第四夜 伏見、出られない路地
道は前に進むためにある。だけどときどき、人は同じ場所を回り続けてしまう。
「……今夜は、三つ目の話やな」
俺は、少しだけ姿勢を直して言った。……いや、直したつもりだった。けど身体は、夜の闇に同化したみたいに重い。どこまでが椅子で、どこからが俺なのかも判然としない。
今夜は風が止んでいる。静けさがやけに重い。ベッドの上の女は、変わらず動かない。その沈黙に、俺は目を細める。
「伏見の路地にはな、出られへん道があるんや」
*****
稲荷の山へ続く道は、夜になると、朱色の鳥居が血のような赤から、吸い込まれるような漆黒へと色を変える。幾重にも重なる鳥居の列は、巨大な生き物の背骨のように山肌を這い、その先には人知を超えた何かが潜んでいることを予感させる。
湿り気を帯びた風が、古びた木造の社を軋ませ、狐の石像の双眸が、通り過ぎる者の背中をじっと射抜いている。
細い路地を、男が歩いていた。
夜の伏見は、稲荷大社を少し離れれば、観光客も少なく、店の灯りもまばらだ。
石畳が湿っている。さっき降った雨の名残だろう。軒先に吊るされた小さな灯りが、風もないのに、わずかに揺れていた。誰も触れていないはずなのに、影だけが静かに形を変えていく。
男は、足早に歩いていた。後ろを、見ないようにしながら。見たらだめだ、そう思っている。理由はわからない。けど、確かにそう思っている。
足音が、ひとつ分、多い気がする。自分のものとは違う、もうひとつのリズム。気のせいだ。そう言い聞かせて、歩く速度を上げる。
路地は、曲がりくねっている。右へ、左へ、また右へ。何度も角を曲がる。だが――景色が、変わらない。
――同じ格子戸、同じ提灯、同じ店。
はぁはぁと息をしながら男は立ち止まった。息が荒いのは、歩き回ったせいばかりではない。振り返りたい衝動が、喉元まで込み上げる。けど、見たらだめだ。そう思った瞬間、後ろで、水の滴る音がした。
ぽたり。
ぽたり。
ゆっくりと、近づいてくる。男は、目を閉じ、聞こえないふりをする。何もない、誰もいない、そうだ、最初から一人だ。そう思い込もうとする。だが、
「……なんで」
すぐ後ろで声がした。低く、湿った声。男の呼吸が止まる。
「なんで、見てくれへんの?」
その言葉に、心臓が跳ねる。知っている声だ。聞いたことがある。
いや――忘れようとしていた声だ。男は、ゆっくりと首を振る。だめだ。見ない、振り返らない。それだけで、何かを防げる気がした。
「なあ」
声が、さらに近づく。耳元。すぐそこ。
「さっき、手ぇ離したやろ」
全身が凍りつき、記憶が揺れる。
橋、夜、掴んでいた手、そして――離した感触。
「見てよ」
女が、言う。
「ちゃんと」
男は、目を開け、前を見る。暗い路地が続いている。出口は見えない。どこまでも同じ道で、逃げ場はない。心臓が早鐘のように打っている。音が聞こえてきそうだ。
そのとき、視界の端に、何かが映る。水滴。足元に、落ちる雫。
ぽたり。
ぽたり。
男は、思わず下を見ると濡れた足跡が、そこにあった。自分のものとは違うもうひとつの足跡。すぐ後ろから、続いている。そこで――ついに、振り返ってしまう。
そこには女が立っていた。すぐ後ろに、息がかかるほどの距離で。濡れた髪、無表情な顔。けれど、その目だけが、じっと見ている。
「やっと、見た」
女が、微かに笑う。
「遅いわ」
その瞬間。周囲の景色が、歪む。路地が崩れるように揺れ、足元が消える。落ちる感覚。いや、違う。引き戻される感覚。
――橋の上、あの場所、あの瞬間。時間が、巻き戻る。
「逃げても、同じやで」
女の声が、響く。
「見んでも、変わらへん」
暗闇が、すべてを飲み込む。
そして――また、最初に戻る。路地の入口に男は立っている。後ろを、見ないようにしながら――
*****
「……っていう話や」
俺は静かに締めくくり、ふぅっと一つ息を吐く。部屋の空気が、少しだけ重くなり、ゆっくりと目を閉じる。
「人はな」
ぽつりと呟く。
「見たないもんから、逃げようとする」
視線が、ベッドの女へ向く。
「でもな」
少しだけ、声が低くなる。
「見んかったことには、ならへんのや」
俺は、また一つ、小さく息を吐く。
「……せやろ?」
部屋には、時計の音だけが響いていた。




