろな」
誰にともなく、呟く。そのとき、窓の外で風が鳴り、遠くで何かが軋む音がした。まるで――長い間、閉じたままだったものが、わずかに動いたような。




