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第五夜 比叡山、戻れない道

 山は、何も語らない。けど、黙って聞いていることだけは、忘れてはならない。


 病室の窓の外、遠くに霞む比叡の山並みを見つめる。

 あの嶺を包む霧は、下界のそれとは密度が違う。深く、重く、すべてを白濁とした闇に塗りつぶす。

自分の指先をじっと見つめると、そこには、あの日以来消えない重みが残っている気がする。誰かを救おうとした重みか、あるいは、突き放した重みか。


 病院の廊下を歩く誰かの足音が、山道を歩く乾いた音に重なって聞こえる。

「……ねえ」

 誰かに名前を呼ばれた気がして咄嗟に振り返ったが、そこには無機質な白い壁があるだけだった。この部屋にいるのは一体誰なのか、その答えを探すように、再び、ノートの文字を追い始める。


「……四つ目。今夜はどんな話にしよかいな」

 俺は、静かに言った。部屋の空気はひどく重く、外は完全な闇で、雨粒が窓を叩いている。それ以外は何の音もしない。……いや、違う。規則正しい電子音が、ずっと遠くで鳴っている。ピッ、ピッ、と一定のリズムで鼓膜を叩き、脳の奥深くまで浸食してくる。それは生きている証というより、機械が無理やり引き延ばしている命の残響のようで、耳を塞いでも頭蓋骨の芯から直接響いてきた。

 ベッドの上の女は、変わらず動かず、その存在だけが、ここにある。俺は、少しだけ目を伏せる。


「比叡山にはな、戻られへん場所があるんや」

 山は、ときどき人を呼ぶ。それは迷わせるためや、と昔から言われている。


*****


 比叡山の奥に入ると、携帯の電波も届かない場所がある。道は細く、木々は深く、音は吸い込まれるように消える。だから――自分の名前を呼ぶ声が聞こえたとしても、不思議ではない。

 風が枝を揺らし、葉が擦れる。それがたまたま、人の声に聞こえるだけ。そう思っていればいい。振り返りさえしなければ、それでいい。


 男は、一人で山に入っていた。目的はなかった。ただ、歩きたかった。考えを整理するために。――あの夜のことを、忘れるために。

 落ち葉を踏む音だけが、足元で鳴る。ざく、ざく、という単調なリズム。それに紛れて――

「……ねえ」

 声がした。女の声だった。柔らかく、どこか懐かしい響き。


 男は足を止めた。だが、振り返らない。振り返ってはいけない、という話を思い出したからだ。山で名前を呼ばれても、決して応じるな。それが、この場所の決まりだ。無視して歩き出そうとする。


「ねえってば」

 声がさっきより、近い。耳元で囁かれたような距離だ。背筋が冷える。それでも、男は前を向いたまま歩く。

 ざく、ざく。今度は足音がやけに大きく聞こえる。呼吸が浅くなる。そして――


「どうして、あのとき」

 その言葉で、足が止まった。意味がわかってしまったからだ。そしてこの声を、男は知っている。忘れるはずがない。忘れようとしていた、その声だ。

「どうして、手を離したん」

 男の喉が鳴る。振り返るな、振り返るな。歩き続けるんだ。頭の中で、何度も繰り返す。だが、足は動かない。


「ねえ」

 すぐ後ろ、息がかかるほどの距離。

「見てよ」

 その一言で、限界だった。男は、ゆっくりと振り返った。

 そこにいたのは――自分だった。

 驚きはなかった。むしろ、妙に納得していた。ああ、やっぱりそうか、と。目の前に立っている自分は、無表情だったが、その目だけが、異様に冷たい。


「なんで」

 自分の口が、動く。だが、声は出ない。代わりに、向こうの自分が、女の声で言った。

「なんで、手、離したん」

 その瞬間、光景が重なった。

 時間が、にじむように揺れた。夜の橋の感触が、掌に蘇る。冷たい。濡れている。滑りそうになる。掴んでいる、確かに掴んでいる、細い手首が。必死にしがみついている。離したら落ちる。そんなことは、考えるまでもなくわかっていた。


 けれど、同時に思ってしまった。このままやったら、終われへん、と。

「ずっと一緒やんな」

 何度も聞いた声が、耳の奥で繰り返される。

「うち、あんたしかおらへんねん」

 冗談めかして言っていたはずの言葉が、いつからか、冗談に聞こえなくなり、新しい部屋の話をしていたときも、うまく笑えなかった。

 未来の話をするたびに、逃げ場がなくなっていく気がしていた。どこへ行っても、同じ景色が続いているような息苦しさ。笑って頷けば頷くほど、引き返す道が消えていくような感覚。このままでは、どこまで行っても、同じ未来しか選べない気がした。


 だからあのとき、確かに思ってしまった。ここで終わらせてしまえば、全部、なかったことになるんやないかと。

 約束も、言葉も、あの目も。


 川の音が、大きくなる。風が、強くなる。

「なあ」

 あのときの声が、耳の奥で何度も繰り返される。助けて、と言ったのか、放さんといて、と言ったのか。それすら、はっきり思い出せへん。ただ――手の中にあった重みだけが、やけに鮮明に残っている。

 指が少しずつ緩んでいく。力が抜けたのか、それとも――抜いたのかわからない。けれど、次の瞬間、手首の感触は消え、水音だけが、夜に響いた。


 橋の欄干、冷たい夜気、掴んでいた手、滑る感触、そして――離した。自分の意思で。ゆっくりと、確かに。


 向こうの自分が、一歩近づく。

「事故やと思いたかった?」

 逃げ場はない。

「自分でも、そう信じとる?」

 言葉が刺さる。男は後ずさったが、足がもつれ、視界が揺れる。


 気づけば――周囲の景色が変わっていた。山ではない。橋だ。夜の橋。あの夜と同じ場所。そして、目の前には――落ちかけている女がいる。腕を伸ばして、必死に。助けを求めて。その手を――自分が、掴んでいる。時間が、止まる。ここで、決まる。


 あの夜と同じようにするのか。それとも――男は、強く目を閉じた。そして、もう一度、手を――


 翌朝。

 山道の途中で、男が倒れているのが見つかった。外傷はなかった。ただ、意識は戻らなかった。まるで、何かを見続けているように、目を閉じたまま。

 この話を聞いたとき、俺は確信に近いものを感じた。これまでの話は、すべて同じ場所に繋がっている。

 橋、夜、そして――手、掴む手、離す手。

 あの夜、何があったのか。


*****


「……っていう話や」

 俺は、静かに締めくくった。長い沈黙が、部屋を満たす。俺は、ベッドの女を見る。何も言わずにただ、じっと見ている。彼女の指先が、さっきから動いている気がする。いや、俺の視界が歪んでるだけか。……見つめすぎて、俺の目は、もう長いこと、まばたきすら忘れているみたいや。


「……なあ」

 小さく、呟く。

「まだ、間に合うと思うか?」


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